1582(天正10)年の日本年報 追加


■ 1582年11月05日付、口ノ津発
   パードレ、ルイス・フロイスが、
   信長の死につきイエズス会総会長に贈りたるもの。

― 日本暦、天正10年10月20日付

この書簡は、天正10年の、日本年報の追加書簡で、
通常の日本年報の、五日後の日付けで、出されたものです。

副題の通り、信長の死んだ、本能寺の変、前後の様子を、
天正10年2月14日に起った、天が赤く光る現象や、4月22日に起った、
彗星が安土山に落ちた、不吉な出来事が起る、前兆現象?の事から、
明智光秀一族が滅亡して、織田家の後継者を、決める前の辺りまで書かれていて、
通常の日本年報より、記事が多いのではないか、と思われるくらい分量が多く、
信長の死によって受けた、イエズス会への影響の大きさを、物語っているようです。

さて、この年報の中には、
安土城天主の復元に、直接役に立つ内容は、記されては、いないのですが、
天主の建築意図を、推測する元になる記事が、いくつか載っています。


(前略)・・・・・彼は、万物の創造主の、力強き御手より受けたる、
大いなる恩恵を、感謝して謙遜することなく、
かえって益々倣漫となり、日本全国の領主と称し、

日本の古老の言によれば、五十余カ国より、かつて見、
または読みたることなき、甚深なる尊敬を受くるに満足せず、
ネブカドネザルの驕慢に倣い、死すべき人間にあらず、
神にして不滅のものなるが如く、尊敬せらんことを希望した。

而して、この嫌忌すべき希望を達せんがため、その宮殿に隣接して、
城を離れたる山の上に、寺院を建築する事を命じ、
この寺院に、つぎの如く記して、その名誉心の欲するところを表した。
これを、わが国語に翻訳すれば、つぎのとうりである。


当日本の大国において、
遠方より望む者に、喜悦と満足を与ふる安土山城の山に、
全日本の領主信長は、この寺院を建立し、ハ見寺と名付けた。
これを大いに尊崇する者の、受くべき功徳と利益はつぎの如し。

第一に、富者ここに来りて尊崇すれば、益々富を集め、
下賎にして憫なる貧者ここに来りて尊崇すれば、
この寺院に来りたる功徳によって富者となるべく、
子女および後継者なき者、家系を続くるために来れば、
直ちに子孫を得、寿を長じ、平和と安楽を得べし。

第二に、生命は延びて八十歳に至り、疾病は直ちに癒え、
希望、健康及び平安を得べし。

毎月予が誕生の日を聖日とし、この寺院に来るべし。

これを信ずる者は、必ず彼に約束するところのものを得るべく、
これを信ぜざる邪悪の人は、現世においても来世においても、
亡ぶるに至るべし。 故に諸人皆、完全に崇敬するを要す。


前に述べたる如く、信長は政治を始めて以来、常に神仏の
崇拝を意としなかったが、今は盲目の極みに達し、悪魔に勧められて、
大いに尊崇された偶像を、諸国より安土に持ち来った。
ただし、これを崇拝させる為ではなく、
これによって、己を崇拝させんためであった。

日本においては神の宮には通常、神体と称する石がある。
神体は、神の心また本質ということであるが、
安土山の寺院には神体はなく、信長は自らが神体であり、
生きたる神仏である。世界には他の主なく、彼の上に
万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ。
家臣等もまた、信長自身に対するほか、崇拝すべきものはないと明言し、
同所に集めた偶像に劣らざる崇拝を致さんことを望んだ。

或人が盆山と称する石を携えて来た時、彼は寺院の最も高き所、
諸仏の上に壁龕を造らせ、ここにその石を置いた。
而して、領内の諸国に布告し、市町村においては、男女貴賎悉く
彼の生まれた五月の日に、かの寺院に来って、
同所に納めた己の神体を拝む事を命じた。
諸国より集まった人数は非常に多く、ほとんど信ぜられざるものであった。

信長がかくの如く驕慢となり、
世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、
デウスは、かくの如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給わず、
安土山においてこの祭りを行った後、十九日を経て、
その体は塵となり灰となって地に帰し、
その霊魂は地獄に葬られたことはつぎに述ぶるであろう。


信長の世子は、名を城之介殿と言い、
元来我等の教えを好み、パードレ達を庇護し、
聖堂を建つる地所ならびに十字架を建つる野を市内に与えたが、
その父を喜ばせ、或は時期を待つためか、または父と同じく欺かれてか、
その死する少し前、甲斐の国王に勝ち、その四カ国を占領して帰った時、
同地方で非常に尊崇されたる偶像を持ち帰り、
これを尾張の国に安置して、一層尊崇する事を命じた。

而して、最近都に着いた時、同所より三レグワの所に在る、愛宕と称する
悪魔に、勝利に対する感謝を表するため、二千五百クルサドを納めた。
而して、同じ悪魔に、尊敬を表するため、家に帰って雪をもって体を洗った。
これは一種の犠牲である。 然るに、この奉仕の報いとして、
その後、三日を経て、左に述ぶるが如く、
体に多くの傷を受けて死し、魂は地獄において焼かれた。・・・・・(中略)




(中略)・・・・・安土山においては、津の国に起った敗北が聞こえて、
明智が同所に置いた守将は勇気を失い、急遽坂本に退いたが、
あまりに急いだため、安土には火を掛けなかった。

併し主は、信長栄華の記念を残さざるため、
敵の見逃した広大なる建築の、そのまま遣ることを許したまわず、
付近にいた信長の一子が、いかなる理由によるか明らかでなく、
智力の足らざるためであろうか、城の最高の主要な室に火をつけさせ、
ついで、市にもまた火をつけることを命じた。・・・・・・・(中略)




