蛇石 じゃいし (へびいし)
「蛇石」は、信長公記に出てくる大石の事で、信長公記に、「助勢一万余の人数を以って夜昼三日に上せらせ候。 信長公 御巧みを以って、輙 御天主へ上させられ」と、総勢一万人がかりで天主に上げたと書かれている石です。 この石は、信長公記では「じゃいし」と呼ばれているのですが、もともとの呼び方は「へびいし」であり、安土城より10qほど北東の荒神山から運ばれたのではないかと考えられます。
■ 安土城の記録に書かれた蛇石
◇ 信長公記 安土御普請 より
爰に津田坊、大石 御山の麓まで寄せられ候と雖も、 蛇石と云う名石にて、勝れたる大石に候間、一切に御山に上らず候。然る間、羽柴筑前・滝川左近・惟住五郎左衛門、三人として、助勢一万余の人数を以って、夜昼三日に上せらせ候。信長公 御巧みを以って、輙 御天主へ上させられ、昼夜、山も谷も動く計りに候ひキ。
◇ ルイス・フロイス日本史 第1部83章 より
もっとも高い建物へ運び上げるのに四・五千人を必要とする石も数個あり、特別の一つ(の石)は、六・七千人が引いた。そして人々が確信したところによれば、一度少し片側へ滑り出た時に、その下で百五十人以上が下敷きとなり、ただちに圧し潰(され)、砕かれてしまったということであった。
■ 資料から読み取れること
☆ 天主へ上げられた
信長公記には「御天主へ上げさせられ」とあり、日本史では「もっとも高い建物へ」と書かれていて、安土城で最も高い位置にある建物は天主なので、どちらの資料も石は天主へ上げられたと記録されている事になります。 石を上げた人数が信長公記では一万余り、フロイスの日本史では六・七千人と違いがあるのですが、工事現場で働いている人数で六・七千人と一万人の違いを素人が見分けられるとも思えない、と宣教師の記録のコーナーでは書いたのですが、山の上に石を上げる場合、石を引く人員以外にも、引き上げるための道を固めたり轆轤(ろくろ)の設置などの人手も要ると考えられます。 そういった視点で記録を読めば、信長公記の記載は、蛇石引き上げプロジェクト全体の人数が一万人であると読み取れ、フロイスの日本史では、実際に石を引っ張った人数が六・七千人と読めるので、石の上げられた場所と同じように、二つの記録は、同じ事を別の視点で記録していると考えられます。 ☆ 安土山以外の場所から持って来た
信長公記に、「津田坊、大石 御山の麓まで寄せられ候」と書かれていることから、蛇石は安土山以外の場所から津田信澄によって安土山の麓まで運んでこられたものである事がわかります。 現在、安土城に行くと、帰り道のコースにあたる百々橋(どどはし)口の石段と伝秀吉邸をつなぐ山道付近には、いくつかの大きな岩が残っているので、ただ単に大きな岩が必要であったのなら、安土山の山中からでも調達できたはずで、蛇石をわざわざ別の場所から運んできたという事は、その石でなければならない特別な理由があったと考えられます。 ☆ もともと有名な石だった
信長公記では、蛇石は名石であって、非常に大きい石であると書かれています。 一般に、蛇石=名石ということで、蛇の形をしているとか、美しい模樣があると考える向きが多いのですが、全国各地にある名石を調べてみると、美しくなくても、変わった形をしていなくても、石に由来する何らかの物語や伝承がある場合、名石と言う表現がされているので、 安土城の蛇石の場合も、蛇にまつわる伝承がある石であれば「蛇石という名石」の条件に合うと思われます。
また、築城に当たって信長が石に名前をつけたのであれば、「蛇石と仰せられ」とか「蛇石と名づく」、という表現がされるべきで、「蛇石と云う名石にて」という表現から言って、安土城築城より以前に、蛇石と名づけられていた、何らかの由来のある有名な石を、安土山に運搬してきたものと思われます。 という事で、安土近辺に伝わる伝承を調べてみると・・・。
