1577年


■ パードレ、オルガンティノが、都より発せし書簡

― 日本暦、天正5年8月下旬以降12月7日以前、に書かれたもの。

この書簡には、まず、河内国の信仰熱心な少女の記事と、日本暦、天正5年 8月17日に死んだ、信徒レオンの死の様子、葬儀、イタコ?の口寄せ、の記事が書かれ、書簡の最後の部分に、安土城の記事が書かれている、


河内の国の重立ちたるキリシタンの一夫人・・・ (中略)・・・悪魔はこの如く
己に反する言をなし、母はいまキリシタンとなる準備をなせり。

信長は、一城を築きしが、其れ基督教国にもあるべしと思われざる、
甚だ宏壮なるものにして、其の中央に一の塔あり、畳20枚四方にして、
高さ15なり、又5層の屋根あり、最頂上に一の鐘あり、
この経費は、奈良の大佛と同額を要すべしと云う。


☆ 屋根の葺き合せの頃の記録

この時期の安土城の工事は、安土日記によると、天正5年11月3日に屋上葺合せ、が行われているので、この記事は屋上葺合せ式?の時に安土城を見た際の話を元にした記録と考えられます。

☆ 屋根は5層。

安土城の、屋根の数について書かれた記録はこの一文だけなので、 (他の宣教師の記録には、何の数か限定せずに、7層と書かれていて、日本側の記録には屋根の数は書かれていない。) 安土城の屋根は5層、つまり外観5層の天主であったと、考えられます。

☆ 最上階には鐘がある。

また、最頂上に「一の鐘」が、あったと書かれているので、小倉城のように、最上階に鐘が釣られていたと、考えられます。
鐘のような、大きさがあって重たいものを、最上階に上げるに当って、屋根の葺き合せの時点では、普通、床板は、まだ張られていないので、梁の隙間を通して、地面から一気に最上階まで、鐘を引き上げたために、この時期に、既に鐘が上がっていたと考えられます。

☆ 天主の計画概要は、20間四方・高さ15丈。

大きさについて書かれた、畳20枚四方にして、高さ15 と云うのは、安土日記によると、南北へ20間、東西17間、高さ16.5間なので、伝聞による、概略の値とも考えられますが、
内藤説による天主台の石垣上面の最大幅が東西南北共に17間、石垣の下部の最大幅が22間なので、天主の平面計画の概要が20間四方であったと考えられます。
また、高さ15 については、宣教師の記録には大抵の場合、○○畳(xxたたみ)と言った風に畳の大きさが單位として使われているのですが、ここには單位が書かれていない事から、「間」以外の單位が使われていたと考えられます。 間以外の單位で良く使われるのは尺や丈で、15尺では短すぎるので、15丈と仮定して、内藤説による天主と石垣の合計高さを見ると、151.5尺になり、これは、丈になおすと15.15丈なので、高さ15というのは、高さ15丈の事だと考えられます。

面白いのは、奈良の大仏云々の件で、この時期、奈良の大仏は、松永久秀によって大仏殿が焼かれて、大仏の首が落下して、野ざらしになっている状態なので、『これだけの費用が有れば、東大寺の復興が出来るのに・・・。』と言う、都の人たちの怨嗟の声があったのか?とも思われます。

また、焼け落ちた奈良の大仏殿の高さは15丈なので、大仏殿と安土城天主ははぼ同じ高さになり、出雲大社の高さ、公称16丈より1丈低いこの高さの数字には、なにか意味があったのかも・・・。

最終更新日時
2003/12/31 (水)
20:48:30

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