東山殿 常御所

―― ひがしやまどの つねのごしょ


このページでは、宮上氏の考察による安土城の復元案をつくる上で、一階部分の基本になっている
「東山殿 常御所」について、考えてみます。 

■ 東山殿

☆ いわゆる”銀閣寺”について

東求堂 室町時代の八代将軍 足利義政は、1473年(文明5年)八歳の嫡子足利義尚に将軍職を譲ると、隠居所の建設を希望するようになり、応仁の乱がおさまった1482年(文明14年)、応仁の乱の一方の当事者であり実弟の足利義視が還俗前に門主を勤めていて、応仁の乱で焼失して再建できずにいた 比叡山の末寺で門跡寺院でもある浄土寺の跡地に山荘造営を開始した。
 応仁の乱の後で幕府の財源が不足していたため、諸国に"御山荘要脚段銭"という臨時課税をかけて造営費の捻出を図ったものの諸大名の積極的な協力は得られず、将軍家の領国である山城国の公家・寺社領から費用や人夫・用材を徴収して工事が進められたが、農民の課役滞納願や公家・寺社の不満などにより建設工事は延滞を余儀なくされた。
 工事を始めて翌年 1483年(文明15年)に常御所が完成すると、義政は直ちに常御所に移り、自ら東山殿と称し以後没するまでの約8年間山荘の造営に精力を傾けた。
 義政は自らの指揮によって、等持院の庭松、鹿苑寺の庭石、東寺の木石や池の蓮といった当時の名石・名木を各寺院の反発をおし切って徴発すると、河原者という被差別身分の出身である善阿弥らを庭師として取立て、これらを駆使し築庭に着手した。
 やがて禅室の西指庵ができ持仏堂の東求堂が完成し、会所・泉殿(弄清亭)・竹亭(漱蘚亭)・船舎(夜泊船)・亭橋(竜背橋銀閣)・釣秋亭・御末・台所・総門など多数の建造物が建てられ、1489年(長享3年)2月には観音殿(銀閣)が立柱するに至った。
 1489年(延徳元)3月に息子義尚が六角氏討伐の陣中で没すると、義政は出家していたにもかかわらず自ら再び将軍としての政務を執るようになり、東山殿に将軍公邸の体裁を整えるため寝殿の建設を試みるものの、親子の仲がそれほど良くなかったとはいえ息子の死に気を落としたのか病に伏せるようになり、翌1490年(延徳2)1月7日に銀閣の完成を待たずして五十五歳で薨去。
 義政の死後、遺言により東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが現在の慈照寺(銀閣寺)である。

☆ 常御所

 東山殿は、元将軍の邸宅として作られたにもかかわらず、寝殿などの公の施設を欠いていたために、本来私的な日常生活の場所であるはずの常御所でも公的な行事が行われており、そのためもあってか常御所は”主殿”とも呼ばれている。
 また、公的行事が行われたために建物の南側部分については指図が残され、復元にあたっては残された南側半分の指図と、相阿弥の書き遺した「御飾書・君台観左右帳記」が元になる。




最終更新日時
2007年6月17日
17:34:00

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■ 復元の資料

 (堀口捨己著 書院造りと数寄屋造りの研究 1978.鹿島出版会より)

☆ 『御飾書』 君台観左右帳記 (常御所部分)

一   常御所
一 御しん所馬違様山水、人形、御納戸御違棚
   御座有、御置物無御座(候)
一 同東向昼の御座所、御置物なし

一 南八景の御間戌亥のすみに(御違棚上に御硯筥唐木、次の重
   に)しほ筒色々の
   青磁のもの置るゝ

(一 同西四間耕作の間、艮すミ御つし棚置物小川の御所と同前、
   御硯文台御ひんの道具、同前)

(一 同西六間、北東一間に基盤将基双六盤三面おかるゝ)


一 昼の御座所の北の落間、和尚様の人形、御置物
   なし

一 同西三間、めしの御茶湯御座有、御釜しろ
   かね御水差、水こぼし、ことうかくれか、茶
   碗の(物、)御けいさん、台、御茶壺、文琳、御うかい
   茶碗、にょうしう、其外茶碗のつほ、
   つけ物、色々入ておかるゝ

