天守指図考察 ―― 四重目

天主の3階部分です。
天守指図四重目

■ 信長記の柱数

 信長記には、安土城天主の3階の柱数は93本と書かれています。 宮上説では、この柱数は、太田牛一が改竄水増しした、何の根拠もない数字と言う事になっているのですが、はたして本当に何の根拠もない数字なのでしょうか?。

☆ かうらん角きほうし

 天守指図には、天主3階の柱の黒丸は76ヶ、かかれていて、信長記の記述の93本とは、だいぶ違いがあります。 しかし、図面を良く見ると、吹き抜け部分の、「かうらん」にあたると思われる線の角や、線の所々に、小さな黒丸がかかれていて、中央に、「かうらん角きほうし」と注意書きが書かれています。
 注意書きから考えて、「天守指図」の作者は、この黒丸は、柱ではなく擬宝珠のつもりでかいたと思われますが、この小さい黒丸を、「天守指図」の作者の意図を無視して柱数に入れて数えて、また擬宝珠であれば、高欄の相対する位置にも当然作られたと思われるので、この図面では転写の際に、高欄を書き落としたと仮定して、高欄の疑宝珠を復元すると、推測される擬宝珠の合計が16本になります。 

☆ 柱を1本書き落とし

 また、東側に並ぶ、小座敷・仙人の間・鳳凰の間の、それぞれの部屋の境の中央に、柱がかかれている事から考えて、対称の位置にあたる、西側の岩の間と竜虎の間の境にも、1本柱がかかれていた可能性があり、ここでも転写の際に柱を写し忘れたと考えると、天守指図における三階にかかれていた柱の数は、合計77本と考えられます。 

☆ 信長記より 天守指図の成立が先

 復元される原図の擬宝珠が16本で、同じく柱が77本。 柱と擬宝珠を合計して、信長記の記述と同じ93本になるのですから、「天守指図」の原図が、まず先に成立していて、太田牛一が「天守指図」の擬宝珠を柱数に入れて、間違えて数えた結果、「信長記」の3階の柱数93本が生み出されたと、考えられます。
 宮上説のように、「信長記」に影響されて「天守指図」が成立したとすると、池上右平は、柱数の中に、なぜか擬宝珠も含めて計画して、更に擬宝珠を4つ書き忘れたことになるのですが、これって、あまりに不自然なのでは、ないでしょうか?。

■ 部屋の用途と配置

☆ 数奇屋・黒書院

 安土城の前に信長が住んでいた、岐阜城を見学した宣教師は、岐阜城の3階には茶室があったと記録しています。 安土日記には、安土城の3階に7畳敷の小座敷があったと書かれ、この時代に小座敷と言えば、九間(ここのま)より狭い大きさの、茶会を行う部屋の事なので、安土城においても、岐阜城と同じく、3階には茶室があったと考えられます。
 また、南側にある続き間の、竹の間、松の間には、入り口に棚があって、奥に上座をあらわす床が設けてあり、また、部屋の脇の小部屋に窓が付けられている事から、この小部屋は押入れではなく、武者隠しであると考えられるので、この南側の二部屋は、下の階の南側にある部屋と同じく、対面所であり、下の階の対面所より、略式の平面を持っているので、室町時代の数奇屋から発展して、後の江戸城の黒書院に連なる、略式の対面所にあたる部屋と考えられます。 

☆ ていひき

 茶室と考えられる、7畳の小座敷部分には、「御座敷 ていひき」と書かれ、安土日記にも「でいばかりにて御絵はなし」と書かれています。
 宮上説では、でい=土壁、と解釈していますが、普通一般に「でい」と言うのは、金銀を膠で溶いた塗料の事で。 この場合、わざわざ「御絵はなし」、と書いてある事から考えて、御絵の所は全て金、ということは逆にいえば、絵の無い所は金では無いと言う、天主全体の記事から推測して、この部分の壁が白壁であると誤解される事の無い様に書かれたもので、「でいばかりにて、御絵はなし。」(この部屋は、壁が金色であるけれども、絵は描かれていない)。 と言う意味だと思われます。

