天守指図考察

――抹殺された噂話


 吹き抜けの存在などに関する、安土城とキリスト教の大聖堂には密接な関係があるとする噂話は、現在では荒唐無稽な俗説として忘れ去られてしまっているのですが、 江戸時代から明治にかけて、広く一般に信じられてきた説であることは、前ページで紹介したように事実なのです。  現在ではなぜ、このキリスト教と安土城に関する噂話は、荒唐無稽な俗説とされ、忘れ去られてしまったのでしょうか? それについて、また井上章一さんの「南蛮幻想」(1998.文藝春秋)から引いてみます。 

■ 天主教説の否定論

 天主教説の否定論は、たくさん出ているのですが、検証すると意外に思い込みによる根拠のない否定論が多く、証拠をあげて否定しているのは、田中義成さんの説が始まりで、以後の論も基本的には田中義成氏が1890年に発表した論文によっているようです。

☆ 田中義成 「天守閣考」  ( 1890年「史学会雑誌」新年号 )

天主閣ノ天主ハ、梵語ニ属スルカ、将洋教ニ出ルカヲ考ルニ、梵語ナルベシ、何トナレバ、安土天主ノ建ハ、利氏ノ明ニ入ルヲ去ルコト五年ノ前ナレバ、我レ素ヨリ天主ノ称アリテ、利氏ノ訳語ト毫モ関係セザレバ、其梵語ニ出ルヲ決スベシ、又信長時代ニハ、洋教ヲ称シテ伴天連ト云ヒ、其国ヲ指シテハ切支丹国ト云ヒ・・・天主ト唱ヘザレバ、其天主閣ト相関セザルコト益々明ナリ。



 文中の利氏というのは、1582(天正十)年に中国に渡って布教したイエズス会の宣教師、マテオ・リッチ氏の事で、 キリスト教がGODをあらわす用語として「天主」の語を使いだしたのは、信長の天主 (天守閣) 建設の後なので、天主の語源は梵語によるものであると解説しています。
 藤本正行氏の研究によれば、信用できる城郭の「天主」の初出は1570年代で、信長の建てた二条城・室町将軍邸に「天主」があったと『元亀二年記』や『兼見卿記』に見られるとあり、 キリスト教における「天主」の用例は、
  ☆柊源一 「切支丹文献に現れた『天主』なる語をめぐって--明版の天主教書との交渉」『キリスト教史学』(1961.関東学院)
  ☆ 海老沢有道・松田毅一『ポルトガル・エヴォラ新出屏風文書の研究』(1963.ナツメ社)
などによると、1580(天正八)年以降であるとされています。 
 以上のことから、 結論として。

☆ 井上章一 「南蛮幻想」(1998年 文藝春秋社)

やはり、信長の天主(天守閣)は、キリスト教の天主より古いのである。 城郭の天主が、天主教の天主を語源にするという話は、今でもなりたたないというしかない。



 と、いう事になっています、しかし、井上氏もこの後のほうで書いているのですが、この証拠で判明したのは、天主の語源はキリスト教とは関係ない、という事だけで、建築そのものが、キリスト教の影響を受けているかどうか、という部分に関しては、否定されてはいないのです。

そして、田中義成氏が論文で天主の語源を否定してから約20年後に、大類伸氏が西洋の影響を否定する論文を発表しました。

☆ 大類伸の城郭論 「本邦城櫓並天守閣の発達」(史学雑誌1910年4月号)

天守閣の観念は中世よりして夙く本邦築城の内に萌せしものにして、必しも之を他国に学ぶの要なし。 少くとも他国城制の影響を顧慮することなくして、天守閣の自然的発達を説明し得ること上述の如し。・・・・
・・・吾人は天守閣と天主教更に西欧築城との関係を否定し、更に進で本邦城郭に対する欧州人の感化を疑うものなり。



この文で大類伸氏は、日本の天守閣の起源は、キリスト教や西洋人の影響で出来たものではなく、日本国内の事情からでも説明できる。 と言って、日本国内の事情での起源を考察しています。 これらの仮説は現在でも天守建築のルーツについての説明としておおむね信じられています。

1・殿主説 室町期の武家住宅の記録に出てくる主殿に望楼を乗せたものが、変化して主殿→殿主→天主→天守 となった。
2・高櫓説 戦記絵巻に見られる高櫓が発展して城の中心部に作られるようになった。
3・楼閣説 金閣・銀閣などの室町時代の楼閣建築が発展して作られるようになった。 

☆ 臆断の甚しきもの

 しかし、これらの仮説は大類氏自身 「臆断の甚しきものに過ぎざれども」 と書いてあるように、特に決定的な証拠があってのものではなく、仮説の提示と言うべきもので。 その結論部分も「吾人は天守閣と天主教更に西欧築城との関係を否定し、更に進で本邦城郭に対する欧州人の感化を疑うものなり。」と、書かれるように、証拠によって否定しているのではなく、大類氏が、「日本の城郭建築は西洋の影響を受けてはいない」と思い込みたい事を表明しているに過ぎない。 と言ってしまっても問題ないレベルの理論なのですが、なぜか後世の学者に受け継がれてゆき、現在においても、これといった証拠が新しく発見されたわけでもないのに (というより、西洋人が日本にやって来ている状態で、西洋の影響を100%受けていないと証明するのは不可能。) 天主とキリスト教は関係ないと思われています。

■ 抹殺するに足る証拠は、無い!

 つまり、天主の語源がキリスト教起源である事は、田中義成氏の証拠により否定されたのですが、 天主建築における西洋の影響を否定した大類伸氏の説には、確たる証拠は無く、江戸から明治時代にかけての風説は、実際のところ語源の部分しか否定されていないのです。
 ところが学会の趨勢は、田中氏の半分の証拠と大類氏の押しの強い雰囲気?に流されて、天主建築におけるキリスト教の影響まで証拠によって否定された思い込み、その結果、 安土城の天主とキリスト教の大聖堂との関係を伝える、江戸から明治時代にかけての風説が、荒唐無稽な噂話として抹殺されてしまったと考えられます。

 天主の語源がキリスト教起源ではないのに、天主とキリスト教の関係が広く語り継がれていた事からして、天主の建築構造は、キリスト教から、何らかの影響を受けているのではないでしょうか。





最終更新日時
2006年2月19日
23:49:59

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