ルイス・フロイス 日本史

                         松田毅一・川崎桃太 訳  中央公論社刊 より

――――第1部83章――――
■ 信長がその統治の過程で行った他のことどもについて

(前略)・・・彼は都から十四里の近江の国の安土山という山に、その時代まで日本で建てられたもののなかでもっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。
すべては裁断せぬ石から成り、非常に高く厚い壁の上に建ち、なかにはそのもっとも高い建物へ運び上げるのに四・五千人を必要とする石も数個あり、特別の一つ(の石)は、六・七千人が引いた。そして人々が確信したところによれば、一度少し片側へ滑り出た時に、その下で百五十人以上が下敷きとなり、ただちに圧し潰(され)、砕かれてしまったということであった。・・・(後略)

――――第2部31章――――
■ 巡察師が都に信長を訪問し、
  同地から再度、安土山を参観に赴いたこと

・・・(前略)(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我ら(ヨーロッパ)の塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。  この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術で造営された。  事実、内部にあっては、四方の壁に描かれた金(色、その他)色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他の(あるもの)は赤く、あるいは青く(塗られており)、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で覆われている。それらは青色のように見え、前列(の瓦)にはことごとく金色の丸い取り付け(頭)がある。屋根にはしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。
このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。(それらは)すべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。

信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の(邸)よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我ら(ヨーロッパ)の庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参観者に格別の驚愕を与えていた。

この城全体が、かの部厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当っている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来映えの清潔な鉄で掩われている。
上手の方に彼の娯楽用の馬の小屋があるが、そこには五・六頭の馬がいるだけであった。それは厩であるとはいえ、きわめて清潔で、立派な構造であり、馬を休息させるところと言うよりは、むしろ身分の高い人たちの娯楽用の広間に類似していた。 同所で(馬の)世話をする四・五名の若者たちは、絹(衣)をまとい、金鞘の太刀を帯びていた。三十五人の小僧がいて、夜明けの一時間前に、各自が箒を持って、それらすべての家屋に掃除に従事しているが、それはきわめて完全に注意深く行われていた。彼らはこの几帳面な外部の掃除のことだけに気を配り、いつもそのことを眼前に(思い浮かべて)いたのである。まるで毎日が盛大な祭日であるかのようであった。





☆ 誤植?

終わりの方に「同所で(馬の)世話をする四・五名の若者たちは、絹(衣)をまとい、金鞘の太刀(たち)を帯びていた。」という部分があるのですが、この時代に若者が太刀を帯びているのはイメージが少し・・・。といった感じなので、この部分は、大刀(だいとう)の誤植(翻訳者のミス?)だと思うのですがどうでしょうか?

   大刀(たち)・太刀(たち)・打刀(うちがたな)・大刀・小刀(だいとう・しょうとう)

ちょっと脱線。
日本刀の種類には、いくつかあって、
古代に使われていたのが大刀(たち)とよばれる物で、刃が直線で、聖徳太子の図に出ているかたちで、
この直線状の大刀が日本風に変化して反りが付いたのが、平安時代から室町時代に良く使われていた太刀(たち)で、刃を下にして、付いている紐で腰に佩くもので、戦国時代になると、もっぱら上級武士が使うものになります。
変わって登場したのが、打刀(うちがたな)で、室町以降、現代まで?良く使われている物で、刃を上にして腰の帯に差す刀で、江戸時代には、大小2本の打刀を差すことが定型となって、大刀・小刀(だいとう・しょうとう)と呼ばれるようになります。

古代の大刀(たち)
『聖徳太子二王子像』より
太刀と腰刀の二本差し 『芦引絵』より 打刀大小二本差し
『洛中洛外図・舟木本』より



☆ 蛇石引き上げの、西洋側の記録

信長公記には、蛇石は、一万人の人が引き上げた事になっていますが、こちらのフロイスの記録では、巨石は数個あって、特別大きい巨石は6・7千人の人数で引き上げたことになっていて、人数が違うのですが、まあ工事現場で働く人を見て、6・7千人と1万人の違いが見分けられるとも思えないので、誤差の範囲ということで宜しいのではないでしょうか?
信長公記は信長の家臣の太田牛一の記録なので、城の工事の事故で大量の死者が出たことは書いていないのですが、宣教師にとっては他人事なので?150人以上が石の下敷きになった事が書かれているのですが、6・7千人が引いて、事故が起きた時には150人以上が下敷きになるほどの巨石は、現在の安土城からは見つかっていない事と、「もっとも高い建物へ運び上げるのに」というのは天主以外には考えられなことと、信長公記には、石垣工事が始まって、1ヶ月もたたない時点で、蛇石が天主へ上げられたことが書かれているので、やはり蛇石を初めとする数個の巨石は、天守台の地下に埋められたのではないかと考えられます。
発掘時の音波や電流の調査によると、天主台の地下全体に渡って、強固な岩盤がある、という結果が出てはいますが、岩盤が1枚岩かどうかに付いては言及されていないようです。  全く自然の状態で、天守台のような形の岩盤が偶然存在したとは考えにくいので、安土城築城以前の山頂は、現在の安土町の南の、太郎坊宮が麓に建っている、箕作山の山頂のように、山頂に、岩盤や巨石の露頭が見られる状態で、自然の岩盤の余分なところを削り取り、天主台の大きさに足りない部分を、蛇石などの巨石を嵌め込んで、天主台全体に渡る岩盤を作り上げたと考えれば、発掘調査の結果と、フロイスの日本史・信長公記などの記事の双方が、いちおう、矛盾せずに説明できると思います。

☆ 外壁の色、瓦について

色彩と瓦の色に付いては1581年年報と同じように書かれていて、年報をまとめた際の文章から日本史のこの部分が成立していると思われます。 1580年書簡の内容が、フロイス日本史の天主の色彩の表現に影響を与えていないのは、年報が、日本各地からもたらされた原資料を元に書かれていて、原資料が日本に残っているのに対し、書簡は、書かれた文章を、そのままヨーロッパへ送ってしまうので、フロイスの手元に原本が残らず、フロイスが参考に出来なかった為と思われます。
外壁の色、瓦についての解説は、1581年年報の所で書いているので省略、

☆ 本丸御殿が清凉殿に類似している傍証

「この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営した」つまり、天主と廊下で互いに続いていて、信長のものとは別の宮殿ということで、発掘調査で判明した、天主との間に廊下と思われる礎石が存在する、清凉殿に類似した平面を持つ建物の事を表していると考えられます。 

☆ 安土城の馬小屋

上手(かみて)とは、一般には舞台に向って右側のことを言うのであるが、この場合は一体どちらに向って右側の事を言っているのか・・・?。




最終更新日時
2003/12/31 (水)
20:47:06

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