天守指図考察
■ 十二間と十二畳
天守指図と安土日記の記述で、明らかに違いがあるのが、安土日記、四重目の十二間の記述です。
この部分、天守指図では十二畳の部屋で表現されていて、宮上氏はこの部分の矛盾から、天守指図を、十二間の言葉を理解できなかった池上右平の推定復元図としているのですが、はたして本当はどうだったのでしょうか?
このページでは十二間と十二畳の記述について考えてみます。
☆ 内藤説の考え方 ( 1994年「復元 安土城」から )
P143
>三階の部屋は、AからNまで十四室あるが、T・U・V類本の記述事項は、その規模・障
>壁画画題とも、すべて本指図と対応して矛盾するところがない。
P244
>「西十二間ニ・・(中略)・・」とあり、この際「間」を「畳」とみれば、『天守指図』の
>「いわの間」(東西三間×南北二間)に一致する。
こういう強引な所があるから、内藤説が普及しないのではないかと思いますが、明らかな違いがあるのに、「矛盾することがない」といってみたり、重要な部分なのに「この際・・・とみれば」の一言で片付けているのは、学者の理論展開としては非常に問題があると思います。
とはいうものの、こういう手法は現在でも時々目にすることがあり、文科系の学会では一般的なのかもしれず?、また、ここまで強引にいわれると、なんとも突っ込みようが無いので先行きます。
☆ 宮上説の考え方 ( 1977年 「国華999号」から)
P13
> それは三階に関し、『信長記』が「十二間」と記す室を、『指図』がすべて「十二畳」の広
>さに描いている点である。この『信長記』における「間」というのは長さを意味する場合の
>ように「ケン」と読むのではなく「マ」と読む。それが意味するところは一間×一間の広さ、
>すなわち今日いう一坪なのである。したがって「十二間」とあったら、畳敷にして二十四畳
>敷の広さがなければならない。
(中略)
>・・・当時が「間」から「畳」への呼称法の過渡期であることを示して
>いて興味深い。
> この点を理解できずに、『信長記』の「間」を「畳」に読みかえて復元図を作成した結果
>が『天守指図』である。その時期が江戸時代であることも疑いの余地がない。
> 『信長記』に基づいて安土城天主の復原をかつて試みられた土屋純一氏も、『天守指図』
>の作者と同じ誤解をされたが、中世住宅に関する研究が今と違って進んでいなかった當時と
>しては、やむを得ないことであった。
この部分で宮上氏は、江戸時代の大工である池上右平が、室町時代の建築用語の「間」を理解できなかったから「間」を「畳」に読みかえた。 と主張しているのですが、宮上氏は別の部分で矛盾する理論を展開しています。
P21
> 指図成立の下限年次をうかがわせる徴證として内藤氏は、二階のB室がA室に対して上段
>の関係にあることを「とこ」と表示している点を挙げておられる。そして、中世以来座敷飾
>りとして普及した「押板」も「とこ」と呼ばれるようになる年代を慶長頃であろうとする太
>田博太郎氏説を引いて、本指図を慶長以前とすることができるとするのである。しかし押板
>が「とこ」と呼ばれるようになったからといって、上段を「とこ」と全く呼ばなくなったと
>いうわけではないだろうから、この点から作図の下限をきめることはできない。
つまりここでは、江戸時代の大工池上右平が、室町時代には一般的に使われていたものの、江戸時代に入ると用例のなくなった、上段の間を「とこ」と表す建築用語の用法を知っていたと主張しているのです。
もちろん、このような建築用語・用法は調べれば解ることなので、池上右平が知っていても不自然ではなく、また、不勉強で知らなくとも不自然ではないのですが、片方で室町時代の建築用語を正しく使って図面に記入できるほどの知識がありながら、片方では「間」という室町時代の一般的な単位寸法が理解できないとするのは、どう考えても矛盾していると思います。
また、安土城復元の先駆者である土屋純一氏についても、「間」と「畳」の区別ができなかったとしているのですが、これは全く宮上氏の一方的な誤解に基づくものです。
「安土城天主復原考」 土屋純一 昭和5年12月名古屋高工創立廿五周年記念論文集
>・・・・・・・・・・・・尚此四重目の記事には「西十二間」「南
>十二間」等他の重に於けると異りて甚疑はしきも、之を畳敷を誤記せるものと考ふればよく相
>當するを以て、何れも西十二畳敷、南十二畳敷の誤記と解釈したものであるが、前後の記事と対
>比して平面図を考ふれば誤記若くは誤字たるべきは一点疑ふ余地のないところである。
つまり、土屋純一氏は、宮上氏が一階の復元で行っていることと同じように、復元図を作成してみたところ十二畳のほうがプランが良く納まるから「間」は「畳」の誤記であると主張しているのであって、復元方法としては問題があるものの、復元考察にあたってプランが納まらない場合には資料の記述を誤写として良いという手法は宮上氏と同じなので、宮上氏が批判するのはそもそもおかしく、「間」と「畳」の区別ができなかったからなどと、どうしてこう酷いものの言いようができるのか全く理解に苦しみます。 (というより、土屋氏の論文を読まずに、思い込みだけで批判している可能性が・・・・・・。)
☆ 池上右平の経歴
宮上氏によると、池上右平は室町時代の建築用語の「間」を理解できず、(国華より)「この図を描いた人の設計能力が疑われるほどの初歩的ミスである。」とか、「舞台に関する常識さえ無い」といろいろ酷いことを書いていますが、そもそも池上右平は、宮上氏も書いているように、身分の低い大工の家の出身であったのに、武士の作事奉行である池上家に養子として迎えられ、池上家に伝わる様々な伝書の写しを作成しているという経歴から考えれば、建築に関する知識は非常に高かったとしなければおかしいと思います。
実子ならともかく、養子というのは、いろいろ候補がいる中から選んで決めるものなので、普通より能力が高くて当たり前で、まして身分の低い大工出身でありながら養子に迎えられた以上、出身の低さをカバーできると思われるほどの能力があったはずで、また、伝書を写しているということは、過去の建築についての研究もおこたらなかった事を示しているので、室町時代の建築用語の「間」を、池上右平が知らなかったとする理論は、成り立たないと思われます。
■ 安土日記
☆ 草書体の「間」
これは、安土日記の該当部分ですが、「竹間と申候次十二間」の部分を抜き出してみました。
「間」の字は活字では「てう」とは明らかに違う形をしていますが、草書体では「てう」と読めなくも無いことが見てとれると思います。
太田牛一は安土日記編集の際に、村井貞勝の拝見記を写してこの部分を書いたと考えられているので、村井貞勝の書いた「てう」の字が悪筆であった場合、太田牛一が読み間違えた可能性は十分考えられると思います。
安土日記における畳敷の表記には、4畳半、畳敷、畳、てう敷、などが使われているので、畳の平仮名表現「てう」がこの部分で使われていたとしてもおかしくありません。 また、安土日記における部屋の大きさの表現は、始めから、三階の「十二間」までの前半は、三間四方、四間ほど、4畳半、八畳敷、の表記が使われ、板敷では「間」、畳では「畳半・畳敷」が使われている原則があるので、この部分の原文が「十二てう」と表現されていた場合、原作者は十二畳のつもりでも、「十二間」と読まれる可能性が高いので、
「十二間」と「十二畳」の違いは、草書体における、「てう」と「間」が、似ている為に起きた読み間違いだと思います。
ということで、この部分における安土日記の「間」は、「てう」の誤記であり、天守指図の十二畳が正しいと考えます。
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