八角の段-1
■ 階段
☆ 階段は直線のはず!
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内藤案 八角の段 |
天守指図 八角の段 |
八角の段において、天守指図と内藤説の大きな違いが階段の形で、一見してすぐに解るように、階段が、指図では長さ一間の直線階段にかかれていますが、内藤説では折れ曲がり階段になっています。
なぜ内藤説で折れ曲がり階段になっているかというと、一般的な八角円堂の木割りに基づいて八角の段を組み上げ、八角の段の屋根の上から四角の段の縁側を安土日記の注釈により斗栱により張り出すと、八角の段の階高が少なくとも20.5尺は必要になり、内陣柱間の8.7尺の長さの階段ではとても昇りきれないので、階段長さを延ばすために、この部分が折れ曲がり階段になっていると考えられます。
内藤氏の解決策はそれなりに尤もな物なのですが、指図に直線階段で書かれている以上、八角の段から四角の段へは長さ一間の直線階段で昇れる形であったはずで、ここでは長さ一間の直線階段で納められる八角の段の形について考えてみます。
☆ たたみかうらいへりあり ふたいなり
天守指図の八角の段の注釈には「畳高麗縁あり 舞台なり」との記述があります。
内藤説ではこの畳を二枚の置畳としていますが、ふつう二枚の置畳は貴人の座の表現なので、置畳を「舞台なり」と表現するのは少しおかしいと思います。
宮上氏はこの部分の事を「国華、999号」の中で「舞台は板敷と決まっており、座敷を舞台として使用する時にも畳を取り去るのが通例であった」として、天守指図を否定していますが、舞台=能舞台としか考えられなければ、批判は尤もですが、舞台には舞楽を演じる楽舞台というものも存在していて、舞楽の場合は逆に、元が板敷きや石舞台でも、舞台として使用する時には萌黄色の緞子の打敷が敷かれるので、舞台が畳敷きでも全く問題ありません。
それでは、この部分はどうだったか?と考えると、能舞台にしろ楽舞台にしろ、舞台というものの共通点は床が高いことなので、八角の段の内陣床は舞台を思わせるほど高くなっていて、内陣全体に高麗縁の畳が敷かれている状態が、「畳高麗縁あり 舞台なり」という表現であったと思われます。
☆ 夢殿の内陣
この部分、天守指図には内陣床に昇るための階段は書かれていないので、階段なしで昇れる状態を考えなければならないのですが、段が無ければ内藤説と大して変らないので、舞台なりというほど内陣床が高くはなりません。
そこで、八角円堂の代表である法隆寺の夢殿を見てみると、夢殿の内陣は内陣柱部分で二重基壇を構成している事が見て取れます。
内陣を二重基壇として構成すれば、二重基壇は壁の厚みほどで納まってしまうので階段の表現がされずに段があっても問題はなく、さらに安土城において、この八角円堂の柱は、安土日記の記述により、対辺1.3尺ほどの太さであったと考えられ、1.3尺の柱ならば、下長押の成が一尺あってもおかしくは無く、柱の外側に打たれた成一尺の下長押を踏み台とすれば、内陣床高を縁から2尺上げる事が可能になります。
内陣床が縁側より2尺高ければ、いかにも「舞台なり」と表現したくなる構成ではないでしょうか。
☆ 彦根城の階段
さて、始めにもどって、内陣部分にかかれた長さ一間の直線階段の構成について考えてみると、じつは近くに類例が存在していて、彦根城天守の一階から二階へ昇る階段が、長さ約9尺で高さ約15.5尺昇っています。
安土城八角の段の内陣柱間は8.7尺あり、四角の段の柱が六寸四方と細くなっているので、階段の長さ一間とはいっても実質長さは9尺ほど取ることができ、この部分の階段の傾斜が、けっこう急な彦根城の階段と同じであったと仮定すると、八角の段の内陣床から四角の段の床まで15.5尺の階高が可能になり、内陣の床高2尺と合わせて、八角の段の階高は17.5尺とれる事になります。
