天主台中央の穴

安土城の天主床面には中央部分のみ、礎石が置かれずに穴があったことが発掘調査により判明しています。この穴に埋まっていた焼土の中から備前焼の甕の破片が発見されているのですが、この天主中央の穴と備前焼の甕の破片の関係について、考えてみます。 


■ 調査報告の記事から

◇ 滋賀県史跡調査報告 第11冊
    第三章 天主及び本丸御殿阯の調査 P41 (昭和15年の調査)より

次に中央柱眞の礎石の欠除せる部分を見るに、その部分には叩き漆喰の跡が認められす、且その附近埋土らしい軟土層のあることが認められたの試にその部分を掘り下げたところ、約二尺平方の大きさにて深さ四尺許の穴のありしことが判明し、この穴の中には全部焼土と思しき土砂及び木炭化せる木片等が充満し、尚この焼土層の中から褐色の壷の破片十数箇を發見した。 この焼土の部分と地山の部分とはその境界がはっきりしてをり、この縦穴が天主と同時のものか、焼亡後に掘られたものか、又如何なる用途のものであったか明らかに為し得なかったが、穴の底の状況其他より考へて少なくも掘立柱の穴とは考へられなかった。

◇ 読売新聞滋賀版 安土城信長の夢 第17回 1998.8/21 (平成12年の調査)より

天主が焼失して三百五十八年後の一九四〇年、天主台に初めて調査の手が入りました。九十一個の柱礎石が碁盤目状に整然と並ぶ中、中央の柱位置だけには礎石がなく、性格不明の穴があいているだけでした。焼け土と炭化物が詰まった、一辺約六十センチ、深さ約一・二メートルの穴と報告されているこの穴の正体は何なのでしょうか。
 巨大な心柱の跡か

 安土城天主は五層六階地下一階という途方もない木造建築です。この時代には、二階建て以上の建物といえば金閣、銀閣くらいしかありません。前代未聞の巨大な高層建築を建てる際に参考としたのが、心柱(しんばしら)を持つ塔の構造ではないでしょうか。 ただ、塔の心柱は周囲の部材とは分離して立てられているため、全体が竹のようにしなる構造となっています。 これに対して、城郭建築に用いられた心柱には床梁(ゆかばり)が四方から差し込まれ、各階が均等に固定されています。心柱がまさに構造の要(かなめ)として、建物全体を強固にするのです。

 建物の構造の要

 姫路城天守は巨大な二本の心柱で支えられた構造ですが、その礎石は地表に現れています。しかし、現存最古の天守建築と考えられている丸岡城天守の中央には、地中深く埋められた太い柱が構造の要として立てられています。 巨大な礎石建ちの建築物を建てるとき、構造の要として掘立柱(ほったてばしら)を用いることは古代からしばしば行われてきました。平城宮内裏の回廊隅に建つ巨大な楼閣はまさにそのような例の一つです。日本古来の掘立柱に信頼を寄せた結果でしょう。

 軟弱な地盤固めに蛇石使う?

 ところで、安土城の建築に当たって、蛇石(じゃいし)という途方もない巨石が天主まで上げられました。当時の記録には、一万人余の人々が三日三晩かかって上げたと書かれています。百トンを超えるかもしれないような巨石は、これまで城内から発見されていません。安土山の軟弱な地盤を固めるため、古代の塔心礎のように、天守台中央に埋められている可能性が残されています。 安土城天主中央にあけられた穴−−。それは、地中深くから建ち上げた巨大な心柱の跡ではないのでしょうか? その答えは数年後の発掘で明らかにされるでしょう。 
 安土城郭調査研究所長 藤村泉

