安土山の風水■ 地政学上の安土山☆ 信長の城郭連携構想信長はなぜ、近江を支配した佐々木氏の居城の観音寺山ではなく、安土山に、城を築いたのでしょうか?。 中井均氏の〔足利 健亮氏の方が先だったかもしれない。〕研究によると、信長の築いた、琵琶湖湖畔の城郭ネットワークは、長浜、坂本、大溝、そして安土の四城が、平行四辺形に配置することにより構成され、 安土―坂本間の距離と、安土―長浜間の距離が等しい事から、坂本―長浜の中間の、安土山に城を築いたとしています、たしかに、これらの城は湖畔の城郭ネットワークとして作られたと思いますが。大溝城はもちろん、秀吉の長浜城も、琵琶湖の交通の要衝でも、城塞堅固の地でも無いので、これらのネットワークは、先ず安土城の計画があった上で、ネットワーク化が計られたのではないか考えます。 このページでは、安土城の占地について考察します。 ☆ 移転する信長信長は、尾張を平定した時に、尾張国主の斯波氏の居城で、尾張支配の拠点であった、清洲城に移り。 斉藤氏を滅ぼして美濃を手に入れた時に、美濃支配の拠点であった稲葉山城の名を、岐阜城に改めて居城を移しています。 この例からすれば、南近江を支配していた佐々木氏を滅ぼして近江を手に入れた後、近江支配の拠点であった観音寺城の城下町にあたる常楽寺で、近江中の相撲取りを集めた、相撲大会を開いている事は、安土城の建設計画が、観音寺山の、佐々木氏を滅ぼして、上洛した直後に、始まったと考えられます。 ☆ 近江の交通の拠点琵琶湖を渡る交通路として信長は、佐和山―坂本間を多く利用していて、途中で風雨が出た時には常楽寺に上陸している事からして、琵琶湖の船の交通拠点は、佐和山―常楽寺―坂本であったと考えられ、明智光秀に一方の拠点である坂本に城を築かせた様に、秀吉に命じて小谷城に代る北近江支配の拠点として新しく城を築かせた時に、長浜ではなく、琵琶湖水運の拠点である佐和山に城を築けば、近江八幡が、ネットワークの中間点になります。 ☆ 防御面から見た安土山防御の観点から見ても、独立している八幡山と違って、安土山は、標高が倍以上もある観音寺山の尾根続きにある山なので、いくら安土城の構えが堅くても、観音寺城を敵に奪われれば、城内が丸見えになる欠点があります。 ■ 宗教学上の安土山☆ 北辰の道安土山は、北緯 35度9分10秒 東経 136度8分30秒の位置にあります。 ここから北に約30Km離れた琵琶湖の湖上に浮かぶ竹生島は 北緯35度25分11秒 東経136度8分47秒の位置に当り、山頂間の東西のズレは400mほどしか無く、竹生島山頂が島の東側に寄った位置にある事や、安土山の東西の幅を考えると、竹生島は安土山の真北に位置する事になります。 ☆ 竹生島弁財天の勧請 ここで思い出されるのは、ハ見寺に竹分島の弁財天が勧請されている事で、信長が参詣した際、誰もが一泊二日の行程を予想したにもかかわらず、一日で往復して、遊びに出歩いていた女たちが成敗された事件があります。 ☆ 須弥山との類似昔の地図を見ると、安土山は、琵琶湖の内湖である、大中の湖のさらに内湖の、伊庭内湖に突き出た半島状の山で、観音寺山の支脈と、八幡山、長命寺山などに丸く囲まれた中にあります。 また、安土城は、南側にも3重に濠が掘られ、その先には水田を隔てて、観音寺山の支脈が廻り、観音寺山の先にも間に水田と中山道を挟んで甕割山・船岡山や箕作山があり、幾重にも山と水に囲まれた中心にあるといえます。 ☆ 風水でみる安土城 風水思想では、気は、北から南に流れ、周りを囲む山が、気をたくわえる事になっているので、竹分島の気は、琵琶湖を渡り、安土山に流れ込み、安土山を囲む観音寺山、長命寺山などの山々が、気をたくわえる地形になっていて、安土山は、風水上、良い場所にあると考えられます。 |
最終更新日時 2004/02/22 (日) 20:37:34 ■ 宗教秀吉の埋葬法
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