甫庵と安土城天主 投稿者:TM 投稿日:10月23日(月)23時40分10秒
甫庵と安土城との関連付けが今まで無かったのは、
まさに『 甫庵信長記 』の素っ気無い記述ゆえだと思います。
しかし、全く関心をもっていなかったかと言えばどうでしょうか。
前田利常が甫庵を召抱えたのは、「歴史家」としての彼の業績を認めたものであり、
周りからも歴史の生き証人として一目を置かれ、
彼自身も、より自覚を高めたであろうことは想像に難く無いと思います。
そうしたなかで、甫庵にも安土城天主についての質問が寄せられ、
あらためて関心を抱いたとしても、おかしくは無いのではないでしょうか。
宮上氏の提示された『 天守指図 』の作者の条件に、
まさに甫庵は最適な人物ではないでしょうか
『 天守指図 』を復元図としてみた場合、一から池上右平が作りあげたとすると、
他に記録の無い吹き抜けを、はたして取り入れるような冒険をしたかどうか
という疑問(創造の可能性は別ですが)もあったのですが、
甫庵の言うことであれば、説得性をもって受け入れられたのではないでしょうか。
小松城本丸御櫓の吹き抜けについても、
甫庵が先か後かを再度検討しなくてはいけないかも知れません。
続いて 投稿者:森俊弘 投稿日:10月23日(月)19時08分59秒
つまり、推論の次は結論であるべきで、
推論の次に推論。その推論から結論といったかたちでは
非常に不安定な立論になってしまうのです。
推論>結論>そこから推論ってのも一般によく見かけますが、
これも不安定ですよね。
う〜ん。 投稿者:森俊弘 投稿日:10月23日(月)19時04分52秒
小瀬甫庵ですかね。
でも、そうとしすれば、何故いわゆる「甫庵信長記」で
言及がないのでしょうか。
それに、そうした関連づけは他の人でもいくらでもできますが。
例えば前田利家本人の直話から家臣へ伝わっていた…とか、
実は知られていない見聞記録が加賀藩庫にかつてあって、
それをたまたま見た藩士が…とか。
いままであがってきた丹羽、小瀬などどれも蓋然性が高そうなのは
そうしたことが理由でしょうから、何とも可否は議論できません。
『指図』の製作者候補 投稿者:TM 投稿日:10月21日(土)01時45分25秒
『天守指図』の原図を製作した可能性のある人物に思い当たりました。
最初、信長の近臣に仕え、その後も豊臣政権の要人に仕え、
最後は前田利常に仕えた人物。
某城の縄張りも彼によるものと云われています。
他に記録の無い吹き抜け等を平気で付加えられる人物。
誰だと思いますか。
よく知られた人物です。
絵をよく知らない人の見聞… 投稿者:森俊弘 投稿日:10月17日(火)22時38分28秒
こんな書き方するところを見ると、この拝見者、
あんまり絵画、故事に関する素養がないのではと
疑ってしまいます。名前を間違っていることといい、
画題の観察など、ほんと正直に聞いたまま、
見たまま記述したんでしょうか。
ちょっとトホホ。
呂洞賓 投稿者:淳也 投稿日:10月17日(火)21時24分09秒
呂洞賓が、杖を投げ捨てる、と 書かれているのは、
呂洞賓と、李鉄拐の事と思われるが、
李鉄拐の杖は、空中へ投げると龍に変わるものなので、
投げ捨てる、と言う表現は、なにかおかしいような・・・。
卓見ですね! 投稿者:森俊弘 投稿日: 9月23日(土)21時58分17秒
「斧鉞」とはなかなか卓見ですね。
…牧絵に付帯した画題でしょうか?。
ひらがな表記ってのは判断が難しいという好例ですね。
「ふえつ」とは? 投稿者:淳也 投稿日: 9月15日(金)23時02分27秒
安土城2階の説明の中に、
「北廿畳敷 駒之牧之御絵有 絵の ふりたる所
是 ふゑつの図と申 」
と書かれた部分があるのですが、
「ふゑつの図」とは、何の図なのでしょうか?。
漢字の候補は二つあって、
その1.「傅説」殷の高宗に見出されて卑賤の身から宰相となった人物。
その2.「斧鉞」皇帝から、出征する将軍に与えられる裁判権の象徴。
さて、安土城に使われたのは、どちらの「ふゑつ」でしょうか?
