安土日記 附 信長公記     あずちにっき つけたり しんちょうこうき


■ 安土日記とは

(財)前田育徳会 尊経閣文庫 が所蔵している、加賀藩主前田家に伝えられた残欠本で、天正6年1月1日〜天正7年8月6日の間の信長の記録。  慶長の頃書き写されたもので、前田家に来る前は、安土近傍の百姓( この時代の百姓とは一般庶民の意味。) が持っていたとか、  田中久夫氏の考察によると、信長の家臣の太田牛一が書いた信長の伝記のうち、もっとも早く成立したのもとされる。

安土日記の 行間補記の扱いについて

宮上茂隆氏は、「安土日記の行間補記は、信長記や信長公記の中でも、改竄の多い悪質写本の記事を元に書かれたもので、行間補記の方は無視しなければならない。」と、国華998号の中で書いています。 つまり、安土日記の行間補記は、信長記の成立の後に書かれたものと主張しているのですが、この主張には矛盾する点があります。

安土日記の初めの部分の、「柱ハ金也」に付けられた行間補記には、
 「上龍下龍天井ニハ天人御影向之所被遊候」 と 
 「四方柱ニハ、段々二御縁をはり出し、かうらんきほうし、ひうちほうちゃくをつらせられ候」
という部分があって、信長記のこれに対応する部分は、 
 「四方の内柱には、上龍下龍。 天井には天人御影向の所。」 
 「ひうち、ほうちゃく、数十二つらせられ、」 
と、なっています。

 この部分、安土日記では、「四方柱ニハ、」と「段々二御縁をはり出し、」の部分で改ページされており、そのために安土日記に書かれた補記を読み間違えて、「四方柱には上龍下龍・・・。」と信長記に書いてしまい、その結果、意味の通らなくなった「段々二御縁をはり出し、」と言う部分が、信長記では省略されたと考えられるので、
安土日記の行間補記は、信長記の成立より早く、行間補記の書かれた安土日記を元に、太田牛一は信長記を編集したと考えられます。
また、太田牛一が自分の書き込んだメモ書き(行間補記)であれば、編集時に読み間違えるはずも無い事から、安土日記の行間補記は、村井貞勝が拝見記に書き込んだメモ書きで、安土日記編集時に太田牛一は、メモ書きごと写し取り、後の信長記編集時には、建築に関して素人でありながら、読者にとって読みやすい、軍記物としての編集を試みたために、改悪とも言える状態になってしまったものと思われます。
ということで、このサイトでは、安土日記の行間補記は、本文と同程度に信憑性があるものと考えます。


最終更新日時
2003/12/31 (水)
17:50:12

安土城復元案バナー
■安土日記

安土日記原文
現代語訳


信長公記
 安土御普請
 天主の次第
 茶の湯の事
 御出仕の事



■安土城
   復元案

安土城とは・・

安土日記
天守指図
宣教師の記録

大聖堂
日本建築史
宗教

天主復元案


掲示板
bbs書庫

参考文献

サイトマップ

ハ見寺復元案

トップページへ



[安土城とは・・] [安土日記]  [天守指図] [宣教師の記録] [大聖堂] [日本建築史] [宗教] [天主復元案]
[作者紹介] [掲示板] [bbs書庫]  [リンク] [参考文献] [付録・資料室]  [トップページへ]
前のページ  
このページのTOP
次のページ  
          Copyright(C) 1999- , Asitaka-Jyunnya, All Right Reserved.
             http://www1.asitaka.com/index.htm    asitaka_
@anet.ne.jp
安土城復元案のバナーです。ご自由にお使い下さい。リンクは自由です。