一 同西の御六間御ゆとのの上玉礀様山水、
   御置物(は)御座なし、


一 昼の御座所の丑刁に、四帖御間有、東む
   きに一間の御書院有、つねにいひつなりの
   花瓶 胡銅に花たてられて、唯一
   つをかるゝ、戌亥の角に御違棚置るゝ、墨跡のよこ絵一
   幅かゝる、棚の上には文台をかれて、御書物
   一帖をかるゝ、其外漢書をかるゝ、御座敷には
   色紙をかるゝ、御書院の脇には
   官女二幅有 王立本筆をかるゝ

一 同北四間御たき火の間御たき火の道
   具をかるゝ

『おかざりしょ』 くんだいかんそうちょうき

つねのごしょ

ご寝所 馬遠ふうの (ばえん、南宋の画家・絵を画面の隅に描き余白を広く取るのが特徴) 山水画と人物画、納戸に違い棚が置かれ、かざりの置物はない。

寝所の東側に昼のござしょ、置物はなし。塩笥しおげ茶碗

南はっけいの間 北西の隅に違い棚が置かれ、上段に唐木のすずり箱、下に塩笥(しおげ)型の茶碗や青磁の焼き物が色々置いてある。

八景の間の西側に四間(四坪の大きさの部屋)の耕作の間、北東の隅に厨子(ずし)棚が置かれ小川御所の時と同じように硯と文台(ぶんだい・書物や硯を置く台)髪を整える道具が置かれている。

耕作の間の西側に六間(六坪の大きさの部屋)、北東の一間の所に碁盤と将棋盤、すごろく盤の三面が置かれている。

昼のござしょの北側に落ち間があり、牧谿ふうの (もっけい・南宋末~元初の頃の画家、禅僧で法諱は法常、画号と経歴から牧谿和尚とも称される、やわらかい筆の運びが特徴) 人物画が描かれ、置物はない。

落ち間の西側に三間(三坪の大きさの部屋)、食事やお茶の席として設えられ、銀製の茶釜、水差し・建水・胡銅製の五徳型蓋置き文淋型の茶入、茶碗は建盞 (けんさん・宋代に福建省建窯で焼かれた茶碗、黒地で光沢がある) 天目台・お茶壷・文淋(ぶんりん)型の茶入れ・うがい茶碗は饒州製の青磁、そのほか焼き物の壷に漬物をいろいろ入れて置いてあった。

三間の西側の六間(六坪の大きさの部屋)は、お湯殿の上、玉澗ふう (ぎょくかん・南宋末~元初の画僧、薄墨を使ってぼかした画風が特徴) の山水画が描かれ置物はない。


昼のござしょの東北に四畳の部屋がある、東側に幅一間の付書院があり、そこにはいつもいびつな形の胡銅製の花瓶が一つ、花を立てて置いてある。 北西の隅には違い棚が置かれていて、その上に横に長い水墨画が一幅かけられ、棚の上には一帖の書物が文台(ぶんだい)に置かれ、違い棚にはそのほか中国の本も置かれ、畳の上には色紙が置かれている。 書院の脇には王振鵬 (おうしんぽう・元代の宮廷画家、墨線のみで彩色を施さない白描はくびょうの技法が特徴) の描いた官女の掛軸が二幅かけられている。

四畳の書院の北側に四間(四坪の大きさの部屋) があり、ここは囲炉裏の切ってある焚き火の間で、焚き火の道具が置かれている。







■ 過去の復元案について

☆ 宮上茂隆氏の復元案の問題点

 宮上氏の東山殿常御所の復元案は、六間×七間の矩形にまとめられていて、一見すっきりして良いプランのように見えるのですが、個々の部屋を記録に照らし合せて見ると問題点が目につきます。
 まず、昼の御座所の北の落間についてですが、落ち間というのはもともと寝殿造りの庇と広庇の間に由来する部屋の構造で、主室に隣接する部分の部屋の床が下長押の厚さの分だけ一段低くなって段差のついている部屋の事で、御所の建築では康正度内裏の清凉澱において落縁の部分も部屋に取り込まれて、上段・中段・下段の間に発展する部分にあたる部屋なので、昼の御座所と落ち間は歴史的に見て上段・下段の関係になっていると思われるのに、宮上氏の復元案では上段下段とはいい難く、何に使うのか理解に苦しむ部屋の配置になっている事があげられます。
 また、御たき火の間にはたき火の道具が置かれている事からして囲炉裏が切られていたと思われるのですが、一間×四間の部屋に囲炉裏を切るのは不可能とまでは言えないものの、部屋の横幅が1間では囲炉裏を切るには狭すぎて少し不自然な感が否めません。
 さらに、「御飾書」の原文を見ればわかるように、昼の御座所の丑寅の四畳の間の記述の後に"同北四間"と書かれているのですから、同北の"同"の字は四畳の書院にかかっていて、この部分は「昼の御座所の丑寅にある四畳の間の北側の四間がたき火の間」と解釈できるので、記述からいって四畳の書院と四間のたき火の間は隣り合っていなければならないのに、宮上氏の復元案では、あいだに落間をはさんで二つの部屋が離れて配置されています。

