八角の段-2
■ 装飾
☆ ゑんノ天井りやう一間に二ひきつゝあり
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内藤案 海老虹梁 |
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東照宮 上神庫妻飾り |
内藤説では、天守指図の注記に「縁の天井 龍一間に二匹づつあり」と書かれている部分を、海老虹梁上部に龍の彫刻をはめ込む形で処理していますが、たとえ海老虹梁の両側に龍を一匹づつはめ込んで合計二匹としたところで、見た感じは一間に一匹にしかなりません。
また、建物が八角形をしているので、縁の天井といっても内陣側の一間は外陣側の二間になり、なぜ天守指図の作者が「一間に二匹づつ」とはっきり龍の数を言えたのか疑問です。
そこで、はっきりと「一間に二匹づつ」と言える龍の彫刻の形態を考えてみると、日光東照宮の上神庫の妻飾りの彫刻が考えられます。
東照宮の上神庫では、海老虹梁を支える肘木部分が龍と獏?の彫刻になっていて、これなら内陣・外陣の柱間の違いには関係なく、龍の彫刻が、縁の梁間一間に対して、明らかに二匹づつあると言えるので、
安土城八角の段の海老虹梁は、両側を、龍の丸彫り彫刻の肘木に支えられていたと考えられます。
☆ 釈門十大御弟子等かゝせられ 尺尊御説法之所
安土日記にこう書かれる障壁画の画題は、天守指図では「ふすま障子内ノ方にしやかノ御せつはうノ所あり」と書かれ、信長公記では「尺尊十大御弟子等、尺尊成道御説法の次第」とほぼ同じ記載がされているので、釈迦が弟子に対して説法している場面が描かれていると考えられます。
細かい所を問題にすれば、信長公記の「成道御説法」というのは、悟りを開いた時の説法である初転法輪の事を指し、初転法輪の時には十大弟子はまだ存在していないので、信長公記の記述は間違っているといえるのですが、太田牛一は語りもやっていたらしいので、物語における語感を整えるための編集と考えれば、まあ許容範囲ではないかと思われます。
☆ 安土山ノ記から (天主の最上階について)
「内ノ柱上りりやう下りりやうあり ・ 天井長てんにんあまたあり」 天守指図には八角の段の部分にかかれるこの記述が、安土日記では最上階、上一重の注記として「上龍下龍天井ニハ天人御影向之所被遊候」と書かれています。
信長公記の「四方の内柱には、上龍下龍。 天井には天人御影向の所。」というのは、原文を改編した結果なので、無視してかまわないと思われますが、なぜ安土日記では八角の段ではなく最上階の注記に書かれているのでしょうか?。
信長が安土城に関する漢詩文を書かせた、南化玄興の『安土山ノ記』によると、
蓬莱三万里の仙境、 寛人に留与す永保の顔、
石壁嵯峨たり三百尺、野僧恨むらくは嶺を窮めざる事を
と、書かれている部分があり、漢詩文を意訳すれば、
「蓬莱山のような理想郷を作る事によって、信長に永遠の名声が与えられたが、
野僧(南化玄興)は残念なことに、その比高100mに聳え立つ安土城の頂に到達することが出来ない」
といった感じになります。
詩文は一般的にいって非常に大袈裟な表現が使われ、前半は詩文の常識にそって「三万里」とか「永保の」といった表現がされるのですが、この部分の後半ではなぜ、安土山の比高そのままである「三百尺」や、ある程度までは上れる「嶺を窮めざる」という表現になったのでしょうか?。
特にこの「嶺を窮めざる」というのは、強調する為であれば、足元にも及ばないとか、遥かに見上げると言う意味の句を付けるべきなのに、「嶺を窮めざる」という、ある程度までは上れる現実的な表現になったのは、南化玄興が比高三百尺の安土城に登ったものの、天主の最上階には上がれなかった実体験に基づいているからではないでしょうか。
つまり、南化玄興の『安土山ノ記』の記述からして、最上階は信長専用の空間であり、余人は入ることが出来なかったと考えれば、この部分の安土日記の注記は、村井貞勝らの上れた最上階である八角の段の記事を、文章編集時に天主の最上階に誤って記入してしまったものと考えられます。
☆ 内ノ柱上りりやう下りりやうあり・天井長てんにんあまたあり・障子ノ外ニてがきちくしやうあり
以上の事から、上龍下龍と天井ニハ天人御影向の記事は八角の段の事と考えられ、釈迦説法図と合わせると、西明寺の三重塔壁画と似た構成であり、八角の段の主題は法華経変相図だったのではないでしょうか。
釈迦が法華経を説いたのは霊鷲山およびその上空であり、
聴衆は十大弟子以下、諸々の天人・八大龍王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人・諸の小王・天輪聖王・その他の信者などで、