1階の場合。 投稿者:淳也 投稿日: 8月16日(水)21時13分44秒
一階の場合も二階と同じ様に、対面所上段の裏側に当たる、
10畳・12畳の部屋が最後に書かれている事から、
表座敷の格式の高い部屋から順番に書いていったので、
納戸や居間といった、奥向きの空間が、
最後に書かれる事になったのではないでしょうか?
>また、『天守指図』の平面構成からすると
>二段広縁は無意味のような気がするのですが・・・・
立面図を書くと、意味がわかります。
この辺りの事から、『天守指図』派に、なったのですが・・・。
天主を御殿として使う以上、来客用とは別に、
信長の使う「お成り廊下」(この場合、お成り階段)が、
上段の間の後ろに必要になるのですが、
『天守指図』では、その点がきちんと考慮され、
特に、二階のこの部分では、「お成り階段」を設ける為、
他の部分より一間外側に張り出しが設けられ、そのぶん、
屋根が低くなっても、天井高さを一定にする為に、
張り出した部分の床が低くなった、と 考えられるからです。
でも 投稿者:TM 投稿日: 8月15日(火)09時17分21秒
でもその場合、
花鳥の間、御座之間に続いて記載されていても
よいのではないではないでしょうか?
また、『天守指図』の平面構成からすると
二段広縁は無意味のような気がするのですが・・・・
なるほど。 投稿者:森俊弘 投稿日: 8月10日(木)23時23分16秒
なるほど納得です。
口 投稿者:淳也 投稿日: 8月10日(木)22時47分10秒
文意的には「入り口」と思われますが、
他の階では使われていない事から、
天主指図に書かれるような、
この階にだけ存在する、
居間と納戸の境の帳台構の事と考えるのですが、
その場合、絵が描かれないのは不自然なので、
仮説を立てて検討中です、
口 投稿者:森俊弘 投稿日: 8月 8日(火)23時36分35秒
文意的に言えば「口」とはその階への
「出入り口」の「口」ではないのでしょうか。
では。
納戸の口 投稿者:淳也 投稿日: 8月 7日(月)22時48分58秒
平安〜室町時代ころまで、納戸と言えば寝室の意味であったのが、
江戸時代には、物置に変化した事を考えると、
信長のころは、寝室兼物置だったのであろうか?
室町時代以前を考えれば、納戸の口の八畳とは、居間の事だが、
江戸時代的に考えると、単なる物置の入り口にある部屋になるようだ。
RE:擬宝珠ではなく柱 投稿者:淳也 投稿日:07月15日(土)21時55分10秒
ツリー型掲示板に移動させていただきました。
3階通路部分には、「かうらん角きほうし」と、書かれているので、
少なくとも、指図の作者は、疑宝珠のつもりで書いたと思われます。
それにもかかわらず、信長公記には、疑宝珠を含んだ数が
柱数として書かれている事から、
天主指図の後に、いわゆるU、V類本が成立したと思われます。
なぜなら、
柱数の中に疑宝珠を含めて建物を計画することは有り得ないのに対し、
図面に書かれた疑宝珠を柱と読み間違える事はありがちな事だからです。
この事から、天主指図 池上右平創作説は成り立たないと思います。
擬宝珠ではなく柱 投稿者:森 俊弘 投稿日:07月06日(木)21時17分59秒
どうも。
3階の橋らしい通路に描かれている■は、
擬宝珠ではなく柱なのでは?