 つまり宮上氏の説では、常の御所の平面を矩形にするために、資料である「御飾書」の部屋の用途や配置に関する記述を一部無視するといった強引な手法でまとめていて、このやり方は安土城の復元案でも使われています。

   また私が復元図を作成してみたところでも、
   十畳でないとプランが納らないから(次號第三図・一階17参照)、この場合に関しては、現
   存するⅠ類本写本の方の誤写と認められる。   1977年.「国華998号」


 復元考察にあたってプランが納まらない場合には資料の記述を無視して良いなどと言うことがあってよいはずが無いので、東山殿常御所の形は、宮上氏がこだわった 六間×七間の矩形 では無かったと考えられます。

☆ 川上貢氏の復元案の問題点

 「御飾書」の部屋の配置と用途に忠実に復元したのが川上貢氏の復元案です。
 すっきりとした矩形、ではないものの、昼の御座所と北の落ち間が上段・下段の関係に配置され、記録の通り昼の御座所の東北方向にある書院の、北側に隣接するかたちで焚き火の間が配置されています。
 建物母屋部分から書院が張り出していて、すっきりしたプランとは言い難いのですが、上段から外側に張り出して書院が作られる例は「匠明」の主殿之図にも書かれている形式で、現存する建物では園城寺の光浄院客殿があるので、これらの建築に影響をあたえた原型が東山殿のプランだと考えれば、建物が矩形でなく書院部分が張り出していてもおかしくは無く、また、焚き火の間にいたっては母屋部分に組み込まれていない実例のほうが多いのではないかと思われます。
 母屋部分について見ても、建物中央を東西にはしる柱通りから南北へ三間の梁間で母屋が構成されているので、構造から見ても宮上氏のプランより優れていると思われます。

 書院それでは川上貢氏の復元案で良いかと思ってみてみると、今度は書院部分の絵と掛軸の配置が問題になります。
 「御飾書」には四畳の書院の北西の隅には違い棚が置かれていて、その上に横にながい水墨画がかけられていることになっています。
  川上説の書院北西の隅をみると、西側は昼の御座所から書院へ入る入口で絵はかけられず、北側は焚き火の間との境の戸になっている、ということは棚の上にかけられた横に長い墨絵は、部屋の境の戸の部分にかけられている事になり、絵画の展示のしかたとしてはすこし違和感があります。 というか一間幅の開き戸の場合、向って右側の戸が手前にはめられるので、この部分に絵をかけると戸の開け閉てができなくなります。
 また「御飾書」では書院の脇に二幅の掛軸がかけられている事になっているのですが、戸に掛軸をかけるというのは先ほどと同じく違和感があるうえに、この間取りで二幅の掛軸をかけるとすると、北側にかけた場合、書院から焚き火の間へ行くことが出来なくなり、南側にかけた場合、舞良戸が開けられなくなってしまいます。
 以上の事から、張り出し部分の書院まわりは川上説とはちがう、別の間取りになっていたと考えられます。


■ 東山殿常御所の復元案

☆ 書院の向き

プラン1 川上氏の復元案の問題点である絵画のかけかたは、書院を東西に長い向きで配置したことに原因があるので、単純に川上氏の書院の向きを南北にすると、書院の隣の二幅の掛軸や東北に置かれた違い棚の絵のかけられている部分が壁であったとしても違和感のない間取りになり、川上貢氏の復元案の書院の棚や絵の配置についての問題は無くなるのですが、今度は北側の焚き火の間がとってつけたような感じで部屋の半分だけ落ち間にかかってしまいます。
 また、よく考えてみれば昼の御座所とは居間の事なのですから、日常を過ごす居間の、庭に面する部分の半分に隣の部屋がかかっていて庭に面していて外が見える部分が一間しかない状態では、舞良戸をはめた状態で開口できる幅がわずか半間になってしまい、山荘というこの御所の性格を勘案すると、庭園の眺めを楽しむ上で非常に問題があると思われます。 そこで書院の位置を少し北にずらして配置した方が良いと思われるのですが、「御飾書」に"昼の御座所の丑寅に"と書かれている以上、書院は昼の御座所とつなげておかなければならないので半間だけ北にずらしてみます。竹内門跡里坊