☆ 茶室の演出

 さて、その金の茶室と考えられる、7畳の小座敷は、東側一面が全て窓になっていて、壁の黄金との相乗効果で、光り輝く部屋であったと考えられます。 その手前の仙人の間、鳳凰の間には窓が無く、階段を上って、鳳凰の間に入った客は、暗い2つの部屋の向こうに、光り輝く一室を目にする事になります。 
 画題は、入り口すぐの部屋に、聖徳の帝王の現われる時に出現し、梧桐の林に住むという鳳凰が描かれ。 次の部屋の、許由と巣父は、中国の伝説の皇帝、『尭』(ぎょう)の息子に、皇帝としての徳が無いので、後継者を探していた時の最初の候補者で、尭より皇位を譲られようとした時に、「穢れた話を聞いた」、と言って、隠棲して潁川(えいせん)で耳を洗い、穢れた耳を洗った水を牛に飲ませるわけにはいかないと言って牛を引いて帰った隠者の事で。 結局、皇帝の位を断られた尭は、次の候補者の、舜(しゅん)に位を譲り、舜帝の宮殿には、鳳凰が常に舞い遊んでいた、とされます。
 この鳳凰>許由と巣父>舜帝の故事による図式をあてはめると、金泥のみで、絵の描かれない茶座敷は、舜帝を暗示しているにもかかわらず、舜帝の絵が描かれていない事から考えて、 座敷の主人である信長を舜帝になぞらえて、「天皇や足利将軍が頼りないから、中国の故事にならって、血縁に関係無く、徳のある信長が、天下を治めるべきだ。」と、主張している演出なのでは、ないでしょうか?。 

☆ 逆勝手、7畳の茶室!

 その、黄金の茶室の、入り口・床・押板・棚・水棚のある小部屋、などの配置を見ると、この茶室が、茶を点てる人の左側に客が座る、逆勝手の茶室であると推測されます。
 江戸時代以降に、7畳の広間で逆勝手の茶室というのは、非常にめずらしく、というか非常識な物なので、この図が、江戸時代の大工、「池上右平」の作であったとすると、宮上説の主張通り、「專門技術者の大工なら、復元図とはいえもう少し建築らしいものを描いたであろうし、」と、批判されるべき物なのですが、信長の時代ではどうだったのでしょうか。
 信長公記によれば、天正6年正月に、右勝手六畳敷、四尺縁の座敷で信長から茶を賜った記事が書かれています。 右勝手というと、現代では、茶を点てる人の右側に客が座る本勝手の茶室の事を表すのですが、利休以前の時代に右勝手というと、文字どうり点前畳の右側に勝手が付く、現在言うところの逆勝手を表しているのです。
 つまり、信長公記の記事から考えても、信長の好みの茶室は江戸時代以降、現代においても非常識とされる逆勝手の広間であり、信長の好みでありながら江戸時代には非常識になった、逆勝手の広間の茶室が画かれる天守指図は、信長の作った天主の図面の写しと考えるほうが自然だと思われます。



最終更新日時
2006年1月29日
15:35:52

安土城復元案バナー
■天守指図

指図と天主台
記録が無い!
吹き抜けの噂
抹殺された噂
十七畳の部屋
十二間と畳


いしくら
二重目
三重目
四重目
五重目
六重目
七重目



■安土城
   復元案

安土城とは・・

安土日記
天守指図
宣教師の記録

大聖堂
日本建築史
宗教

天主復元案


掲示板
bbs書庫

参考文献

サイトマップ

ハ見寺復元案

トップページへ



[安土城とは・・] [安土日記]  [天守指図] [宣教師の記録] [大聖堂] [日本建築史] [宗教] [天主復元案]
[作者紹介] [掲示板] [bbs書庫]  [リンク] [参考文献] [付録・資料室]  [トップページへ]
前のページ
このページのTOP
次のページ
          Copyright(C) 1999- , Asitaka-Jyunnya, All Right Reserved.
             http://www1.asitaka.com/index.htm
安土城復元案のバナーです。ご自由にお使い下さい。リンクは自由です。