安土日記  あずちにっき

尊経閣文庫蔵(そんけいかく ぶんこ ぞう)  天正七年(1579)1月の部分


これより前の部分は省略。・・・・・   

1月25日

京都所司代(きょうとしょしだい)を勤める、村井貞勝(むらいさだかつ)が、 京都から安土山に正月の挨拶のため下向して来て、 信長に、お礼を申し上げた時。
信長は、林秀貞(はやしひでさだ)を呼び出して、二人に、恐れ多くも、安土城の天主を拝見させた。

安土城の天主は、すべて黒漆で塗られ、絵の描かれている所は、すべて下地に金箔が張られている。
高さは16.5間(7尺間で、約35m)、天正五(1577)ひのと うし年 8月24日に最初の柱を建て、11月3日に屋根が葺きあがった。

6階

3間×3間(6.3m)の大きさで、部屋の中は全て金色、外側に手すりがある。
柱は金色で、扉には鉄を張り黒漆を塗ってある。
中国神話の帝王や孔子と十人の弟子、商山にいた四人の隠者や七人の賢人などの絵を、
絵師の狩野永徳(かのうえいとく)に描かせた。

[(追記部分) 上り竜下り龍が意匠され、天井には天人が描かれている]
[(追記部分) (窓の)数は60ほど]
[(追記部分) 四方の柱には斗供を組んで縁側を張り出し、  縁の高欄には擬宝珠がつき、火打ち金と宝鐘が吊り下げてある。]
[(画題追記) 南に伏儀(ふっき)と神農(しんのう)と黄帝(こうてい)、西に文王と老子、北に太公望、東に孔子と七賢]

5階

八角形で、対辺は4間ほどある。外側の柱は赤色で、内側の柱は金色、
釈迦と十人の弟子が描かれ、釈迦が説法をしている構図になっている、
部屋の周囲の縁側には、餓鬼や鬼が描かれ、縁の脇の板には、
鯱や、飛ぶ龍が描かれ、手すりには擬宝珠が付いている。

4階

この階に、絵は描かれていない。
南と北の、破風の部分に4畳半の部屋があり、小屋の段と言うそうだ。

3階

西の十二間(畳)は岩と木々の絵があるので、岩の間と言う。
(草書体では、「間」と「てう」は、よく似ている事から、写す際に「十二てう」を「十二間」と読み間違った物と思われる。)
隣の西8畳に竜虎の戦う絵があり、南十二間(畳)は竹を描いた竹の間、
次の十二間(畳)には松だけが描かれている。
東の8畳には桐の木に鳳凰の絵、次の8畳に許由と巣父の説話の絵、
次の小座敷(小間の茶室)は7畳敷、壁に絵は描かれず、金泥(「でい」とは金や銀色の塗料の事)が塗られている。
北の12畳には絵が無い。 次の12畳の、西側2間の部分に、手毬木の絵が画かれている、
次の8畳は、庭に鷹籠がある絵が描いてあるので、御鷹の間、という。

2階

12畳敷、花鳥の間で、絵がある。 他に、4畳の上段の御座の間にも、同じく花鳥の絵が描かれている。 
次の8畳は賢人の間、ここには瓢箪から駒の故事の絵。 東の麝香の間は8畳、門の上の12畳、
次の8畳は、呂洞賓が杖を投げ捨てる絵が画かれ。 北の12畳には、馬の牧場の絵、
絵の振れている部分は、ふゑつの図と言う、 次の12畳には西王母の絵がある。
西側には絵は無い、縁側は、2段に段差のついた広縁がある、
24畳の大きさの納戸の、入り口の部分には、8畳の部屋がある。

1階

12畳に梅の水墨画、この部屋の書院には、遠寺晩鐘の絵が描かれ、前に盆山が置かれている。
次の4畳には、雉が子供を慈しむ絵、 鳩だけ描かれた棚、
12畳は鵞鳥が描かれた鵞鳥の間、次8畳に中国の儒教の人たちの絵が画かれている。

南に12畳、8畳、東に12畳、縁側の6畳、次3畳、
その次の8畳は、配膳の場所、次の8畳も同じく配膳の場所。
6畳の納戸、又6畳、絵の描いてある所は何処も金色になっている。

北の方に土蔵がある、その次に26畳の納戸、
西には6畳、次に17畳、又次に10畳、又又次に12畳。
納戸の数は全部で7つあり、この下に金灯篭が吊り下げてある。

地下1階

(地下1階部分は、表題のみで本文がない)
[(追記部分) 以上の柱の数は204本、本柱の長さは8間、本柱の太さは、1尺5寸 四方、6寸 四方、1尺3寸 四方の木材が使われている。]
[(追記部分) 高さは16.5間、広さは南北へ20間、東西17間]
狭間窓の数は、六十数ヶ所、ほどあり、何れも鉄を張り、黒漆塗りである。
[(追記部分) 金物は、京都の「たい阿弥」に作らせた。最上階の金具は、「後藤三郎四郎」の作で、イイ仕事してます。]

7階建の建物は、空高くそびえ、棟梁の腕はすばらしく、四方の垂木には金物が打たれ、瓦の先端には金銀が光り、火打ち金と宝鐘(2つを組みあわせて風鐸)が、吊り下げてある。
金銀が、白い霧に映え、空に輝き、筆舌に尽くしがたい美しさである。

大工は、「岡部又右衛門」。現場監督は、「木村二郎左衛門」。
漆塗り責任者は、「刑部」。飾り金具責任者は、「宮西與六」。
瓦は、中国人の「一官」に命じて、中国風に焼かせた。
瓦の責任者は、「小川孫一郎、堀部佐内、青山助一」である。
その他、工事にはたくさんの人が関わりました。

安土城の天主を、見物出来たことは、一生の思い出、
この感動は、言葉に表せないくらい、素晴らしいものです。

1月26日

朝、宮内宝印(くないほういん)の官職についている、松井友閑(まついゆうかん)の所へ、信長が、やって来て、安土山の麓で、茶会を行った。
信長は、村井貞勝と林秀貞の二人を連れ、二人に、御茶をふるまった。
この日は、1日中雪が降りつづいた。

2月14日

・・・・・・・・   ここから後は省略。

最終更新日時
2003/01/13 (月)
23:57:11

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