地階について-補足 投稿者:T.m 投稿日:11月25日(日)12時05分31秒
会津若松城天守は、蒲生氏郷が建てたものです。
当初は、付櫓部分を介して石垣の上と下の階は行き来できたとも
考えられますが、加藤明成による改築により、完全に隔絶された
と考えられます。
ちなみに、熊本城(大)天守も本体に地階への階段は設けられて
いなかったようです。
地階について 投稿者:T.m 投稿日:11月25日(日)11時34分38秒
お久しぶりですがT.mです。
地階=石蔵については、やはり貞勝は見ていなかったと思います。
それは、地階は天主内にあっても別空間であったと考えられるから
であり、天主と他の建物は、『天守指図』のように廊下を以って
直接、石垣上の一階に繋がっており、一階と地階の間には正式な
階段も無かったかも知れません。
江戸時代半ばの会津若松城天守がそのような状態であったらしい
のですが、それは当初からのものであり、入り口部分の付け櫓は、
現状の広島城天守のごとく、走り櫓(廊下)の名残りであったと
考えられます。
それは、義父であった信長の安土城天主に倣ったものでは
ないでしょうか。
発掘調査の結果、石蔵跡からは、多数の束柱のものとみられる
礎石やその痕跡が発見されており、実用的な空間であったと
考えられますが、それについて貞勝が記していないのも、
そのような状態にあったからこそではないでしょうか。
と、すると、そのような空間に宝塔が据えられ、礼拝所まで
設けられているというのは考え難く、また、見ずしても金灯篭
が吊るされていたことを記しているのですから、もし吹き抜けが
実在していれば、
「中に吹き抜けあり」
という位のことが記されていても良いのではないかと思います。
説明のための説明 投稿者:淳也 投稿日:11月24日(土)22時12分45秒
森さん、ご無沙汰しております。
>私も、吹き抜けは締め切られて見えず、記録に留められなかった、
>という一方で、吹き抜け内の金灯篭はちゃんと記述に留められている、
>という説明はよく分からないのです。
この辺の理論は、私もおかしいと思うのですが、
書かれなかった理由は何か?という問題は、
あまり深く考えた事は無かったので、
単なる、付け焼刃で考えた、説明のための説明です。
あと、
>能舞台は人に見せてナンボの施設でしょうに、
という件ですが、
私は、安土城天主は、大聖堂を模した物と、考えているので、
徳川家康に対する饗宴が、座敷のある天主ではなく、
ハ見寺にある能舞台や、江雲寺御殿で行われている事から、
天主内部の舞台は、大聖堂に必要な施設(合唱隊の席)であって、
実用的な意味は、全く無かったと考えています。
「安土日記」の捉え方 投稿者:森 俊弘 投稿日:11月24日(土)20時51分35秒
淳也さん、ご無沙汰しております。
吉良さんからの厳しいツッコミが展開されておりますが、
>これらの、記録に書かれなかった物は、どう説明するのでしょうか?
という問いに対しては、確かに吉良さんの論法が少々まずかったと
見受けますが、最終的には「書かれなかったから載っていない」としか
言いようがありません。全てが記録される訳ではない、というのは
先に淳也さん本人がおっしゃったことですよね:。
何かやりとりにおける淳也さんの説明は、説明のための説明で、
吉良さんご指摘のように
>都合の悪いものは見なかった
>書かなかったとしているように思えますが
と感じます。
私も、吹き抜けは締め切られて見えず、記録に留められなかった、
という一方で、吹き抜け内の金灯篭はちゃんと記述に留められている、
という説明はよく分からないのです。
あと、吉良さんもご指摘ですが、能舞台は人に見せてナンボの施設
でしょうに、これだけ詳細な記録に何も言及がないっというのは
やや感覚的に過ぎますが、確かに釈然としません。
ではまた。
記録になくても・・・。 投稿者:淳也 投稿日:11月23日(金)21時55分41秒
発掘調査で判明した、鯱瓦の存在、
石倉内部七重目の様子、天守台中央の穴を使った施設、
広くてまっすぐな大手道などは、
当時においては非常に珍しいものであったにもかかわらず、
安土日記には書かれていません。
安土日記に書かれていないから、なかったとするのでは、
これらの、記録に書かれなかった物は、どう説明するのでしょうか?
