宣教師の記録・・・


■ イエズス会とは

マンレサの洞窟で修業中に神の霊を体験したイグナチオ・ロヨラが、
フランシスコ・ザビエルら「7人の同志たち」を募り、
1534年8月15日、聖母マリアの被昇天の祝日に、
モンマルトルの丘のふもとの小さな聖堂で、
「より大いなる神の栄光のために・・・」という誓願をたてた事に始まり、
1540年 9月27日に、ローマ教皇パウロ 3世から正式に
「イエズス会」創設の認可を受けて発足した修道会。

異教徒への布教と学校経営という二つの目標を追求し高い成果を上げたが、
イエズス会の発展とその教皇至上主義は、ヨーロッパ各地で反感を買い、
1773年にはローマ教皇クレメンス14世によって、解散を命じられる事態にまで至り、
イエズス会は消滅するかと思われたが、
ロシア皇帝エカテリーナ2世の保護 (というよりローマ教皇に対するいやがらせ)
により修道会は生き残り、その後の紆余曲折を経て復活し、
現在も、カトリック教会最大の修道会として活動している。
上智大学を経営しているのがイエズス会だそうだ。

日本への布教

ポルトガルの海外進出に伴い、教団は、インドのゴアを本拠地にして、
東南アジア、中国、日本を含む広大な地域(インド管区)を布教地域とした。
1549年、東南アジアを経て鹿児島に上陸した、フランシスコ・ザビエルによって
日本での布教が始められ、その後、信長の保護を受けたことにより、
キリスト教が爆発的に、日本にひろまった。

イエズス会の記録の背景

イエズス会では、創立者イグナチオ・ロヨラの布教の当初から、
会の組織の統一と、指導を徹底させる為、
上長に対して報告書を送る様に定められた。
この事によって、安土城の資料が、現代に伝えられる事に成った。

書簡と年報の違い

初めは、各々の宣教師が書いた書簡がインドやヨーロッパへ送られていたが、
1579年日本にやって来た、インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、
書簡によってイメージしていた日本の様子と、現実の状況に著しい違いが有る事に驚き、
各自の報告を、日本の布教長の責任で、1通の年報にまとめる様に指示して、
以後、1年に1回の年報が、インドやヨーロッパへ送られる様になった。

ルイス・フロイスの日本史

1583年にイエズス会総長より、ヴァリニャーノを通じて、ルイス・フロイスが、
「日本史」を作成する様命じられ、1549年のザビエル来日から、
1597年にフロイスが死ぬまでの日本の状況が記録されている物で、
イエズス会では、冗長に過ぎるとか、布教と関係無い記述が多いと、
あまり評価されなかったものなのですが、
その、欠点?ゆえに、歴史研究の、貴重な資料になっているものです。

最終更新日時
2003/09/15 (月)
12:30:45

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