大聖堂の影響 ―― その2


■ 最上階の鐘

☆ドームの上の鐘楼

イエズス会の書簡の中の、1577年の、日本暦の天正5年8月下旬以降12月7日以前、に書かれた、『パードレ・オルガンティノが都より発せし書簡』、の中に。

 信長は、一城を築きしが、其れキリスト教国にもあるべしと思わざる、甚だ宏壮なるものにして、その中央に一の塔あり、畳二十枚四方(?)にして、高さ15なり、又5層の屋根あり。最頂上に一の鐘あり。この経費は、奈良の大仏と同額を費やすべしと言う。

と、書かれた物があります。 安土日記によると、安土城の工事は、天正5年8月24日に柱立で、11月3日に屋根が葺きあがったという事なので、この書簡の書かれた時点では、屋根が葺きあがったばかりの状態なので、飾り金具である宝鐸の取り付けには早すぎるので、ここに書かれる一の鐘とは、飾り金具の宝鐸の記述ではなく、又、工事用の時鐘を、わざわざ最頂上に釣るとは考えにくいので、

 この記事から、安土城には、小倉城のように、最上階に鐘が釣られていたと考えられます。

 最上階に鐘を釣る場合、床を張る前なら縄で梁の隙間を通して、下から吊り上げる事ができるので、この時点で鐘が上がっていても、おかしくありません。

 さらに、イエズス会の書簡の別の部分には、信長が、安土のカザの3階(最上階)で、『鐘や、その他珍しきものを見た』とあるので、この記事から、日本の聖堂では、鐘は鐘楼ではなく、聖堂の最上階に釣られた、と考えられ、この事からも、安土城とキリスト教の聖堂との繋がりを指摘できます。

西洋の大聖堂をみると、ゴシックの聖堂では、交差楼に塔が建てられ、鐘が釣られている例があり、ロマネスクの聖堂には、ドームの上が鐘楼になっているものが見られます。 この、ドームの上の鐘楼を、日本建築で考えた場合、奈良の法隆寺などの重層の鐘楼は、全て四角形の楼閣形式で作られ、屋根は切妻か入母屋に、なっているので、安土城が大聖堂を模して作られたと考えれば、八角形の上に四角形を乗せるという、結果的に、空前絶後となった、構造上、非常に難しい、様式が安土城に取り入れられた理由が説明できます。

天守建築が、室町将軍邸などに作られていた楼閣建築を発展させて作られたと考えた場按、楼閣建築では、最上階の屋根が宝形で作られ、天守建築では入母屋で作られるという違いが説明できません。安土城最上階が金閣寺を模したものとする西ヶ谷氏の説もありますが、安土図屏風を写したとされる、カータリ―の版画の安土城の最上階の屋根が、金閣寺のような宝形ではないことの説明をどう付けるのでしょうか?

なお、私は、カータリ―版画の屋根は、城門の屋根も兜葺きのように見える事から、入母屋の屋根形式が存在しない西洋に住む人の観察によって書かれた為に、変形して書かれた、入母屋屋根だと考えています。

という事から、安土城最上階は、大聖堂の、ドームの上の鐘楼という形態を、日本建築の、重層の鐘楼で作ったために、八角形の屋根の上に、入母屋屋根で四角形の形で作られたと考えられます。

最終更新日時
2003/03/04 (火)
22:24:15

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