安土城とは・・・


☆ 所在地  〒521-1311 滋賀県 蒲生郡 安土町 下豊浦
         北緯 35度9分10秒 東経 136度8分30秒
         標高 199m(琵琶湖湖面からの比高112m)の安土山全体が城跡。
☆ 時代 安土桃山時代、  築城 織田信長   城主 織田信長 三法師

☆ 1575年(天正3)、5月21日に長篠の戦いで武田軍に勝利し、8月19日に越前一向一揆を平定して、東と北の脅威がなくなった年、織田信長は、11月28日に息子の信忠に、織田家の家督と尾張・美濃2国を与え、自らは隠居して?岐阜城から、城下の佐久間信盛邸に移った。
  家督を譲った織田信長は、新しい自らの居城として、琵琶湖の東岸、岐阜と京の中間にあって、近江半国の大名であった、佐々木六角の居城、観音寺城(標高433m)、の北の尾根続きで半島状に琵琶湖に突き出た、目賀田山と呼ばれた小山を、安土山と改称して、1576年(天正4)正月に丹羽長秀に命じて築城を開始、2月23日には仮の御殿が完成し、信長は安土へ移り住んだ。
  1576年(天正4)4月1日から石垣工事が開始され、天主の工事は、1577年(天正5)8月24日に立柱、1577年(天正5)11月3日に屋根の葺き合せ、1579年(天正7)正月には、村井貞勝らに天主内部を見せていて、1579年(天正7)5月11日に信長が天主へ移徙。
 その後も工事は続き、本丸御殿、高雲寺御殿、ハ見寺など、次々と建物が整備されていったが、1582年(天正10)6月2日払暁の本能寺の変により、信長は明智光秀によって弑せられ、その後の混乱の中、6月15日に、天主などの主郭部分を焼失。
  その後、信長の孫の三法師(3歳)が城主として入城するも、三法師の後見人の織田信雄が豊臣秀吉に敗れた事に伴い、三法師は6歳で岐阜城に移され、安土城は1585年(天正13)に廃城となった。
  築城を開始してから廃城まで、わずか10年であった。




最終更新日時
2004/03/13 (土)
21:17:59

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