 そうすると、昼の御座所から庭に面する部分の開口部の幅が一間半になり、一間半を四枚に引き分ける東求堂の同仁斎と同じ形に開口部が納まります。 また、これにより昼の御座所と書院の連絡通路は半間幅になり、書院の入口に引き違いの戸をはめる事が出来なくなるのですが、たとえば竹内門跡の里坊の学問所において、四畳半の主室から三畳の書院のついた部屋へ入る場所に半間幅の網代戸が設置されている例があるので、書院入口に半間幅の戸があっても間取りとして特に問題はないうえに、 昼の御座所が庭に面する部分の舞良戸の幅が一間半になると、西側にある御寝所の入口の帳台構えと幅が同じになってバランスが良さそうです。

☆ 焚き火の間

 書院を半間北に移動させることで、昼の御座所と書院と書院内部の絵画の関係は上手く構成できましたが、それによって焚き火の間の配置がさらに難しくなってしまいました。
 ここで基本にもどって焚き火の間の条件を「御飾書」から抜き出して整理すると、
・四間(四坪)の広さで書院の北側に隣接していること、
・焚き火の間なので、囲炉裏が切ってあること、
これらが挙げられます、また、たいていの場合、焚き火の間の囲炉裏は畳半畳から畳一畳分くらいの大きさがあるので、部屋の短辺は最低でも1間半は必要になり、・・・・・、という所で解決法を思いついた。
 
 「御飾書」の別の部分で、六畳の部屋を三間と呼んでいる所があり、この記述のしかたから考えれば、三間とか四間というのは、一間四方の正方形の空間が部屋の中にいくつあるかによる呼称では無く、単純に部屋の坪数(面積)を言っていることがわかります。 つまり、一間半×二間の六畳の大きさが三間と呼ばれるのだから、三間の広さに二畳分の空間が付け加われば、その部屋は四間と呼ばれてしかるべきなのです。

 以上のことから、焚き火の間を三間+一間の形で構成して書院と落ち間の北側に配置すれば、「御飾書」に書かれる書院との関係も良く、なおかつ昼の御座所から焚き火の間にかけての部分が、後の世に一の間・二の間・三の間の組み合わせや、上・中・下段の間の組み合わせに発展しそうな形に構成できます。

☆ 屋根の葺き方東山殿常御所

 もうひとつ、屋根の葺き方もこの間取りであれば、母屋から張り出している最大幅が一間半と短めに納めることができ、書院や焚き火の間という部屋が草庵や数奇屋の系譜につながる事を考えれば、この張り出し部分は母屋より天井が低くても問題なく、また京都御所の常御所の下段の間が傾斜天井であるように、東山殿常御所における下段の間にあたりそうな焚き火の間が、傾斜天井である化粧屋根裏でも問題はなく、そうであればこの部分は単純に母屋部分から下屋として屋根を葺き降ろす形で構成でき、その結果全体の屋根が自然な形でつながるので、東山殿常の御所の平面はこの形であったと考えられます。

■ 安土城天主との関係

☆ 宮上茂隆氏の復元案について

  以上の考察から、東山殿常御所の規模は 六間×六間 に、張り出し部分の付いた形であると考えられ、宮上氏の復元案の 六間×七間 では無く、安土城復元にあたって宮上氏が推測した東山殿常御所をもとに安土城天主が計画されたという説は成り立たないと思われるのですが・・・。

 宮上氏の安土城復元案を見ると、宮上氏の東山殿常御所の間取りとは全く違っていて、影響を受けたのは 六間×七間 という規模だけのようで、その 六間×七間 という規模でさえ廊下部分を含めた大きさになっている、 という事は、はっきり言って宮上氏の安土城復元案は東山殿常御所とはほとんど関係が無く、宮上氏は復元の正当性を表現したくて、安土城に先行する御所としての東山殿常御所を持ち出しただけではないかとも考えられます。

 という事は、この安土城復元案のページにわざわざ東山殿常御所のコーナーを作る必要は無かったようなのですが、まあ 宮上氏の復元案を否定するためには、宮上氏が復元の根拠に出している東山殿常御所についても考察する必要があったわけで、また、おかげで東山殿常御所の新しい復元案も提示できたことだし、めでたしめでたし・・・?。










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