徳川家の埋葬法


■ 家康の神葬

☆ 家康薨去 (いえやすこうきょ)

 元和2年(1616)1月21日、鷹狩の際に立ち寄った、駿河国田中城で発病した徳川家康は、しばらく田中城で療養し、その後駿府城に戻り、治療に専念したが、病状は一進一退を繰り返していた。 そのような状態の中、3月27日に太政大臣に任じられ、その任官の儀式を駿府城で行ったものの、病状はますます悪化し、4月17日、従一位太政大臣徳川家康は駿府城において薨去。 享年75歳であった。

☆ 久能山へ即日埋葬 (吉田神道)

 4月17日巳の刻(午前10時ころ) 徳川家康が薨去すると、遺体はその日の夜に、久能山へ運ばれ、19日夜に、当日竣工した三間四方の仮殿で、吉田神道の式に則り、神龍院梵舜によって、御遷座の儀が執り行われ、家康の霊柩が仮殿の内陣に納められた。

☆ 日光へ改葬 (山王一実神道)

 久能山東照宮は、元和3(1617)年12月に竣工するが、家康の遺体は、大僧正天海によって、竣工の9ヶ月前の3月15日に久能山を発し、4月8日に日光東照宮の墓所に納められ、上に木製の宝塔が建てられた。
 家康の遺言から、遺体の改葬は天海の策略と言う説があるが、久能山では、霊柩を仮殿に納めている事からして、改葬は、当初から予定されていた事と思われる。
 家康の霊に対しては、天皇の即位勧請の際に行われた秘儀、塔中勧請鎮座深秘式、三種神器秘印明が天海によって修され、家康は、我が国に君臨していた唯一絶対の神である、天皇と同等もしくはそれ以上の神として祀られることになった。 

☆ 皇族が家康の霊に仕える

 正保2年(1645)11月3日、東照宮の宮号が宣下され、伊勢神宮と並んで例幣使が差遣されるようになり、明歴元年(1655)には、後水尾天皇の皇子、守澄法親王が日光門主となり、その後は代々皇族が日光法親王として家康の霊に仕える事となった。

■ 特殊な埋葬法と安土城

☆ 吉田神道と土葬

 家康の埋葬以後、14代将軍家茂に至るまで、徳川将軍は、宝塔型の墓に土葬で埋葬されています。 それ以前の、鎌倉や室町幕府の将軍は、火葬で、五輪塔や宝篋印塔に埋葬されていて、土葬というのは一般庶民の葬法で、天皇や公家、将軍などの、高貴な人の埋葬法としては、珍しいものなのですが、これは、人を神として祭る吉田神道の方法が取り入れられたものと考えられます。
 吉田神道では代々、当主が亡くなると、穢れが付かないよう、その日の内に埋葬して、墓所の上に社を建てて、神として祭っていました。 室町時代当時、人を神として祭るノウハウ?を持っていたのは、この吉田神道だけなので、家康は神になるために、即日に久能山へ運ばれ、三間四方の仮殿に祭られ、土葬で埋葬という、吉田神道の方法で遺体の神格化が行われ、代々の将軍もそれに準じて、土葬で埋葬されたものと思われます。

☆ 宝塔と天守指図

 木製や銅製の宝塔を墓所に使う例も、戦国大名はもちろん、鎌倉や足利将軍家にも無く、天皇家や公家にも見られない方法で、わずかに、寺院の開山塔に見られるのみの、珍しいかたちです。
 土葬については、吉田神道の神葬からきていると考えられますが、宝塔については、吉田神道にも天海の山王一実神道の元になった天台宗でも、宝塔を墓に使う例は無いので、 これは、信長の安土城にあった、吹き抜け中央の宝塔の影響ではないか?と思われます。
 天守指図に書かれる安土城には、地下のいしくら部分の吹き抜け中央に、宝塔状の物体が書かれています。 大聖堂の項目で見た様に、これは大聖堂の天蓋付きの祭壇、バルダッキーノを模して作られたものと考えられるので、この地下には、聖人の遺骨、この場合は信長の遺骨が、発掘された中央の穴の中に、甕に入れて葬られる予定であったと思われます。
 もっとも、安土城完成当時信長はまだ生きていたので、この穴の中には、盆山と同じように、信長の代りになるものが納められていて、信長の死後、二の丸の信長廟を作るときに掘り起こされ、中に入っていた、信長の代りであった物を信長廟の地下に埋葬し、ハ見寺の盆山を墓石の代りに安置したのではないでしょうか。

☆ 安土城が与えた影響

 家康の霊に仕える日光法親王と、その上方、奥社の宝塔に祭られた家康の関係は、天皇常在の御殿である清涼殿を模した、安土城本丸御殿と、その上にそびえる、宝塔を中におさめた天主、との関係に、近いものがあり、信長が発案して果せなかった、自分自身が神となり、天皇を自分に仕えさせるという構想を、家康が部分的に実現したのではないか と、思われます。


最終更新日時
2004/02/22 (日)
20:37:53

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