◇ 安土城郭調査研究所:これまでの成果 (平成12年の調査についてまとめたサイト記事)より

中央の穴については、従来宝塔の下に甕を埋めた穴であるとか、掘立建柱の痕跡であるとかいった説が唱えられてきましたが、穴の形状からみて両説とも当てはまらないことが明らかとなりました。また昭和15年の調査でこの穴を埋めていた土から備前焼きの甕の破片が発見され、今回の調査でも同じものが発見されましたが、もともとこの穴に完形の甕が埋まっていたのではなく、穴を埋めた土に甕の破片が混ざっていたのに過ぎないことが確認できました。また安土城築城の際に「蛇石」と呼ばれる巨石を運び込んだといわれており、天主中央の地中に埋まっているのではないかと考えられていましたが、穴の底にはそうした石は確認できませんでした。  結局、天主の穴についてははっきりとしたことは分かりませんでしたが、従来提唱されていた仮説がいずれも当てはまらないことだけははっきりしました。

◇ 安土城天主研究史を考える 木戸雅寿 『考古学論究(小笠原好彦先生退任記念論集)』2007 より 

安土城の穴の径と深さから考えると柱長さに対しての埋め込み部の深さや径が足りないように思える。これでは50mを超える天主を支える芯柱と考えるには無理がある様に思われる。新たなる考え方としては、地鎮の際に鎮壇具を入れた穴ではないかとも考える。地鎮例では、敷地の中心部に埋めることになっており、鎮壇具は道具や物の場合もあれば、砂や石、炭化物を充填する場合もあるようである。いずれにせよいまだ謎には違いがない。
(三)出土遺物が物語る
@中央土壙出土備前焼甕
先にも述べたが、未だに穴に埋められていた地鎮具など、持論の天主復元に有利な希望的観測でこの土器が扱われることを見るので今一度ここで述べる。天主の中央の穴から昭和十五年に発見された備前焼甕の破片は、大きな(復元から見ておそらく二石甕)甕の口縁部の極一部分(全体の一割に満たない)の破片だけである。埋甕であるなら穴に残るのは方(ママ)引用者注:肩)から下の部分全部である。置かれていたのであっても、その場にあったのであれば全てが破片となって出土しなければならない。出土状況は甕が穴に埋められた状況で発見されたのではなく穴の上に乗るか破片が刺さっていた。この状況は上からの落下物であると考えられる。備前の大甕は普通、水・米・油などをいれる貯蔵具である事から考えると、地下一階の床に置かれていたものと考えるのが妥当であろう。この遺物が天主の形態を左右するものではない。

■ 天主台中央の穴考察  

 発掘調査による結論

 昭和十五年の発掘調査における報告書で、「少なくとも掘立柱の穴とは考へられなかった」と書いてあることから推測できることは、穴を発見した当初は、掘立柱の穴の可能性があると仮定して発掘調査を行っていたという事です。 平成の調査においても、まず先に掘立柱の穴ではないかという調査報告が書かれ、最終的に天主を支える芯柱としての掘立柱と考えるには無理がある。という結論に落ち着いていて、その点においては昭和十五年の調査報告と同じく、良く解らないというのが最終的な結論の様です。

 穴の大きさと甕の大きさ

 調査によって判明した穴の大きさは東西、南北共に60数cmで深さが1.2mほどで、底の部分が沓型にオーバーハングしている形状であり、穴の中の焼土から見つかった破片から復元される備前焼の甕の大きさは二石甕と推測され、先ほどあげた資料の中で木戸雅寿氏は穴と甕は関係がないと結論付けていますが、大きさだけみれば、復元された備前焼の甕がちょうど穴にぴったりと納まることになり、甕が穴に埋められていた可能性は否定できません。

 大甕は棺として使われることも

 木戸雅寿氏は備前の大甕は普通、水・米・油などをいれる貯蔵具と紹介していますが、甕が穴に埋められていたと仮定した場合、貯蔵具以外の用途としては、備前や常滑の大甕は甕棺として使われる事があります。 発掘された例をあげれば徳川家十二代将軍家慶の側室の見光院と殊妙院、仙台藩三代目の伊達綱宗などがあり、伝承では明治に発掘された秀吉の墓からも甕に入った遺体が見つかったとされており、米沢にある上杉神社にも上杉謙信は甲冑を付けて甕棺に納められているという言い伝えがあるので、備前焼の二石甕が穴に埋められていたとすれば、甕棺として使われた可能性は十分に考えられます。

