天守指図考察

―― いしくら

安土城天主の地階です。

いしくら

■ 基本構造

☆ 石垣内部西側

 天守指図について、宮上氏はまず、いしくら内部の西側の石垣の線が、実際より1間西にずれて描かれているので、西側の柱の内八本が実際には建てられない位置にある、としています。 天守指図が池上右平による測量図であった場合、石垣の線が部分的に1間もずれて書かれる可能性は低いので、この図は原図を写す時に写し間違えた物と考えられるのですが、なぜ写し間違えたのでしょうか。
 西側の線が測量図通り1間東に書かれていた場合、宮上氏の指摘するように、八本の柱が石垣の内側に建つ事になります。
 石垣がいしくらの天井まで築かれていた場合、これでは現実に柱の建たない位置に柱が書かれている事になるので、この図面を写した人物も、宮上氏と同じ様に考えて、西側の石垣線を少しずらしたのではないでしょうか?。
 現実には、江戸城の様に、いしくらが半地下になっている例もあるので、安土城も半地下で作られ、八本の柱は、石垣の上に建っていたと考えられます。

☆ 石垣内部東北隅.階段

上と同じく、宮上氏が、礎石のない位置に2本の柱を描き、造れないところに階段を描いている。と批判している東北隅部分も、半地下になった石垣の上に2本の柱が建ち、発掘調査によって天主台の東北隅から発見されている、小さめの2つ並んだ礎石で階段の簓桁を受けるかたちで、階段の上り口は石垣のすぐ脇にあって、階段の上半分は石垣の上に、石垣と交差する形で設置されていたと考えれば、天守指図の通りに、何の問題もなく階段を納める事が出来るので、 この件は、はっきり言って平面図から立面図を想像できなかった宮上氏の能力の方に問題があったと考えられます。(というより、宮上氏も知っていた上で批判していたと思う。) ※平成12年度の調査で、この礎石の片方が浮石ということが確認されたが、礎石の下の遺構が天主焼失以降平成12年以前に掘られたものであるとも確認されているので、昭和15年に発見された当時、この礎石は浮石ではなかったと考えます。

☆ 東南の石階部分、天主外形

 宮上氏が、「指図」の平面図を遺跡に重ね合わせることさえ難しい。 としている東南の石階部分を見ると、全く遺跡と礎石の位置が違うわけではなく、南北方向の石の距離は遺跡と合っていて、東西方向が実際より縮まって描かれています。
 一般に素人が図面を描く場合、ものさしを使わないと、実際よりも小さく物を描いてしまう傾向があるので、この部分からも、この図面は天主の原図を素人が写した為に、基準の線がある南北方向の距離は正しく写し取ったものの、基準のない東西方向は実際より短めになってしまったと考えられます。
 天主外形も同じ様に、石垣の角にあたる部分が1間ほどずれて描かれている事から、単純な写し間違いと考えられます。 大工が図面を写す場合には、透写と言って、薄い紙を重ねて写し取る方法が取られるので、このような写し間違いは起り様が無いのですが、素人が図面を写そうとした場合、透写に使う薄葉紙が手元に常備されていた筈もないので、普通の紙を使って写した為に、このようにずれが生じたのではないでしょうか?。

☆ 1間間隔の礎石、叩き漆喰

 宮上氏は、礎石の上には必ず柱が建っていると思い込んでいる様ですが、建築では、礎石の上に土台をのせる場合もあるのですから、1間間隔に礎石が配置されていたからと言って、1間おきに柱が林立していたとは限りません。
 また、「叩き漆喰」(最近の調査では、漆喰の成分が検出されなかったので、土を叩き締めたもの。)は、当時の土間床面であったとしていますが、桂離宮のように、建物の床下に叩き漆喰が打たれている例も有るので、叩き漆喰=土間床とは一概には言えない上に、発掘調査では、床束とも思われる礎石が発見されているので、いしくらには床が張られていたと考えられます。

☆ いしくら内部石垣の高さ

 内藤説では、南側石垣高さを、穴太積石垣の、直線に積まれる特徴から、いしくら地面より5.5尺上と計算しながら、北側石垣の計算結果から、石垣高さを13.5尺と考えていて、宮上氏も、姫路城などの例から、この高さを妥当なものとしていますが、実際の石垣高さはどうだったのでしょうか。 
 石垣と建物の調整法を考えると、初期の天守建築では、石垣を正確に積む技術が無かったので、石垣の施工誤差を建物の角で調整して、石垣に合わせて建物が建てられています。 安土城においても、発掘調査における測量の結果、天守指図とは石垣の形が微妙にずれていることから、この図面が天主の設計図であって、測量図では無いことが証明できるのですが、設計図と、現実の石垣に誤差が出ることが技術的に避けられない以上、どこかで誤差を調節していたと考えられます。

 天守指図を見ると、天主の南側は、座敷が壁際に作られていて、この部分で誤差を調節すると畳の配置に問題が起こるのですが、東・北・西側の壁際は縁側や物置なので、南以外の3辺で施工誤差を調節する計画であったと考えられます。 南以外の3辺で誤差が調節された、と考えると、南側は、計画と実際の配置が同じという事になり、南側の石垣高さは、穴太積石垣の特徴の直線石垣で構成されていたと考えて計算すると、いしくら地面から5.5尺+石一個分の高さになるので、石倉内部の石垣の高さは6.8尺ほどと考えられます。 

