1581(天正9)年の日本年報■ 1582年2月15日付、長崎発― 日本暦、天正10年1月23日付 この書簡は、天正9年の日本年報で、日本各地の修道院、学院、聖堂や信者に付いての報告がかかれ、安土城に付いての記事は、安土山のカザ及びレジデンシャについて、の報告の中に書かれている。巡察師、バリニャーノは、この時に安土屏風を譲り受け、この年報と共に、天正少年使節を連れて、ヨーロッパに帰る事となる。
☆ 各層違った色の外観 この年報で、安土城の外観は、各層違った色と書かれ、1580年書簡で表現される「最上階は青と金でその他が白」という状態とは、少し違っている様に思われるのですが、良く文章を読むと、1580年書簡では、壁の色と書かれ、この1581年年報には各層の色と、少し違った表現で書かれています。 ☆ 最上階は、青い(緑)盲連子窓の付いた総金箔張り頂上の階である、四角の段には、青く(緑)塗られた連子窓が付いていて、それ以外の部分が総金箔貼であったと仮定して、(内側には絵が描かれているので当然盲連子でしょう)青い(緑)盲連子を、機能に注目して壁の一種と見れば、壁の色は金と青であり、意匠に注目して窓の一種と見た場合、壁の色は全て金色と表現される事になります。 ☆ 八角の段は、木部が赤く塗られた白壁八角の段については、木部が赤で壁が白の八角円堂の形態であれば、壁について書けば壁の色は白色であり、木部について書けば層の色は赤色になります。 ☆ 縁側の側板が青色青い部分は、八角の段の縁側の側板のことを表現していると仮定すれば、側板は手すりの下の部分であり高欄の付属品で、壁とは別の部分と見れば、壁の色はすべて白色でありながら層の色が青色と書かれても、記録に矛盾はありません。 ☆ 大壁造りの下層階その下の階は、黒い窓の付いた白壁と書かれています。先ほどの八角の段の真壁造りの表現が、壁の色は白、層の色が赤、と表現された例から考えると、どちらの記録にも黒い窓の付いた白壁と表現され、層の色が黒とは表現されていないこの部分は、彦根城のような、白壁で大壁に塗られた外観に、黒い漆塗りの窓がはまっている状態を、表していると思われます。 ☆ 屋根は普通の色の瓦 屋根は青い瓦が葺かれている、と書かれていますが、フロイスの日本史の中の、京都の寺院のことについてかかれた部分に、「寺院の床は、青いレンガ及び石で覆われている」、と書かれている部分があります。 現在も残っている京都の寺院の床には、何の変哲も無い甃(しきがわら)が敷かれている事からして、青いレンガとは普通の甃(しきがわら)の事と考えられ、ヨーロッパの人には、日本人が燻し銀とか鉛色と呼んでいる、一般的で普通に使われる燻し瓦の色が青系統の色に見えたために、青いレンガとか青い瓦という表現になったと考えられます。 ☆ 木造ではないような見た目とは 「建物は悉く木造であるにもかかわらず、内外ともに石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。」という事からして、安土城の天主は木造には見えない建築、つまり、建物の内外共に木部が塗られていて、木地の色が直接見える白木の部分は無かったと考えられます。 |
最終更新日時 2003/12/31 (水) 20:50:12 ■宣教師の
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