■ 安土城天主は信長の墓  

 大聖堂は聖人の墓

 埋められた二石甕そのものを単体で考えれば甕棺の可能性があるのですが、どうして調査報告書には全く出てこないのかというと、棺というものは墓に納めるもので、天守が墓として使われた類例が無いから全く考慮されていないと思われます。 たしかに城郭建築の天守が墓として使われた例は無いのですが、日本建築史として高層建築物を考えた場合、五重塔・三重塔などの塔や、金閣・銀閣などの舎利殿はすべて舎利を祀っている、ということはつまり釈迦の墓なので、将軍御所に建てられた楼閣建築から発展して天守が作られたと仮定した場合、安土城天守が墓の性格を持っていたとしても特に不自然ではありません。 また、天守指図から復元される安土城天主とキリスト教の大聖堂との類似点から考えると、安土城天主は信長を神として祀る大聖堂として建設されたと考えられるので、ペテロに捧げられたサンピエトロ大聖堂の地下にペテロの墓があるように、安土城天主、地下中央の穴には備前焼きの二石甕に入れられた信長の遺体が埋葬される予定であったと考えられます。

 信長廟に納められたもの

 とはいうものの、安土城建設時には信長はまだ生きていて、生きている人の遺体を埋葬する事はできないので、この備前焼の二石甕には信長の代りになるものが納められたと考えられます。 信長の代りになるものとして考えられるのが、『蒲生郡志』に信長廟に納められたと書かれる、佩用の太刀・烏帽子・直垂で、これらの遺品が元は安土城天主地下の備前焼の甕に納められていたと考えれば、発掘調査の結果とも矛盾しません。 また、宗教的に信長の代りを信長の服で代用できるのかというと、いない人の代りを衣服で代用する例は、現在も天台宗の延暦寺で行われている御衣加持御修法などがあり、御衣加持御修法では明治維新以後、宮中で天皇に対する加持が行えなくなった代りに、天皇の衣服に対して加持を行って代用しているので、信長佩用の太刀・烏帽子・直垂を備前焼の甕に納めれば、宗教的には信長を埋葬した事と同じと考えることができます。

 掘り起こされた備前焼甕

 天主台中央の穴に、信長の代りとして備前焼甕に納められた佩用の太刀・烏帽子・直垂が埋められていて、伝二の丸信長廟を作る際に掘り起こされて、現在の信長廟に埋められたと考えれば、発掘調査の結果を上手く説明できます。 木戸雅寿氏が穴と甕は関係ないとしている理由は、発掘された甕の破片が、大きな二石甕の口縁部の一割に満たない極一部分であり、破片が少なすぎる事にあるのですが、 備前焼甕が、もともと信長の代りになる物をいれた甕棺だと考えれば、甕を掘り起こして抜き取る際にもなるべく傷を付けないように注意したはずです。 焼け落ちた天主の瓦礫に埋まった床面の中央部を、鍬などで大雑把に削り取って行き、鍬が甕に当った後は鏝で丁寧に掘り起こしたとすれば、甕が割れるのは口縁部の極一部分で済みます。 また、埋甕を抜き取る場合、甕の肩の部分まで周囲を掘り起こせば、あとは甕を少しづつ動かすことによって、全体を掘り起こすことなく抜き取る事が可能になり、抜き取り跡の下側は、甕の形をした壁がはっきり残るので、甕の抜き取り跡が焼け土で埋まった場合、昭和15年の調査にあるように焼土と地山の部分ははっきり分れ、なおかつ壁の面は甕の下部の形をうつして湾曲するので、直線で立ち上がるはずの掘立柱の跡とは考えられないことになります。






最終更新日時
2013/01/01 (火)
21:29:34

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