蛇石と名づけられた石の伝承は、室町時代に書かれた「三国伝記」に載っていました。
なお、原文は漢文なので、適当に読み下してあります。
■ 蛇石といわれた石の伝承
◇ 三国伝記 ( さんごくでんき−室町時代成立の説話集 )
二巻 第十二 行基菩薩事 明 日本霊鷲山也
和に云う、
薬師寺の行基菩薩と申すは、聖武・孝謙の二代の御持僧也。
俗姓は高階、父は高子の貞千、母は半田の薬師女、和泉国 大鳥郡の人なり。
〔十五歳にて出家して、天平十七年大僧正と為す。此の任 是より始まる也。廿一年大菩薩号を賜る。〕
聖武天皇 東大寺を建立有り。
金銅十六丈の盧舎那仏を安置して供養を遂げんとし玉ふに、
「行基菩薩 導師為る可し。」と勅命有り。
行基の曰く、「是の程の大善根は、冥顕に帰し給ふべし。」と勅答有りて、
明日の供養と定めける日、
行基、摂津国 難波浦に出て、西に向いて香花を備へ、伽陀を唱へて礼拝し玉ふに、
五色の雲 天に聳き、一葉の舟 浪に浮びて、天竺の婆羅門僧正 忽然として来り給ふに、
諸天 蓋を捧て、御津の浜松 自ら雪に傾くかと驚き、異香 衣を染て、難波津の梅 忽に春を得たるかと謬まりたる。
一時の奇特 爰に呈れ、万人の信仰 斜めなら不。
行基菩薩 婆羅門僧正の御手を引へて、
「霊山の 尺迦の御許に 契りてし 真如朽せず 相看つる哉」と、詠じ給へば、
婆羅門僧正
「迦毘羅衛に 共に契りし 甲斐有りて 文珠の御顔 相看つる哉」と、読み給ふ。
則ち 東大寺供養 有けるに、天花風に繽粉し、梵音雲に幽揚す。
其の儀 則ち 言ばに尽すに 遑ま不。
其の後、行基菩薩 近江国に止住して 寺塔を建立 有りき。
湖水の〔東〕岸に平流山有り。
元は天竺霊鷲山の一岳にて有けるが、仏法東漸の理に依て、大蛇の背の上に乗じて月氏より日域に化来せり。
其の蛇は石と化して此の山を載せて東に向て今に有り。
毎日三度口を開く。 蛇石と云ふは是也。
峯に巌窟有り。
〔鷲の岩屋と号す。 行基 乳子の昔、母が樹の俣に捨てたりしを、此の岩洞より金色の〕
鷲、飛び来りて助け奉りし故也。
然らば則ち、
鷲頭の嶺の嵐は、常在不言の口を閇じ、 鷲池の麓の水は、曾波青蓮の目を開く。
之に依りて、行基 四十九ヶ〔所〕の伽藍を建立有るに、
当山を奥の院として、奥山寺と名付けて、説法利生 有りけるに、
四辯八音の法雨は、頻りに有漏の塵垢を洗い、大慈大悲の知恵の露は、普く不信の衆生を資く。
誠に貴き霊場也。 〔行基は八十二にして、菅原寺 東南院に於いて寂す。〕
◇ かめ山むかし話 より
むかしむかしのことです。
荒神山(こうじんやま)はいくつもの沼(ぬま)にとりかこまれていて、それはそれはうつくしいところでした。
けれども、宇曽川(うそがわ)は、雨がふるたび大水をおこし、あたりの田んぼのいねをながしました。
人々の生活はまずしく、その日その日をほそぼそとくらすというありさまでした。
そんなある日のことです。
とおいとおい天竺(てんじく)から、大日(だいにち)にょらいとよばれるほとけ様が、
大きなへびにのって、湖(みずうみ)の国にこられました。
にょらい様は、びわ湖の東に広がる荒神山(こうじんやま)を見て、
「なんと、清(きよ)らかな山なのだろう。少しここで休んでいくことにしよう。」 と、山のふもとにおりられました。
なにしろ、にょらい様は、世界(せかい)中をのこらずてらすといわれるぐらい、光りかがやくほとけ様です。
きっと荒神山(こうじんやま)全体が、ぱっと明るくかがやいたのでしょう。