そして擬宝珠は特に指図には描かれていないと
見る方がいいのではないでしょうか。
これは最上階の縁側にしてもそうですよね。
従って、この批判に関しては、宮上氏にもまだまだ
分はありまするな。
では。
宮上氏の反論って・・その2 投稿者:淳也 投稿日:07月01日(土)17時17分52秒
宮上氏の反論では、
天守指図は、池上右平の創作である、と、していますが、
信長公記に書かれる、3階の柱数には、高欄の疑宝珠も含まれて居るので、
信長公記から指図が作られたというのは、少し無理があるようです。
(池上右平の大工棟梁としての能力を、馬鹿にした理論だと思います。)
柱数の問題は、建築の素人である、太田牛一が、
指図に書かれた疑宝珠を柱数として数えてしまった、
と 考えた方が、
理論に無理が無いと思います。
穴開き瓦の用途は何? 投稿者:淳也 投稿日:06月19日(月)19時52分06秒
安土城から発見された瓦の中に、
中央に穴の開いた丸い巴瓦があるのですが、
これは、何に使われたのでしょうか?
私の知っている範囲では、飛鳥時代の飛鳥寺や、山田寺から発見された、
垂木先瓦以外には、中央に穴の開いた丸い瓦の使用法が、
思いつかないのですが・・・。
米は金箔より高価? 投稿者:淳也 投稿日:06月06日(火)19時09分25秒
安土城の外壁は下見板張りというのが、内藤説や宮上説で挙げられていますが、
初期の城郭建築において、下見板張りの多い理由は、
白壁に使う糊に、高価な米が使われていた事から、
全体を白壁にするには費用がかかり過ぎる、と言う理論で。
後に、
糊が海藻から作られるようになって白壁が一般に普及したのは事実ですが、
壁を漆塗りにしたり、金箔を張ったりしたりする人が、
米糊にかかる費用が出せないとは、とても考えられません。
という事で、安土城の壁は西洋の記録から、白壁が基本だと思います。
安土城天主は城郭建築? 投稿者:淳也 投稿日:05月24日(水)20時10分04秒
昔から、
安土城の復元は城郭建築の形式で考えられてきましたが、
はたして、安土城建築当時、大規模天主を建てる
城郭建築の形式は確立していたのでしょうか?
天守指図を見ると、鎌倉〜室町時代に改造された、
奈良〜平安時代の寺院建築の構造に似た形式に復元すると
柱や梁が自然に納まる様です。
宮上氏の反論って・・ 投稿者:淳也 投稿日:05月20日(土)22時04分30秒
国華の記事を読みました。
宮上氏の反論は、
内藤説が持っている、資料の恣意的な解釈をもって、
天守指図を否定している所がおかしい様ですね、
宮上氏の論で、天守指図が否定できるなら、
宮上氏の発見した大阪城本丸図を後世の創作とする説も
出来てしまうような気がします。
「国華」入手しました。 投稿者:淳也 投稿日:05月14日(日)22時24分25秒
安土城研究の基本?国華をやっと手に入れました、
東京都立中央図書館で、コピーしてもらったのですが、
始めてだったにもかかわらず、どこかで見たような、入り口でした、
あの入り口>傘立て室>二層のコインロッカーって、どこで見たんだろう?
さて、
図書館のある、有栖川宮記念公園は、都会の中とも思えない
自然環境で、少し三島の楽寿園に似た感じでした。
葺き合わせ 投稿者:淳也 投稿日:04月25日(火)22時38分13秒
葺き合わせって、瓦屋根の場合、
下地の野地板と、瓦の二回あるのかな?
