天守指図考察――吹き抜けについての噂話 「天下城」という小説の作家の、佐々木譲さんのホームページの、天下城ノート http://www.sasakijo.com/azuchi1.htmの中で、天守指図に対する疑問点がいくつか出ていたので、このページでは、それに対する考察を少々・・・。 ■ 記録がないことの不可思議 (佐々木譲 天下城ノートより)>小説家の立場としては、そこに記録がなければ、あったことにしてもいい。 ☆ 吹き抜けについての噂話安土日記に、「吹き抜け」が有ったと書かかれていない理由は、指図考察2で、当時は「吹き抜け」という言葉や概念が存在せず、なんとも表現のしようがなかったために、記録に残っていないと考えています。 が、しかし。 たしかに佐々木氏の言うように、記録する(できる)者はいなかったにしても、噂としては広められたはずで、『天守指図』が発見されるまで、吹き抜けの存在などについて、噂話すら残っていないというのは奇妙すぎる。 と言う疑問はもっともな事と思われるので、この、「吹き抜け」の存在について、漠然とした噂話すら残っていない問題について考えてみました。 ■ 井上章一著 「南蛮幻想」 から さて、現在では、荒唐無稽な俗説として抹殺されてしまった?ある噂が、江戸時代から明治にかけて広く信じられていた事を、皆様はご存知でしょうか?。 この噂話について、井上章一さんの書いた 「南蛮幻想」 から引いてみます。 ☆ 青木昆陽著 「昆陽漫録」 (1760年起稿)我国ノ城ノ制ハ、西土ニコレナシ。織田殿ノ時、南蛮人今ノ城制ヲ伝フトイフ。 ☆ 百井塘雨著 「笈埃随筆」 (1770年代〜1794年)我国の城内に五重三重の楼あるもの天守といふ。則信長公、この安土城に楼を建てられしを権輿とす。是全く要害の為にあらず。信長切支丹の法を信ずる事深く、其宗の仏を祭れる為に建てられたり。故に天守といふ。天守とは其宗の本尊の名なり。 ☆ 平賀蕉斎著 「蕉斎筆記」 (1800年刊)古しへは城々に天守といふことなし、信長公の時より始りたり、其頃は切支丹の宗門行はれける故、上の主には天帝を祭りし所也、故に天主と唱へたり、肥後の熊本城には、今に仏壇のごときもの有けると也、学丹居士の咄し也。 ☆ 太田錦城著 「梧窓漫筆拾遺」 (1820年代)西洋人は、家宅を五重七重に作りて、其第一の高層の処に、天主を祭る。信長公天主の邪教を仮りて、仏法を破却する志あり・・・安土に大櫓を立てられて、天主と称す。是天下天主の始めなり・・・実は其の第一の上層に、天主を奉祀する故に、名付けたるにて、西洋人の真似をしたるなり。・・・・ ☆ 松浦静山著 「甲子夜話・正編」49巻 (1821年〜1827年)天守、以前は天主と書て、櫓の上層に天帝を祭ることとぞ。然るを上杉謙信天主の称を悪み、これを改めて天守とし、須弥の天守は毘沙門なりとて、この神を祭りしより、今は皆天守と書来ると。 ☆ 山崎美成著 「海録」第一巻 (1820〜1837年)城の中央に、殊に高やかに矢倉をつくりなし、これを殿守といへり、これはもと吉利支丹の天主をまつれる所なるより、天主といひたりしを、彼宗門御制禁の後、文字を改めてかきたる也、そのよしは、織田信長 切支丹の法を殊に信仰され、その本尊を祭れる為安土城に立られたり、これ殿守の出来し初なり。 ☆ チェンバレン著 「日本事物誌」 (1890年初版)彼はキリスト教徒たちの公然たる保護者であった・・・彼がその有名な城を建てたとき、本丸の頂上にキリスト教の神〔十字架か?〕を置いたといわれる・・・・・きわめて意味深長だが、城の本丸に対する日本語「天守閣」は、日本人のカトリック信者が採用した神の名前の訳語と同一の発音である。 ☆ 大槻文彦編 「言海」 ( 国語辞書 1891年版)天守ハ、松永久秀ガ志貴ノ多門城ニ始マリ、織田信長ガ安土城ニ盛ナリト云フ。共ニ天主教ヲ信ジタレバ、或ハ、天守ヲ祀レルモノナラムカ、 ☆ 「伝家宝典明治節用大全」 ( 事典 1894年)天守・・・ 始は楼上に耶蘇の天主を祭りたれば天主楼といひしを豊臣氏天主教を禁せしより主を守に改めしなり ☆ 岡野知十著 「少年週話」 (1899年)日本では織田豊臣の時代に基督教が盛んに行はれ、信長は南蛮寺といふ寺を建立したのは基督教のためでした、又城の櫓を天主といふのも天主教の信仰から起った事で、この様なはなしは誰もよく知っていましょう。 ■ 噂話の記録の存在 これらの、江戸時代から明治にかけての記録には、安土城天主はキリスト教の神を祭る施設 (大聖堂) として作られた、と書かれています。 ☆ 青木昆陽のころ 最初に挙げた記録を書いた、青木昆陽の時代は、秀吉によってキリスト教が禁教となり、さらに家光により、西洋の学問まで禁じられてしまっていた、西洋文明に対する徹底した禁令が、将軍・徳川吉宗によって緩和されて蘭学が盛んになるころなので、天守閣がキリスト教の天主のルーツだというような、それまで禁教令に抵触する為に、公に語る事が出来ずに、ひそかに伝えられて来た噂話が記録出来るようになった時期と考えることもできます。 ☆ 安土城天主とキリスト教の大聖堂 天守指図の特徴は、建物内部に吹き抜けが作られていること以外にも、建物内部に舞台や橋、宝塔が置かれていたり、八角形の部分があったりと、宮上氏が「奇想は注目に値する」、と表現するほど破天荒な形態なのですが、 これらの変った形態はすべて、キリスト教の大聖堂の各部分を日本の建築様式で作ったものと考えることができます。 |
最終更新日時 2006年1月3日 16:45:57 ■天守指図指図と天主台
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