☆ 「かと」とは門

 この階には、「かと」と書かれた部分が三箇所、門が一ヶ所あります。天主指図では、建物内部の間仕切りには「くち」が使われているので、「かと」とは、建物の外と、中をつなぐ「門」のことと思われます。
 これらの「かと」の内、南東の門の外側と、南西の外側から天主台に接して、礎石が発掘されているので、外部との連絡通路であったと考えられます。
 他の二箇所は、東側のものは台所郭との連絡通路、西側のは、二の丸との連絡通路でしょう ただし、東南と西以外は入り口らしき形が書かれず、東側のものは、入り口らしき書きこみから二間南側の、御もの置、部分に「かと 東ノ御てんよりろうか有」の書きこみが見られます。天主台は、本丸より10mほど、天主脇からも7m近くの高低差が有るので、天主一階ではなく、その下に入り口が付いている方が自然です。
 ここの書きこみは、北東角の、くち、から階段で下りて、ここの部分に外からの連絡通路が接続していた為ではないでしょうか?ただし、いしくら部分には書きこみが無いので、いしくらの上、二重目の下に、外部との連絡通路としての半地下?が存在すると思われます。

■ 部屋の内部

☆ 宝塔

 いしくら中央部に宝塔状の物体が書かれています。 
 これを宮上氏は金灯篭としていますが、宮上氏も安土日記との照合で金灯篭に比定しているように、下半分を見れば、この図に描かれる物体は灯篭にしては足の部分が太すぎるようなので、やはり、図全体の形状を見れば、宝塔と考えるほうが自然です。 
 さて、ここに出てきた宝塔とはどのような物かというと、(宣教師の記録では、信長は当初、法華を信仰しているそぶりを見せていたそうなので、法華経を読んでみると)、多宝如来の住処?であり、普段は地中に存在していて、釈迦が法華経を説法した時に、地より湧出して空中に浮かび、釈迦を褒め称えたとされるもので、他に宝塔の使われている例を考えると、徳川将軍家の秀忠の墓は、八角形の建物の内陣に、宝塔が置かれている形になっていたので、八角形の建物内部に宝塔が置かれていても、建築史的にいって特におかしい物では有りません。
 また、徳川家十二代将軍家慶の側室の、見光院と殊妙院は、常滑焼の甕棺に埋葬されていたので、建物内の宝塔の下に、舎利外容器として甕を埋めてあっても、建築史的には矛盾しません。
 さらに、安土城の近くに在る、信長の焼き討ちした百済寺の五重塔跡の地下からは、常滑焼の甕が発掘されていて、これは当然の事ながら、舎利外容器として使われた物と考えられるので、 これらの事から、この、宮上氏が置き灯篭と推測するものを宝塔と考えれば、この下に穴が有って、甕の破片が出て来た理由が説明できます。

この宝塔は、東側に「一段高し」と書かれ、「丸きかうし」を隔てて宝塔と向かい合っている部屋があることから、東向き、と考えられます。

☆ 宝塔東側の小室

 宮上説では、宝塔の正面中央に、柱が立っている事と、仕切に丸い格子が入っている事から、仏堂外陣とは考えられない、と否定しているのですが、中央に柱の立っている寺院は、全く有り得ない訳ではなく、法隆寺の中門や創建時の講堂などの例があります。 そもそも天守指図にかかれる宝塔の中にいる、多宝如来は、彼が登場する法華経の中で、釈迦如来と多宝如来のニ尊が、宝塔の内に並座して説法がなされているので、礼拝祈祷室がそれぞれの如来に対応して、中央に柱を建てて、2つの部分に分れて作られても、特におかしくはありません。
 また、宝塔が、信長を祀るものと考えた場合でも、家光の墓である大猷院廟の宝塔内部の例からすれば、釈迦如来と、家光の位牌の、2つの礼拝対象物が納められている形式が取られているので、安土城の場合にも、同じ方法がとられてもおかしくありません。

 また、内陣と外陣の境に格子が入っている例は、中世の密教寺院に良く見られる形態で、安土城の近くで考えても、湖東三山の本堂はすべて内陣と外陣の境に格子が入っている形態で造られているので、丸い形というのは珍しいものの、格子があること自体は特におかしいものではなく、この部分を仏堂外陣に擬するのは十分可能です。

☆ 吹き抜け空間

 宮上説では、舞台や通路の存在から、「舎利のある宝塔の上方で、人がおどったり、通路を行き来したりする計画が実在したとは、とても考えられないであろう。」 と、されているのですが、キリスト教の大聖堂では、聖人を祭った祭壇の上方で、パイプオルガンが演奏されたり、ドームのギャラリーを人が行き来しているのですから、安土城が大聖堂を模して作られた物であった場合、この構造のほうがむしろ自然であり、宮上氏が、どのような根拠で「とても考えられない」としているのか全く理解できません。



最終更新日時
2005年12月18日
20:46:13

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