RE:続いて 投稿者:淳也 投稿日:03月13日(月)00時35分37秒
>見取り絵図に形態の実測性を求めるのは困難です。
が、しかし、八角平は、きちんと多角形に表現されている事から、
形がわかる部分は実測で書かれたと思われます。
また、1687年に膳所藩で作成された図面がハ見寺に保存されている以上、
1671年頃に池上右平が指図を書いた際に測量図を作成していれば、
ハ見寺に図面が残らないはずは有りません、
さらに、1671年に測量図が作れるほど、焼け跡が片付けられていれば、
その20年後の図面の天主台が、四角に表現されるのはあまりに不自然です。
その事からも、
江戸期には天主台の図面が作成できる状態ではなかったと思われます。
―――――――――――――――――――――――――――――――
信長廟の石の事ですが、
93cmX70cmの石を、2尺四方の穴から抜き取るのは不可能だと思います。
>それから、名石といわれる「盆山」ってあんな平凡な石なんですか。
「盆山」を名石と言ったのは、後世の歴史家で、当時の記録には
名石である、とは書かれていません。
この場合の「盆山」は、信長の化身なので、
信長が気に入った物であれば、どんな形の物でも良かったと思われます。
RE:(無題) 投稿者:淳也 投稿日:03月13日(月)00時34分02秒
天守指図の、部屋の大きさの表記は、5・6階 部分の単位は全て「間」が使われ、
4階では「四畳半」のみで単位が省略され、
3階で、今問題になっている「間」と「畳敷」になり、
2階以下で、「てう敷」「畳」「畳敷」(他の「てう」の下には畳が付いてます)
が混ざって使われています。
つまり、3階の部屋の単位は、上の階の「間」と、2階以下の「てう敷」「畳」「畳敷」の
中間に位置しているので、
畳の表記に「てう」が使われ、単位が省略されてもおかしくない場所で、
読む時に、上の階からの流れで、「間」と読み間違う可能性の高い位置にあります、
また、安土日記の記事は、太田牛一が、村井貞勝の拝見記から書き写したものなので、
他人の字で、読みにくい事もあった、と思われます、
以上の事から、「十二間」は、「十二てう」の書き間違いの可能性が高い、と考えます。
「盆山被置」は、「盆山を置かせられ」と、読み下せるので、読み方は変わりません。
―――――――――――――――――――――――――――――――
>「おかしな」というのは、「指図」を扱う上では御法度ですよ(笑)。
>内藤氏も「吹き抜け」や「8角形」が常識でもって「おかしい」「存在しない」と
>否定してはいけない、と宮上氏に言っておられます:。
>「指図」天主こそ常識破壊の象徴ですから:。
城郭研究の分野では、「吹き抜け」や、「八角形」は常識破壊ですが、
当時流行の、キリスト教では「吹き抜け」や「丸屋根(ドーム)」は常識であり、
寺院建築でも、奈良の喜光寺の様に、吹き抜け風の空間、は昔から存在していますし、
八角円堂 も 常識です。
さらに、左構えの能舞台も存在していれば、金箔張りの3間堂も存在しています。
「天守指図」は、全体を見ると常識破壊ですが、以上の様に、
一つ一つの部分は、昔からある、常識的な形をしています。
その中で、金灯篭のみ非常識な、
存在しない(と思われる)形で表現される事は、考えにくい事だと思います。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
>同じ追記部分にある 「高さ十六間ま中」
と、いうのは本文冒頭に見えてますよね。
つまり、追記部分が、全て間違いとは言えない という事です。
宮上氏は、どうして広さの追記が誤解でなく、改竄であると判断したのでしょうか?
続いて 投稿者:森 俊弘 投稿日:03月06日(月)21時08分11秒
>1687年製作の「安土古城図」では、天主台が
>外は四角 中が八角形に書かれています、
> という事は、1687年頃には
>天主台の形がわからない状態であったと思われます、
見取り絵図に形態の実測性を求めるのは困難です。
上記のご指摘分だけでも、絵図が状況をよく観察してるなって思います。
天主台入口の石段も様式的にですが描かれてますしね。
>1671年頃に池上右平が指図を書いた際に図面を作成していれば、
>安土山の持ち主であるハ見寺に図面が残らないはずも無く、
>その事から、
>江戸期には天主台の図面が作成できる状態ではなかったと思われます。
文書の残る残らない、所在するしないというのは、多分に状況的なものであり、
ハ見寺に現在ないからといって即断できません。
池上右平、ないし実測に携わった人に対して、僧侶が「物好きなことですな、フォフォ」
