天守指図考察

―― 十七てう の部屋


  安土日記の1階、六重目部分の西側の部屋の記述には、十七畳と書かれた部屋が存在しています。 安土城の復元案を提示している内藤説・宮上説のどちらもが、この記述は十畳の書き間違いであるとしていますが、本当に書き間違いなのでしょうか?。

■ 安土日記 該当部分

  西 六てう敷 次十七てう敷
 又其次 十畳敷 同十二畳敷



☆ 内藤説の考え方  ( 1994年「復元 安土城」から )

>ただしT類本はTに関して「十七てう敷」とあるは、Uに「又其次十畳敷」とわざわざ「又」を付すによってTは
>十畳敷であり、誤写と考えざるをえない。


つまり内藤氏は、次に続く十畳間の説明に「又」の字が付くので、前の部屋も同じ十畳であるとしているのですが、 安土日記のほかの部分には、「又」の字が使われても、部屋の大きさが違う場合があります。

>次四てう敷 雉の子を愛する所 御棚ニ鳩計かゝせられ 又十二てう敷ニ 鵝をかゝせられ 鵝の間申也
>又其次八畳敷 唐の儒者達をかゝせられ  南 又十二てう敷 又八てう敷


十二畳敷の鵝の間の後、「又其次八畳敷」と書かれているのですから、「”又”が付いているから同じ大きさ」という内藤氏の説明は安土日記の他の部分の記述と矛盾が生じてしまい、根拠としてはおかしいものがあります。 
 この事から考えて、内藤氏は、天守指図に書かれているこの部分の部屋の大きさが十畳であるから、信長公記の記述を適用して、十七畳が誤記であると推定していると思われます。



☆ 宮上説の考え方 ( 1977年 「国華998号」から)

>一階の納戸の一つをT類本は「次十七てう敷」と記すが、UV類本は「次十てう敷」と記
>す。 十七畳という座敷はほとんどあり得ないし、また私が復元図を作成してみたところでも、
>十畳でないとプランが納らないから(次號第三図・一階17参照)、この場合に関しては、現
>存するT類本写本の方の誤写と認められる。 原本の「十てう敷」の「て」を「七」に読み間
>違えた結果であろう。


 ほとんどあり得ないから無かったというのは、あまり学問的ではない上に、「復元図を作成してみたところでも十畳でないとプランが納まらない」というのは、復元方法としては問題があります。 だいいち、復元考察にあたってプランが納まらない場合には資料の記述を誤写として良いのなら、復元者の能力に応じて資料の記述や信憑性が変化する事になってしまいます。

 誤写の根拠として書かれる「て」を「七」に読み間違えたというのは、たしかに崩し字「て」と「七」は似ていて一見もっともなのですが、宮上氏が「十七畳の座敷はほとんどありえない」と、さも当たり前のように書いているように、現代に限らず、太田牛一の時代においても、「十七畳の座敷はほとんどありえない」のは日本建築史の常識であり、誤解の仕方として、「十七てう」と書かれたものを「十てう」と誤解する可能性は高いと思われますが、その逆の「十てう」と書かれたものを「十七てう」と読み下して誤解する可能性は、「十七畳の座敷はほとんどありえない」位に、ほとんどありえないのではないでしょうか。



■ 天守指図 該当部分

☆ 織田政権の事務所

天守指図一階西側部分 天守指図の該当部分を見てみると、北(右)から、変形した縁側に面して、6畳・10畳・10畳・8畳と連続して部屋が並んでいて、このうち、中央の10畳は「かど」と書かれた囲みに接続しています。
 また、この連続した座敷の並びの最後の8畳からは、物置の口を介して対面所の上段に接続している構造になっている事が見て取れます。
 対面所上段の裏側の部屋の利用方法を考えると、江戸城の御座の間において、綱吉の時代の1684年(永享元年)8月28日に大老の堀田正俊が刺殺されるまで、老中の打ち合わせが行われる部屋に使われていたことが思い起こされ、天守指図においても、はじめの6畳間に大きめの物置が付属していたり、御納戸に隣接していることから、これら4つの部屋は、1番南(左)の8畳が信長の執務室で、残りが祐筆や勘定奉行や御納戸方といった織田政権の裏方を支える事務所として使われる部分であると思われます。

☆ 事務所は見た目より実用重視

 これらの部屋が、裏方の事務所であるとすると、傾斜天井や壁の変形などによる部屋の見た目の悪さを整えるよりも、広さや採光を重視した形にプランの修正が図られてもおかしくは無く、天守指図の8畳と10畳の部屋を、外壁一杯まで拡張して部屋の壁際まで、変形させた畳を敷き詰めると、それぞれ13畳と17畳の部屋が出来上がります。 
 この2つの部屋のうち、安土城天主がキリスト教の大聖堂を模して作られた場合、キリスト教圏では13は不吉な数であり、信長の執務室に変形畳を敷くのは避けたいと判断されたとすると、部屋の畳数はそれぞれ12畳と17畳になって、安土日記の記述と同じになります。
 ということから、この部分は天守指図を作成してから天主完成までの間に計画が変更されて、安土日記の元記録の作者が拝見した時には、12畳の信長の執務室である一の間、10畳で二の丸御殿からの通路が接続している二の間、17畳で変形畳が敷かれた三の間、6畳の申口、申口板敷きの縁側、といった使われ方をされていたと考えられます。



■ 十七畳は誤記では無い!

☆ 成立時期の違いによる、計画変更の影響

 天守指図が安土日記をもとに作られた推定復元図であるとすると、天守指図に10畳で書かれる部屋が、安土日記で17畳とされているのはおかしいのですが、 天守指図が安土城天主の計画図で、安土日記が完成した天主の拝見記録であると考えれば、計画時には部屋の形を整えて矩形の部屋として指図が引かれたものが、事務所という見栄より実用を重視する部屋の用途の関係で、計画が途中で変更されて建てられたと考えることは十分可能です。
 これらの記述の矛盾は、資料の成立時期の違いによる計画変更の影響であって、実際に建てられた天主は、安土日記の記述どうりであったと考えれば問題なく説明できます。

☆ 天守指図は安土城の計画図

 以上の事から、天守指図は安土城の計画図であり、
実際の天主は天守指図を元にしながらも若干の変更が加えられて完成したものと考えられます。




最終更新日時
2006年3月12日
22:48:21

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