(中略)・・・・・この世においてのみならず、
天においても彼に勝る者がないと考えた人が、
かくの如く不幸にして憫なる死を遂げ、
彼に劣らず倣漫であった明智もまた同じく不幸なる終焉を遂げた。
併し前に述べたとほり、
信長が稀なる才能を有し、賢明に天下を治めたことは確実で、
その倣慢のため身を亡したのである。

毎日新しいことが多く起っているが、余り長くなるのでつぎの季節風期に譲る。
我等一同は尊師の聖なる犧牲において推薦せられ、また祝福を受けんことを願ふ。(終)





☆ 悪は滅びる⇒滅びた者は悪い、結果論による記録

この年報で重要なのは、書かれた時期が、本能寺の変の終わった後で、
全ての現象が、結果論でかかれていることです。

これ以前に書かれた、信長を批判する記事は、
慢心とか傲慢などと表現されるのみで、
宣教師の立場で考えれば、悪魔に唆され、
デウスの怒りに触れるべき行為である、悪魔の神殿こと
岩清水八幡や、伊勢神宮の造営に対して、何も触れられていません。

つまり、
キリスト教に理解を示し、宣教師を積極的に保護した人物が、
かくもあっけなく、信頼していた部下に裏切られて死ぬ事は、
宗教的に言って非常に問題がある出来事なので、
何らかの、宗教上合理的な理由付けが必要になって、
その結果、デウスの怒りに触れそうな行為が、探し出され、
このような理由付けがされたと考えられます。

信長の記事だけ見ると、宗教上の偏見によって、
事実が曲解された、と考える余地もあるのですが、
信忠の記事では、善光寺如来の勧請と、愛宕神社参詣の悪行?によって、
デウスの怒りに触れ、死ぬことになった、とされています。

信忠程度の事でも、デウスの怒りに触れて殺されても、おかしくないのですから、
       ・・・って、この程度の事で怒りに触れるのであれば、
       デウスの怒りに触れない人のほうが少ないような・・・(^_^;)
ハ見寺が、只の祈願寺や、菩提寺であった場合、
信長は自らが神体であるとか、誕生日を聖日として、などという、
込み入った部分の悪行?を創作する必要は全くなく、
ただ単に、悪魔の殿堂を建立し、悪魔の偶像を尊崇した、と書くだけで、
宗教上、滅亡する理由が十分成り立つので、
この場合、フロイスの書いた記事の通り、秀吉や家康の様に、
信長も神になろうと画策していた、と考えられます。

☆ ハ見寺(そうけんじ) の御利益

日本の言葉に要約すると、こんなところでしょうか。

主祭神  織田信長
祭礼   例祭 五月11日
      縁日 毎月11日
御利益  金運向上・開運招福
      子宝安産・育児平安
      延命長寿・疾病平癒
      健康平安・福徳授与

これを見ると、当時の人々は、金と子供と、健康で長生き、が、主に欲しかったらしい。
現代良く見かける、縁結び・厄除け・家内安全・交通安全・合格祈願、
などが載っていないのは、時代の差か・・・。

☆ 信忠が、本能寺の変3日前に、愛宕山参詣 

本能寺の変の前、明智光秀は、天正10(1582)年5月26日に坂本から亀山の居城に移り、27日に愛宕山の愛宕大権現に詣でて参籠し、太郎坊の籤を二度三度引いた後、28日に西之坊威徳院で連歌会を行った、と記録には残っています。
それでは、信忠が愛宕山に参詣した、本能寺の変三日前とは何時の事でしょうか?
この年報の別の場所には、「而して夜半出発し、都に着いた時すでに明け方であった。・・・これは当82年6月20日(天正十年六月一日)水曜日のことであった。」と、書かれていて、 つまり、現代では、6月2日払暁の出来事とされる本能寺の変を、宣教師は6月1日深更に起ったと考えているらしいのです。 6月1日の3日前という事は、天正10年の5月は29日までしか無いので、5月27日にあたり、信忠と光秀は5月27日に愛宕山で出会っている計算になるのですが、実際はどうだったのでしょうか?

また、「家に帰って雪をもって体を洗った。」と、書かれていますが、五月のつごもりに雪が降るのは、富士山くらいの物なので、この記事は、二条御所から発掘された地下倉などの氷室に蓄えた雪で禊をした事を表していると思うのですが、参詣の後に雪で禊をする例は、あまりきかないので、詳細は不明。  もっとも、イエズス会の報告書は、何通も写本が作られてヨーロッパへ送られているので、書写の際に綴りを間違えた可能性も考えられ、 ここは常識的に、水垢離を取ったと理解してよろしいかと・・。

☆ べつに信雄が、バカだとは・・・。 

ここの部分の記事を取り上げて、宣教師は、信雄がバカだったと言っている、という向きもあるようですが、宣教師は、安土城炎上は、基本的には神の意志によるもので、信雄が焼いた原因は明らかでは無い、と書いていて、智力が足りないという部分は推測の形で書いています。
つまり、はっきりした理由がわからないから、取りあえず、バカだったのでは?と信雄が焼いた理由を推測したまでで、本当にバカかどうかに付いては書いていないので、決めつけるのはおかしいと思います。
それに、大名家としての織田家を残したのは、信雄なのですから、組織のトップに立って部下を率いていく能力には欠けても、組織のなかで、自分の利益を確保しつつ生き残る、いわば官僚としての能力には、非常に長けていたのではないでしょうか。






最終更新日時
2003/12/31 (水)
20:47:58

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