といってそのまま、と言えば言えますし、あったとして幕末期に火災で焼失したのかも
知れませんしね:。
こうした論点は肯定・否定何とでも説明できます。
江戸期には少なくとも二ノ丸の信長廟までは整備が行われていたようですし、
何より焼失した安土城にはその後しばらくして織田氏などが入城しております。
これは感想ですが、いつまでも焼け跡を整備しないっていう方が
不自然な気もいたします。
あと、城の礎石って地面に置いてあるだけの物も多いようです。特に、安土城天主の礎石に
ついては、現状で見てもほとんどのものが位置はともかく原状をとどめておらず、
反転したようなものもあると指摘されております。大穴を掘らなくても、抜こうと思えば
抜けるでしょう、多分(発掘調査でも、礎石の抜き取り穴が明瞭に出てくる場合があります)
ともあれ、早すぎる発掘が悔やまれるといえば悔やまれます。
それから、名石といわれる「盆山」ってあんな平凡な石なんですか。
すごく平凡な石に見えますが。床や書院に置くには無粋な気もいたします:。
>天皇のための御殿があり、天主と廊下で結ばれていた事が 書かれていて、
>最近の発掘で、清涼殿に似た礎石配置が本丸跡で見つかっている事から、
これも、発掘調査で清涼殿(仮)と東方の食堂などの炊事施設(?)を結ぶ長い廊下が
見いだされてますよね。このことは「信長公記」にも記述が見えますが、
そうした記述じゃないのでしょうか。宣教師の記録にも「宮殿」と結ばれて
いて、ということで、「天主」とは明言されてなかったような…。お汁が冷めないように
という文章も見たことがありますから、清涼殿(仮)と炊事施設(?)の関係とも
合致しているようですし。
手元に資料がないので、追って確認しますね。
では。
(無題) 投稿者:森 俊弘 投稿日:03月06日(月)20時36分51秒
>{をかせられ=を架せられ}という、意味は同じで表記が変わったという解釈は、
>6階の記述にある「ひうちほうちゃく つらせられ」の記述が
>U.V類本でも変化していない事から、成り立ちにくいと思われます。
では、当ページに「てう」を「間」と誤った、とされていますが、
「てう」の表記が残されている部分が「安土日記」には多くあります。
するとこれも成り立ちにくい説になりましょうか。
こうした文字遣いについて、厳密な法則性を設定はできないように思います。
ちなみに、「日記」で「盆山被置」とあるのが、
U・V類本では、「盆山」「を」「をかせられ」となっていることも
ご注意いただきたいと思います。
>指図だけ を見る限り、宝塔によく似ています。
>火袋より竿のほうが太い金灯篭は、存在しない(と思う)ので、
>灯篭の表現としては、おかしな形状です、
「おかしな」というのは、「指図」を扱う上では御法度ですよ(笑)。
内藤氏も「吹き抜け」や「8角形」が常識でもって「おかしい」「存在しない」と
否定してはいけない、と宮上氏に言っておられます:。
「指図」天主こそ常識破壊の象徴ですから:。
>同じ追記部分にある 「高さ十六間ま中」
と、いうのは本文冒頭に見えてますよね。
>四方は省略せずに一尺だけ省略するのはおかしいと思います。
というのも、当時の写本には句読点がないですから、
「 一尺五 六寸四方 」だとそうでなくても間違われやすいのに
誤読されませんか。突き詰めると水掛け論になってしまいますが、「四方」は
区切りとでも考えるべきでしょう。
RE:さらに続いて 投稿者:淳也 投稿日:03月06日(月)00時58分30秒
1687年製作の「安土古城図」では、天主台が
外は四角 中が八角形に書かれています、
という事は、1687年頃には
天主台の形がわからない状態であったと思われます、
1671年頃に池上右平が指図を書いた際に図面を作成していれば、
安土山の持ち主であるハ見寺に図面が残らないはずも無く、
その事から、
江戸期には天主台の図面が作成できる状態ではなかったと思われます。
石倉中央の穴については、二尺四方の大きさ である事から、
礎石の抜き取り穴にしては、小さ過ぎると思われます。
焼失後に攪乱された可能性は有りますが、石を掘り出す為には、
石より大きい穴をあける必要があるので、
二の丸の信長廟にある石が、
天主台中央に あった可能性は低いと思います。
私は、信長死後、ハ見寺本堂中央に信長像が置かれ、
元あった 弁財天像が2階に置かれた、事から、
ハ見寺2階に置かれていた「盆山」を、二の丸の信長廟に置いたと思います。
つまり 信長生前 ハ見寺 一階=弁財天 2階=盆山
信長死後 一階=信長像 2階=弁財天
二の丸信長廟=盆山
という事ではないでしょうか?