「にょらい様だ。にょらい様がおこしになった。」 と、人々は、ぞくぞくとあつまってきました。
おいのりの声は、だんだんたかくなり、荒神山(こうじんやま)いったいに、ひびきわたりました。
にょらい様は、みすぼらしいみなりの、やせこけた人たちが、いっしょうけんめいおいのりするすがたを見て、びっくりされました。
そこで、これにこたえるように、体じゅうから、ますます光を出し、まばゆいばかりのおすがたで、
「この村が、いつまでも平和でありますように。この村に、五こくが、たくさんみのりますように。」 と、おいのりなさいました。
人びとのおいのりの声が、ますます高くなったときです。
「みなさんわたしは、これから、おおくの人びとが、平和にくらせるように、旅をつづけなければなりません。
わたしのかわりに、おともの大へびをここにおいていきましょう。大切におまつりしなさい。」 と、申(もう)されると、
空高くまいあがり、いずこともなく、おすがたが、見えなくなってしまいました。
人々が、ふとわれにかえってみると、
大へびは、いつの間にか、大岩にかわっているではありませんか。
その上、大きく長くなって、荒神山(こうじんやま)をつらぬいていました。
頭は、南がわの北町にありますが、しっぽは、ずっとはなれた、北がわの石寺の村に出ているのです。
人々は、おおよろこびして、へび岩をおむかえしたということです。
荒神山(こうじんやま)いったいを、おまもりする神様となった大へび岩は、
一日に三回、大きな口をあけて、人々のしあわせを、いのりました。
そのおかげでしょうか、それからは、今までひどかった宇曽川(うそがわ)の大水もふしぎにおさまり、
いねのよくみのるゆたかな村になりました。
のちに、米の神様として知られるようになった大へび岩には、
全国各地からおまいりするひとがたえなかったということです。
■ 安土山を霊鷲山にする方法
☆ 荒神山は霊鷲山だった
二つの資料を並べてみて、ほとんど平仮名の文より漢文読み下しの方が読みやすい感じがするのですが、一般的にはどう感じられるのでしょうか? 初めのお話は、東大寺造営に力を尽くした僧である行基についての伝説なのですが、その中の太字で示した部分に、昔は平流山と呼ばれていた現在の彦根市にある荒神山の伝説がのせられています。荒神山はもともと、釈迦が法華経などを説いた天竺にある霊鷲山の一岳であり、その霊鷲山の一岳が蛇の背中に乗って日本へやって来て、蛇がそのまま石になった、という伝説です。
☆ 荒神山の へび岩
この荒神山のへび岩(三国伝記では蛇石)の、頭の部分は現在も荒神山の山裾にあり、地元の人に祭られています。
行き方は、
安土城から県道2号線を北東に向かうと、頂上に水道のタンクのある山崎山まで一直線に道路が延びています。
この山崎山を廻りこんだ西清崎の集落の外れから、山崎山とは反対方向の荒神山に向かって行くと、
山裾の墓地の入口にたどり着きます。 この墓地には入らずに、道路に沿って山裾を歩いてゆくと、
イノシシ除けの柵がある山道の入口にたどり着きます。
この柵は、田舎に住んでいる人なら常識ですが、
立ち入り禁止の柵ではなく、山からイノシシが下りてくるのを防ぐ柵なので、
人間なら、跨げるか開けられるように作ってあります。
※開けた場合は必ず閉めてから先に進んで下さい。
山道に入ってしばらく進むと、蛇岩参道の看板が立っています、
矢印の方向に進み、丸太で整備された階段をしばらくのぼると、
しめ縄の巻かれた蛇岩が見えてきます、
大きさは、ちょうど車一台分位なので、
重量にすると20t位でしょうか、
きちんと整備されて下草も刈られているので、
非常に岩全体が見やすくなっているのですが、逆にいえば観察の対象みたいで神秘性が無い!
