天守指図考察 ―― 六重目

安土城天主の最大の特徴である八角の段です。 
(図の中の記事)
天守指図六重目

八角ノ段 垂木はないつれもかな物きりからくさなり

一、内ノ柱上りりやう下りりやうあり
一、ふすま障子内ノ方にしやかノ御せつはうノ所あり
一、天井長てんにんあまたあり
一、なけしほたんからくさなり
一、障子ノ外ニてがきちくしやうあり
一、窓かわ内ニてうみノていなり
一、しやちほことゆふうをあり

一、すみゝにひうちほうちやうあり かわらノはないつれも金なり
一、ゑんとをり柱垂木いつれもしゆにぬる
一、ゑんノ天井りやう一間ニ二ひきつゝあり
一、たたみかうらいへりあり、ふたいなり

 北棟なかし    窓くしかたと申なり


■ 仏教寺院の八角円堂

 図の中の記事に、垂木の先端には全て桐唐草文様の金物が打たれていて、隅木には、火打ち金と宝鐘が有る、と書かれているので、八角の段は、城郭建築としてではなく、寺院建築の八角円堂の技法で建てられた物と思われます。
 内部の装飾絵画も、安土近郊の寺院建築に類似して、内側に釈迦説法図、外側に地獄図が画かれているのは、常楽寺の三重の塔の装飾と同じで、柱に、上り竜下り龍があるのは、西明寺の三重の塔の装飾と一致します。
 八角の段の、全体の構成としては、内陣に釈迦説法の光景、縁側の襖に地獄図、窓の内側に海の様子が書かれる事から、八角の段は、中心に浄土である須弥山がそびえ、周囲の地下に地獄が広がり外側を幾重にも海に囲まれていると言う、仏教的な世界観を表していると思われます。

■ 舞台は内陣全体

 天守指図における、この階の構造の問題は、七重へ上る階段が短い事で、天守指図に書かれる、四角の段へ上る階段は、内陣柱の1間の長さしか無く、内陣柱の柱中心間の距離が8.7尺なので、長めに見積もっても、階段の長さは10尺弱といった所で、一般的な八角円堂のスタイルの上に、屋根の棟瓦や、四角の段の高欄の肘木を単純に積み上げて行くと、階高が高くなって、とても上れそうに無い梯子なみの急な階段になってしまいます。
 この問題を内藤氏は、天守指図の表記と違う折れ曲がり階段で解決していますが、天守指図に直線階段で書かれている以上、実際に建てられた天主においても、階段を直線で構成させて、なおかつ七重へ十分上れる傾斜の階段であったと考えられます。
 そこで、「畳高麗縁あり、舞台なり」の舞台の範囲を内陣全体と考え、外陣と内陣の高低差が舞台を連想させるほど高かったと推定すれば、階段長さが10尺弱で、四角の段に上れる様になると思います。
 宮上氏は、国華999号の中で、「舞台は板敷と決まっており、座敷を舞台として使用する時にも、畳を取り去るのが通例であった。」という理由から、「たたみ高麗縁、舞台なり」と表記される天守指図の信憑性を低いとしています。
 宮上氏が考えているように、舞台というものが世の中に能舞台の形式しか存在しないのであれば、畳敷きの舞台はたしかにおかしいのですが、天守指図を見ればわかるように、この部分には「能舞台」とは書かれずに、単に舞台と書かれているだけなので、舞楽を演じる、楽舞台の様式で作られている可能性も当然の如く存在し、楽舞台であれば、畳が敷かれているのは当たり前で、おかしくは無いので、
内陣全体がひときわ高く、楽舞台の様な造りになっていて、内陣全面に高麗縁の畳が敷かれていたと考えられます。

■ 時代順の画題は八角の段まで?

 四角の段の画題解説の中で、人物が時代順に配されていると書きましたが、四角の段は、伏羲から始まって孔子まで、画題が時代順に画かれています、一説によれば、孔子の死去が紀元前479年頃、釈迦の生誕が、紀元前463年頃、つまり、孔子の薨じた16年後に釈迦が下生したという事になり、この部分も上下の階で画題が時代順に配置されている事になります。
とすると、安土城の上部、5・6階の画題のテーマは、聖人が時代順に並べられた、王名表のような物であったのではないでしょうか。

■ くしがた窓

  八角の段の画題解説の中には、「窓くしかたと申なり」と書かれた部分があります。 図には、他の階とさほど変わらない火灯窓が画かれているので、火灯窓型の櫛形窓という事になりそうです。
 内藤説では、他の階より、ややなで肩にした火灯窓をあてていますが、櫛形窓の本来の形は、蒲鉾型や三日月型なので、ややなで肩にした火灯窓を、くしがたと表現するのは、やや無理があると思われます。
 ということで、この階の窓は、岡山城や、鎌倉時代の寺院建築に見られるような、四角形に近い形をした、角ばった火灯窓がはまっていて、四角い窓との違いが上部だけだったので、上部の形を見て、くしかた窓と表記された物と思われます。 その場合、同じ形に画かれながら、他の階に「窓くしかたと申なり」、との注が入っていない点が、問題に成るのですが、天守指図に画かれる窓は、同じ火灯窓でも、大きさや構造に違いがあった為に、微妙な注が入れられたと考えられます。
 詳しい点は、天守復元案の中で解説する予定です。

最終更新日時
2006年1月9日
22:02:22

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