橋廊下の事は、南蛮資料でも、
天皇のための御殿があり、天主と廊下で結ばれていた事が 書かれていて、
最近の発掘で、清涼殿に似た礎石配置が本丸跡で見つかっている事から、
橋廊下も あったと考える方が自然です。
では。
RE:無題 投稿者:淳也 投稿日:03月06日(月)00時53分31秒
>「六寸四方」の前の一尺は省略され、次の三寸四方については、
>行替えしたため再度一尺を前置きしているのです。
柱の記述が
「 一尺五 六寸四方 」ならば一尺が省略されていると思いますが、
「 一尺五寸四方 六寸四方 」と書かれているので、
省略は無く、文字どうりの意味ではないでしょうか?
四方は省略せずに一尺だけ省略するのはおかしいと思います。
>「安土日記」には本文と追記の2つが存在し、
>宮上氏は検討の結果、追記は後の書き込みで信憑性が低いと・・
宮上氏は、同じ追記部分にある 「高さ十六間ま中」 を採用しながら
「広さ南北へ廿間 東西十七間」 のみ信憑性が低いとしています、
天主台の南北の長さは十七間しか無いので、
この記事は 何らかの誤解にもとづくものですが、
信憑性が低いとする追記部分の、一部は採用し 一部は書かない、という態度は
学者として問題があるうえに、
「安土日記全文」 という表題で紹介しながら 一部を書かないのでは
不都合で隠蔽している と思われても仕方が無いと思います。
RE:指図の信憑性 投稿者:淳也 投稿日:03月06日(月)00時50分55秒
森さん始めまして、「天守指図」(変換のミスでした、以後注意しますm(__)m
の地階の物体は、「信長記」の記述から見れば金灯篭と言う事になりますが、
指図だけ を見る限り、宝塔によく似ています。
火袋より竿のほうが太い金灯篭は、存在しない(と思う)ので、
灯篭の表現としては、おかしな形状です、
特に「指図」が池上右平の創作であった場合、
灯篭らしくない形を灯篭として書きこむという矛盾した事態になります、
私は、宮上説とは逆に、太田牛一の書いたU.V類本の記述が、
金灯篭「つらせられ」から「置かせられ」に変化したり、
天守指図の柱数と関連する柱数の記述が付けられたりする事から、
太田牛一が天守指図を手に入れ、指図から柱数を割り出したり、
指図 の地階の物体を宮上氏と同じく、安土日記の内容から金灯篭と見て、
記述を「(置)をかせられ」に書き換えたと考えます。
{をかせられ=を架せられ}という、意味は同じで表記が変わったという解釈は、
6階の記述にある「ひうちほうちゃく つらせられ」の記述が
U.V類本でも変化していない事から、成り立ちにくいと思われます。
さらに続いて 投稿者:森 俊弘 投稿日:03月04日(土)16時51分02秒
>発掘調査で初めてわかった 本丸御殿との連絡通路や、
>一階南西の「かど」{門と思われる}の外側に,
>天主台 に付く形で建っていた建物のあとが出て来たりと、
という点についても、江戸期に礎石が露出していなかったという確証は
どこにもありません。昭和10年代の発掘調査でどこまで埋没土層の観察が
なされているかわかりませんが(多分してません)、焼失以来埋没していた
というのは内藤氏の推測にすぎません。石倉中央の穴についても、焦土や木片が
混入するなど焼失後に攪乱されている可能性が高そうですしね(従って、礎石が
なかったという結論も従いがたいですよね。案外、二の丸の信長廟にあるあの石が
攪乱された際に移された礎石なのかも知れませんな:)。
「指図」が江戸期、礎石列、或いは現状より残りの良かった石垣の状況をの観察から
作成された可能性もずいぶんあります。
ちなみに、橋廊下とされている石列についても、御殿と石垣までの間を区画する
門と塀であるという見方も存在しています。
では。
(無題) 投稿者:森 俊弘 投稿日:03月04日(土)16時31分21秒
続けてどうも、
>安土日記には、本柱の太さは、一尺五寸四方、六寸四方、一尺3寸四方木