法華経が説かれる時、釈迦の眉間から光が放たれ、下は阿鼻地獄から上は阿迦尼咤天まで照らした、とされているので、
天井に阿迦尼咤天から四王天までの天人、内陣は霊鷲山の釈迦と弟子の説法、八大龍王が柱に刻まれ、外陣には夜叉以下の鬼神獣神から最下層の阿鼻地獄までかかれていたとすれば、八角の段は、全体で法華経説法の場面を表現していると思われます。
☆ 窓かわ内ニてうみノていなり
窓側の内部に海の様子が書かれているということなので、この部分は、安土日記の「御縁輪のはた板二ハ しやちほこひれう かゝせられ候」に相当すると思われます。
この部分は、須弥山に見立てた安土城最上部を取り巻く海を表現していると考えられますが、須弥山を取り巻く海に、鯱や飛龍がいるという話は無さそうなので、直接には、「法華経・観世音菩薩普門品第二十五」の中の、「大海の中を漂流して、龍や怪魚や鬼などに襲われても、この観音の救いを心から念ずれば、波の中に溺れることはない。」という部分に則った、法華経説法の場面の表現だと考えられます。
信長が自分の化身とされる盆山を上階に納めさせた摠見寺の本尊は觀世音菩薩であり、觀世音菩薩の変化の中には大自在天(第六天魔王)も含まれているので、信長=第六天魔王=觀世音菩薩という図式が成り立ち、「信長を信じることによって、来世ではなく、現世で救われることができる。」と間接的に言いたかったのではないでしょうか。
実際に信長は、一般庶民に対する、現世利益的な救いには非常に関心が高かったようで、二条城の工事の際、痴漢行為を働いた男の首を即座に刎ねる事により、この後癡漢は激減したと思われますし、領内の関所を撤廃したことにより、現代で言う全ての有料道路の無料化を実現しています、また楽市楽座により談合や出店規制・価格規制を排除し、流通の自由化を促進したので、信長の領内の一般庶民は、治安が良くなり物価は安くなり、そうとう暮らしやすくなったものと思われます。
☆ かうらんきほうし有
安土日記に「高欄疑宝珠あり」とかかれる記述を、内藤氏は、天守指図には落縁が書かれていないので、階段の手すりの仕様だとしていますが、階段の手すりの高欄であれば、下の階の階段部分にもあったはずで、下の階には「高欄あり」とは全くかかれていない状態で、八角の段と四角の段にのみ 高欄疑宝珠、と書かれていることから、八角の段にも落縁があり、高欄が回っていたものと思われます。
天守指図には書かれていないといっても、天守指図はあくまで何度も写された写本であり、階段の位置など明らかな写し間違いが認められるので、落縁の線が書き落とされていたと考えることは、特に問題はないと考えます。
もう一つの理由が、天主復元案における南側壁面の逓減に関する問題で、考察していくと、安土城天主の南側壁面は一階上がるごとに一間壁面が後退する形で復元できるのですが、この部分に落縁の下壁が回っていないと、小屋の段は階高があるとはいえ、この部分だけいきなり1.5間壁面が後退する形になってしまうので、天主全体のバランスからいって、まず落縁の下壁部分で一間壁面を後退させて、少し上がった八角の段の壁面で半間分壁面を後退させ、さらに最上階、四角の段で一間壁面を後退させていたと考えられます。
☆ 外壁画
落縁の下壁は、フロイスの日本史に各層の色が、他の(あるもの)は赤く、あるいは青く(塗られており)、と書かれていて、赤に相当するのが八角の段だと思われるので、青い層とは、緑青処理された銅版が張られた落縁の下壁の事ではないかと思われます。
また、大坂夏の陣図屏風によると、大坂城の最上部には外壁画が描かれていて、宮上氏の復元案にあるような壁画がかかれていても特に問題は無いので、いちおう、落縁の下壁は、緑青処理された銅版の上に金で鯱と龍が描かれていたものと復元します。
■ 八角の段 装飾
☆ 外壁
落縁の下壁 緑青処理された銅版が張られ 金で鯱と龍の図。
高欄から上、八角円堂木部は朱塗りで白壁、窓は櫛形窓と呼ばれるタイプの角ばった形の火灯窓。
内部に海老虹梁と肘木があるので、組物は法隆寺夢殿に準じた平三斗と出三斗。
八角円堂で一軒は皆無なので、垂木は二軒。
☆ 内部
内縁木部は朱塗り、上部海老虹梁を支える肘木は龍の彫刻。
内陣境の襖障子、 外側は金地に夜叉以下の鬼神獣神から阿鼻地獄図、内側は霊鷲山における法華経の説法、
内陣柱内側は金地で八大龍王の彫刻、
長押は東照宮に見られるタイプの絵画的な牡丹唐草、
小壁も金箔張り、
天井は鏡天井、阿迦尼咤天から四王天までの天人影響の絵。
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