■ 屋根
☆ 四方柱ニハ段々二御縁をはり出し
これまでの考察で算出された、八角の段の階高は17.5尺で、階段周りの構成の見なおしでは、階高をこれ以上あげようがなく、これでは内藤説の20.5尺にはまだ3尺足りないので、なにかヒントはないかと考えてみると、安土日記の、上一重の注釈に「四方柱には段々に御縁をはり出し、高欄疑宝珠、火打ち宝鐸をつらせられ候」とかかれた部分に気がつきます。
この記述により内藤説の復元案では (なぜか安土日記の注釈を否定している宮上説でも) 肘木で縁高欄を支える形になっていますが、この記述をよく読むと、「四方柱には」と書かれている部分が少し引っかかります。
四方柱というのは一般に、四方の角柱の事を指すのですが、肘木で縁高欄を支える場合、全ての柱から肘木を出すのが常識であり、なぜこの作者は「四方柱には」と限定して、裏を返せば、まるで中の柱からは肘木が出ていないような書き方をしたのでしょうか?。
☆ 平等院の屋根と肘木
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平等院の翼廊部分
上の写真が裏側から見た図で
右が正面から見た翼廊。 |
宇治の平等院鳳凰堂の翼廊部分は、屋根の上に小楼が乗っていて、縁側が肘木で張り出され、この肘木が、裏から見ると全ての柱から肘木が出ているのがわかるのですが、正面から見ると、翼廊の屋根と重なっていて、角の柱から出ている肘木しか見ることができません。
安土城八角の段の屋根と上階の肘木の関係が、この平等院翼廊のように構成されていた場合、一見すると四方の柱からのみ肘木が出ているように見えるので、「四方柱には段々に御縁をはり出し」と表現できるのではないでしょうか。
八角の段の屋根が取り付く位置を、四角の段の縁板のすぐ下まで上げれば、中の柱から出ている縁を支える肘木は、下半分が屋根瓦に隠れて見えなくなるので、一見、肘木で張り出していないようになり、四方の柱は八角形の屋根が四角の壁に取り付く関係で、屋根の取り付け位置が下がるために、平等院と同じく肘木がはっきり見え、「四方柱には段々に御縁をはり出し」の記述から、内藤説より八角の段の屋根の取り付き位置が高かったと想定できます。
☆ 金閣の縁側
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金閣三階内部、
床より高い位置に窓の敷居がある。 |
金閣三階外部、
窓の敷居のすぐ下に縁板が張られている。 |
さて、平等院でもそうなのですが、日本の楼閣建築では、上層の階高が低い方が形が良いらしく、平等院の翼廊の階高は実用不可なほど低く、人が上る事を前提に作ってある寺院の山門においても、形を美しく整えるために、非常に天井が低くなっています。
金閣では、三階の天井を低く取った上で、さらに上層を低く見せるために、縁板を三階の床より高い位置に張っていて、城郭建築においても、最上階に、外に出ることが出来ないほど高い位置に縁側が取り付けられる例があります。
安土城においても、金閣の例にならい、最上階の建ちを低く見せるために、縁板を床より高い位置に張っていたと考えると、内藤説では落ち縁として床より五寸ほど低くしていた縁側を、逆に五寸ほど高く納めることが可能で、屋根の取り付け位置を縁板のすぐ下に上げた事と合わせれば、合計3尺分は十分に階高を下げる事ができ、八角の段は、階高17.5尺で、内藤説の八角円堂と同じ木割りで構成できることになります。
■ 八角の段 階高
☆ 階高 17.5尺
内陣床高 2尺 (下長押 成1尺・蹴込み0.75尺・敷居0.25尺)
内陣階高 15.5尺 (上長押まで8.7尺・子壁~天井板4.3尺・天井懐2.5尺)
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