>と書かれていますが、
>宮上説では、一尺五寸、一尺六寸、一尺3寸四方の柱に
>なっていて、これはあきらかに宮上氏の読み間違いです。
というご指摘については、「安土日記」の原本表記を見れば分かるとおり、
「一尺五寸四方、六寸四方
一尺三寸四方木 」
と二行に分けて書かれています。つまり「六寸四方」の前の一尺は省略され、
次の三寸四方については、行替えしたため再度一尺を前置きしているのです。
> このうち、南北二十間というのは、
>天主指図以外では、説明不可能なので、
>宮上説では、(故意に?)無視されています。
>(歴史群像 名城シリーズ3 安土城)の
>安土日記全文 のページに載せられていない(省略されている)
この点についても、「安土日記」には本文と追記の2つが存在し、宮上氏は検討の結果、
追記は後の書き込みで信憑性が低いという結論を出したことから書いていない訳です。
決して不都合で隠蔽しているのではありません。
これらの点については内藤氏への反論として書かれた「国華」誌所収の論文で図まで
入れ詳細に触れられています。
宮上氏の不幸は、内藤氏のメチエ本のように一般へ普及する書籍で詳細を語れなかった
ことでしょうか。「国華」誌所収の論文を読めば、「指図」「信長記」いずれが先行するか
すぐ判断できると思いまますよ。
では。
こんにちは。森と申します。
ひとつ質問なのですが、よろしいですか?。
「天守指図」(このページでは「天主指図」となってますが、
間違いですよね。)の地階にある宝塔状の物体について、内藤氏は
「宝塔」と断言しておられますが、どう思われますか?。
「指図」自体にまったく注記がないことは勿論、注目すべきは
吹き抜けらしい部分を囲む1階部分の周囲には、納戸7室が
配置されていることは見逃せません。つまり「納戸7つの下」ですね。
つまり現在宝塔と言われている物体、これは「金灯籠」だということです。
(この事については、宮上氏が既に指摘されていることなのですが)
さて、地階に置かれているという奇妙な金灯籠について、太田牛一は
初期の系統の写本に属する「安土日記」では「金灯籠つられせら」
としているのですが、これを改訂したいわゆるU・V類本では、
「金灯籠をかせられ」と変わっています。
U・V類本の既述を「置かせられ」と考える傾向は、牛一死後に
改訂・出版された公刊本で既に始まって現在に至っています。
(新人物往来社本もそう)。しかし、「つらせられ」というT類本の
語義からいえば、「を架せられ」と考える方が妥当なのでは
ないでしょうか(記述の変更については、原本を参照すると平仮名の
「つら」が「か」と読み間違えた可能性が高そうです。
だから助詞「を」を補った:)。
と、なると「指図」は牛一がT類本を書き改めたU・V類本
以降の諸本を中心に、T類本を参照して作ったという宮上氏の
指摘は正しいのではないかと考えます
(氏の復元結果についての意見はまた別ですよ)。
よしんば、内藤説の方がおっしゃる、牛一がU・V類本への
改訂の参考文献として「指図」などと同系統の詳細な史料を
見て改訂した、ということであっても、そこに「置」かれている
宝塔状の物体(指図の表記あり)は、金灯籠(指図には表記がない)で
ある疑いがますます高くなってきます。そうなるとU・V類本より
信憑性の高いというご意見のT類本「安土日記」の「つらせられ」
という表記は何なのか、という疑義も出てまいります。
どうでしょうか、御私見を賜りたいと思います。
では。
ついて、内藤氏が掲出している「信長記」諸本の
本文との比較を試みてみました。
結果、
安土城本丸御殿跡地から、清涼殿に似た礎石配置を持つ建物跡が、
発見されました。
安土城の総見寺は、後の東照宮のような、信長教の総本山?といった位置付けの寺なので、
奥の院?に当たる天主の下にある、清涼殿?に、
後の日光法親王のように天皇(又は親王)を住まわせる予定だったのでしょうか?