しめ縄の張られている先端部分だけでも蛇のような感じに見えるのですから、
半分より後ろは下草や木の枝に隠れて、隙間からちらっと見える方が岩が大きそうに見えます。
整備するときには、後ろの方は見えそうで見えない程度に枝を払って下さい(^^)
☆ しっぽが無い
このへび岩のしっぽは、かめ山むかし話では、北がわの石寺の村に出ている、と、伝えられているのですが、現在荒神山北側の石寺の方面には、しっぽらしい岩は存在しません。 2003年に彦根城博物館が編集した『荒神山と周辺地域の暮らし』の――聞き取り調査ノートより――には、「蛇岩のしっぽ側は曽根沼干拓前の昭和35年頃には、採掘され失われた…蛇岩は山の上の方にあり、採掘された石は、崖から谷筋へ転がし落とし、曽根沼際の石積み場へ運んだ。」 というように昭和35年ごろに採掘されたという証言がありますが、この中の、「蛇岩は山の上の方にあり」という証言から言って、昭和35年頃に採掘されたのは蛇岩では無いと考えられます、 なぜなら、もともと蛇岩は荒神山を乗せて来た蛇が石になったもので、頭側は山の下の方にあり地元の人に祭られている事から、しっぽ側の石も同じく、山の下の方にあって、地元で祭られていなければおかしいからです。 たしかに昭和35年ごろなら御神体の岩を工事用に採掘する事もありそうなのですが、その場合でもたたりを恐れて神事がとり行われるはずで、何の伝承もなしに蛇岩が採掘されてしまうのは不自然で、なおかつ山を乗せているはずの蛇のしっぽが山の上の方にあるという証言からして、この時採掘された岩は、もともとのへびのしっぽでは無いと考えます。
☆ へび岩のしっぽが安土城へ運ばれた
以上の事から、安土城へ運ばれた蛇石とは、荒神山の へび石のしっぽ側の岩で、取られた荒神山石寺の人は、山の上の方にあった岩を新たにへびのしっぽに見立てたものと考えられ、この解釈なら信長公記から読み取れる蛇石の条件、安土山以外の場所から持って来た、もともと有名な石、という二つを満たし、聞き取り調査ノートの証言の説明も付けられます。
☆ 安土城を霊鷲山にする方法
安土城障壁画の復元考察を行った平井良直氏は『安土城天主五階の空間構成に関する一試論』の中で、「信長は、『法華経』の造形を、<自己神格化>の装置として巧みに転用しているという可能性が、ここで新たに指摘できるのではあるまいか。」と結論部分で指摘しています。 法華経が説かれたのは天竺の霊鷲山であり、三国伝記ではその霊鷲山が蛇の背中に乗ってやって来たのが荒神山であるとされているので、荒神山のへび石と、荒神山の土を安土城の天主に持って来れば、安土城天主は宗教的には霊鷲山と同じものになることができます。 つまり、へび石のエピソードも、安土城天主を、法華経の造形によって自己神格化の装置として取り入れた信長の、一貫した意思のあらわれだったのです。
☆ へび石の埋められた場所は
へび石が、荒神山から運ばれた安土城天主を霊鷲山にする装置の一つと考えると、へび石が置かれた場所は、天守台を背中に乗せて運べそうな部分であると考えられ、具体的には天主から東に延びる天守取り付き台部分の地下ではないかと思われます。 発掘調査の際にもこの天守取り付き台部分から岩らしい物の反応があったので、天守台から左右に伸びる岩盤の東側の端に蛇のしっぽを付ければ、想像される蛇の頭は伝二の丸信長廟辺りに位置する事になり、天守指図の間取りから考えれば、信長の寝起きした常の御所は伝二の丸に想定されるので、へびの頭を押さえる位置に信長の座所が位置する事になり、自己神格化の装置としてちょうど良いのではないかと思われます。
以上の事から、へび石は現在、天守取り付き台部分の地下に埋まっているものと、とりあえず考えておきます。
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