1581年、10月20日付
■ 都より パードレ、ロレンソ・メシアが
パードレ、ぺロ・ダ・フォンセカに送りし書簡
― 日本暦、天正9年9月11日付、の書簡
この書簡は、天正8年から9年にかけての、巡察師、パリニャーノ 一行の巡察の記録で、まず、口の津を出発して、豊後へ行き、境の港から高槻を通って都に入り、信長の馬揃えの様子を見た後、安土へ赴き、信長に黒人奴隷を見せたり、安土のセミナリオの様子に付いて書いた後、イエズス会士の労苦、会員、洗礼者の人数の報告、臼杵の受洗者について書かれています。
(前略)・・・その後、数日を経て、我等は安土山に行った。
十年を経た新しい市で、甚だ広大であり、信長が大身及び殿達と共に常住している。
この市は大いに見るべきもので、長さ二十四レグワの湖水の一隅にある。
信長の宮殿は、甚だ高き山の頂上にあり、山は緑の立派なる樹木に満ちている。
その周囲には、殿および大身たちの家があり、
この家は甚だ宏大且立派で、高き石垣の上に建ててある。
日本の家は、皆木造で移動することのできるものであるから、
これは、甚だめずらしい。
信長の邸宅は、皆甚だ壮麗で、多く黄金を用い、正面の屋根瓦まで光っている。
この異教徒は、甚だ尊大にして、ほとんど神に対するがごとき尊敬を受け、
世界に彼に並ぶ物なしと思われている。
彼は大いに威儀を整え、その長子といえども直接には話さず、
第三者または通訳を介して話すのである。
諸国においては、信ずべからざるほど彼を畏れ、
彼が諸人に対して、残酷なる暴君であるにかかわらず、
当地方は数年来かつて見たること無き平和を楽しんでいる。
パードレは黒奴一人を同伴していたが・・・・・・・・・・(後略)
☆ 石垣と一体化した建築
この書簡で、安土城の建物は、一般の建築と違い、高い石垣の上に建ててあり、移動することのできない物であると暗に示唆されていますが、実際の城郭建築では、大津城を移築した彦根城の例をはじめ、移築された城郭建築は枚挙に暇ないので、誤解に基づく記事なのですが、
この記述は、普通石垣とは別に、平坦な地面の上に建てられる建築が、安土城では、石垣と一体化して、石垣の上にそびえ立つように建てられていたので、一見移動できないように見えたのではないでしょうか?
☆ 信長神格化計画
フロイスの日本史に依ると、この時期、ハ見寺が完成したらしいので、信長を神格化する計画が実を結び、信長の持っている権力に対する畏れと、信長がもたらした平和によって、広く一般にまで、信長のカリスマ性が広まった結果、ほとんど神に対するがごとき尊敬を受け、世界に彼に並ぶ物なしと思われている状態に至ったと思われます。
特に、長子といえども直接には話さず、と言う事例は、天皇の権威を演出する方法に近いので、信長は天皇に習って、神格化を演出していったと思われます。
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