天守指図考察 ―― 二重目

安土城天主の1階です。

sashizu2

■ 基本構造

☆ 石倉内部石垣の高さ

 内藤説では、南側石垣高さを、穴太積石垣の、直線に積まれる特徴から、いしくら地面より5.5尺上と計算しながら、北側石垣の計算結果から  石垣高さを13.5尺と考えていますが、一般に、 初期の天守建築では、石垣を正確に積む技術が無かったので、石垣の施工誤差を建物の角で調整して、石垣に合わせて建物が建てられています。
 安土城においても、測量の結果、天守指図とは石垣の形が微妙にずれていることから、この図面が天主の設計図であって、測量図では無いと考えられるのですが、設計図と、現実の石垣に誤差が出ることが避けられない以上、どこかで誤差を調節していたと考えられます。
 天守指図を見ると、天主の南側は、座敷が壁際に作られていて、この部分で誤差を調節すると畳の配置に問題が起こるのですが、東・北・西側の壁際は縁側や物置なので、南以外の3辺で施工誤差を調節する計画であったと考えられます。
 南以外の3辺で誤差が調節された、と考えると、南側は、計画と実際の建物と石垣の位置関係が同じであるという事になり、南側の石垣高さが、いわゆる穴太積石垣の特徴の直線石垣で構成されていたと考えて計算すると、いしくら地面から5.5尺+石一個分の高さになるので、石倉内部の石垣の高さは6.8尺ほどと考えられます。 

☆ 「かと」とは門

 この階には、「かと」と書かれた部分が三箇所、門が一ヶ所あります。 天守指図では、建物内部の間仕切には「くち」が使われているので、「かと」とは、建物の外と、中をつなぐ「門」をあらわした表現であると思われます。
 これらの「かと」の内、南東の門の外側と、南西の外側から天主台に接して、礎石が発掘されているので、外部との連絡通路が接続していたと考えられます。  他の二箇所は、東側のものは台所郭との連絡通路、西側のは、二の丸との連絡通路と考えられます。 ただし、東南と西以外は入り口らしき形が書かれず、 東側のものは、入り口らしき書きこみから二間南側の、「御もの置」部分に「かと 東ノ御てんよりろうか有」の書きこみが見られます。
 安土城の天主台石垣は、本丸より10mほど、天主脇からも7m近くの高低差が有るので、高低差を減らす目的で、天主一階ではなく、その下に入り口が付いている可能性も十分考えられます。 ここの書きこみは、北東角の、くち、から階段で下りて、「御もの置」の床下を通り、ここの部分に外からの連絡通路が接続していた為ではないでしょうか? ただし、いしくら部分には通路の書きこみが無いので、いしくらの上、二重目の下に、外部との連絡通路としての半地下部分が存在すると思われます。

匠明より 東山殿図
天守指図に部屋の用途を重ねてみた図

■ 部屋の用途と配置

☆ 主殿・広間

 この指図が、過去に行われた復元案よりすぐれている部分は、実は部屋の配置で、
東南入り口に遠侍>
続いて門があり>
式台 > 広間 >上段の間 > 奥、
と、表動線が配置され、
東北に台所、  北に倉、
と、匠明にかかれる様な、室町時代の東正面の屋敷配置の形式にきちんと部屋が配置されています。

☆ 正式な入り口は東の御殿からの廊下

 一般的に安土城天主の入り口と考えられている、いしくらからの通路を入った場合、地下からの階段を上った先が台所の向かいになる、ということは、いしくらの入り口は、織田家内部の人の通用口で、来客は、本丸御殿からの通路を通って、天守指図に描かれる東南部分の「かと」門の部分から、天主に上ったと思われます。

最終更新日時
2006年1月4日
23:13:50

安土城復元案バナー
■天守指図

指図と天主台
記録が無い!
吹き抜けの噂
抹殺された噂
十七畳の部屋
十二間と畳


いしくら
二重目
三重目
四重目
五重目
六重目
七重目



■安土城
   復元案

安土城とは・・

安土日記
天守指図
宣教師の記録

大聖堂
日本建築史
宗教

天主復元案


掲示板
bbs書庫

参考文献

サイトマップ

ハ見寺復元案

トップページへ







[安土城とは・・] [安土日記]  [天守指図] [宣教師の記録] [大聖堂] [日本建築史] [宗教] [天主復元案]
[作者紹介] [掲示板] [bbs書庫]  [リンク] [参考文献] [付録・資料室]  [トップページへ]
前のページ  
このページのTOP
次のページ  
          Copyright(C) 1999- , Asitaka-Jyunnya, All Right Reserved.
             http://www1.asitaka.comindex.htm
安土城復元案のバナーです。ご自由にお使い下さい。リンクは自由です。