柴垣さん始めまして。
メール早速直しときます。
「安土の歴史散歩と風景」の安土城案内写真は、とても参考になります。
雪の積もる安土山を始めて見せていただきました。
村井貞勝の拝見記の事ですが、
吹き抜け以外にも、存在がはっきりしている地下一階の記事も載っていません、
(金灯篭の記事は一階部分に「7つの納戸の下ある」と書かれる。)
石垣上に建物が立つ構造は信長以前から存在しますが、
石垣内部が倉になっていて、倉部分から建物が建ち上がる構造は、
安土城が始めてで、当時としては非常に珍しいものであったにも関わらず、
石倉の存在が書かれていない事から、
村井貞勝の拝見記は、座敷の格式と配置、画題についての記録だと思います。
安土日記に、石倉が載っていない事や、
北の倉の大きさが書かれていない事、
あまり重要でない納戸の画題が載っていない事など。
(六重目の中で、「又六畳敷、いずれも御絵の所金なり」
と書かれ、画題が省略されている。)
天主の記録として見ると、これらの省略は不自然ですが、
座敷の格式や配置の記録として見れば、書く必要の無いものです。
吹き抜けの事も、石倉と同様に、座敷の格式や配置、画題とは関係無いので、
省略されたと思われます。
はじめまして、
HP「安土の歴史散歩と風景」の柴垣と申します。
この度、はじめて貴殿のHPを拝見させていただきました。
リンクをして頂き誠にありがとうございます。
早速、相互リンクさせていただきます。
メイルから出したかったのでうが、メイルが起動しませんので、
掲示板に記載しました。
それにしても安土城について驚くほど専門的に研究されて、
自分の考えを理路整然と述べられており、感心いたしました。
わかりやすくて、非常に勉強になります。
建築の知識がよほどなければ、このようなHPはできなと思います。
ちょと意見を聞かせてください。安土日記の安土城に
ついては京都所司代村井貞勝に披露しており、天主の記述を
載せているとされています。
安土城のような当時の画期的な城についての記載で、吹き抜け
構造のような根本的に特徴のある重大な問題を見落としたり
してしまうのだろうかと思っているのですが。
そこが気になります。
台徳院(二代将軍 徳川秀忠)霊廟の宝塔の写真見つけました。
その他明治時代の古写真も載ってるので、興味の有る方はどうぞ。
共通展示>>データ―ベース日本語>>閲覧>>全文検索
で、検索画面にして、「台徳院」で、出ます。
NHK大河ドラマ、葵徳川三代、に合わせて、
静岡市で、駿府葵博が始まりました。
会場は、東静岡駅北口すぐの東静岡会場と、
駿府公園の辰巳櫓内の会場で、
1/3規模で復元された駿府城天守や、ロケに使われた御殿があって、
安土城・大阪城・駿府城の金箔瓦も展示されているそうです、
会期は来年の1月までなのでぜひ見に行きたいと思います。
(東静岡会場隣?のグランシップ展望ロビーから見る富士山はオススメです)
たぬき さん、書き込みありがとう。
って、書いていただいたのに、2日も寝かせていて・・・。
(作者はズボラなので、
1週間くらいページを見ないことも有ります。(言い訳)
出来るだけ 月刊で更新 を目標に作成して行きますので、
またの御来訪お待ちしております。
そう言えば、マック環境で、スクリプトきちんと動いたでしょうか?
安土城のTOPページは、全体が1/4スクロールするのですが・・・。
いやぁ
おもしろいねぇ!
安土城物語、乞うご期待だねっ!
あけまして御目出度う御座居ます。
安土城掲示板も無事?年を越しました。
文字ばかりのこのページ、
なるべく早く図面と写真をUPできるようにしようと思います。
その為には安土に取材に行かねば・・・う〜んヒマがないよ〜。
TAKわーくしょっぷから安土城復元案が独立しました。
(と言っても見てる人にはわかんないか?)
それに伴いTAKのセカンド掲示板を、
安土城掲示板に改装オープンしました。
今後もお引き立てのほど、よろしくお願い致します。