無題 投稿者:吉良 投稿日:11月23日(金)16時46分33秒
都合の悪いものは見なかった
書かなかったとしているように思えますが。
やはり、安土日記にすら書かれていない以上
そのようなものはなかったとするべきだと
思います。
建築の記録について 投稿者:淳也 投稿日:10月15日(月)21時59分49秒
建築の記録というものは一般に言って、
あまり詳しくは書かれていない物で、
日本人や宣教師の記録がたくさんある大坂城でも、
内部空間は全く復元できない状態なので、
安土城の、内部空間の特徴である、
吹き抜け空間についてまったく書かれていなくても、
特におかしいとは思えません。
どちらかといえば、安土日記の様な、座敷の大きさと
画題などが、詳しく書かれた記録が残っている方が、
珍しい事だと思います。
吹き抜け空間について 投稿者:吉良 投稿日:10月14日(日)23時50分51秒
それはちょっと納得できかねます。
吹き抜け空間や張り出しの舞台といったものは
当時の建築においては非常に珍しいもので、信長の
自慢であったと思います。
それをみせなかったとはかんがえられないのですが。
それに安土日記からは、話がそれますが
もし信長が大聖堂を考慮にいれてつくったとしたら
宣教師に見せないはずはないと思います。
南蛮資料にも吹き抜け空間についてまったく書かれてません。
これに関してはどうお考えですか?
RE:疑問其の2 投稿者:淳也 投稿日:10月14日(日)15時24分17秒
安土日記の記事は、
部屋の大きさと画題についての記録が、主に書かれ、
廊下や階段については、殆ど書かれていないので、
張り出しの舞台や橋も、廊下に類するものとして、
省略されたのではないかと思います。
また、天守指図の平面で考えると、
吹きぬけ部分に面した襖が、全て閉ざされた状態でも、
安土日記に書かれた部屋を、全て見て回ることは可能なので、
一般的な、御殿の使い方と同様に、縁側の反対側に有る、
襖を閉めた状態で、座敷が使われていたと考えれば、
吹きぬけ部分に関する記事が全く書かれていなくても、
おかしくは無いと思います。
なるほど。この二つについてはこれで説明できるのかもしれません。
では、張り出しの舞台や橋のことは何故書かれてないのですか?
これは、見えない知らないということは、ないと思うのですが。
信長記系の資料は全て、安土日記が元になっているので、
安土日記に書かれていない理由についてですが、
吹きぬけ、という物が初めて作られたのは、
確認できるものとしては、安土城が最初なので、
当時の人は、吹きぬけという概念を、
表現できなかった為に書かれなかったと思われます。
宝塔に関しては、安土日記には地下一階の記事が無いことから、
(金灯篭は、一階の記事の最後に、御納戸の数七つ、この下に金灯篭…、と書かれる。)
地下の部分は見ずに、一階の納戸から地下をのぞいただけと考えられるので、
暗い部分なので、黒漆塗りの宝塔は見えなかったか、または、
信長の引越しまで、まだ半年あるこの時期には、
細工の細かい仕事が要求される宝塔は、完成していなかったのではないか、
と、考えています。
素朴な疑問なのですが、安土日記をはじめとする
信長記の類に吹き抜けのことや宝塔のことが
一切書かれていないのは何故ですか?
「城郭史研究」への論文掲載おめでとうございます。
まだ読んでいないのですが、
論文が掲載される事自体がスゴイことだと思います、
感想は、また改めて書かせていただきたいと思います。
では。
拙稿「再読『安土日記』−安土城天守に関する一考察」が
掲載された『城郭史研究』がこのたび発刊されました。
こちらのHPでも時々発言しておりました私の意見の
基礎ともいうべき内容ですので、機会があればご覧ください。
またご意見を賜れれば幸いです。
ではまた。http://www01.u-page.so-net.ne.jp/fb3/castle/association.html
天主を「清涼殿」に見立ててそのように
呼んだのかもしれませんね。
駿府城では、広間を「南殿」、対面所を「前殿」と
称していたようです。
安土城本丸に建っていた建物は、清涼殿に似た間取りのようです。
信長公記の中で信長は「南殿に上り・・・」と言っている場面があり、
南殿と言うのは、御所の正殿である、紫辰殿の事なので、
行幸御殿に対する表現にしては、大袈裟な言い方だと思っていたのですが、
寝殿一棟で、御所が構成される場合、清涼殿の形に作って紫辰殿を兼ねるので、
この場合も清涼殿が紫辰殿を兼ねていたと考えれば問題無いですし、
清涼殿にしては異常に床が高い事も、紫辰殿を兼ねていたとすれば、
紫辰殿の南階段は18段に作られる伝統に沿った為に、
床が高くなったと考えられるので、
発掘の結果、「南殿に上り・・・」と言っていた信長の表現が、
正しかった事が証明されて、一件落着といった所でしょうか。
NHK総合のテレビ放送で『信長の夢・安土城発掘』というタイトルで
安土城の発掘結果について、
2月17日(土)午後9時より放送されるそうです。
興味のある方は見てください。
麝香の文字が頭につく単語は、
麝香猫、麝香鹿、麝香草などなど、
いろいろあるのに、絵に書かれる麝香は、
大抵の場合、麝香猫になる事から考えると、
昔の猫には、異国情緒があったのでしょうか?
亀腹とは、関係ないのだろうか・・・?
当時一般的な 倉の床仕上げは、漆喰だったのだろうか?