天守指図考察

――他の記録に書かれていない理由

 このサイトに来られるお客様の中で、一番質問が多いのが、「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」が、なぜどの記録にも書かれていないのか?ということなので、天守指図以外の記録に出てこない理由を少々。


■ たくさんある?安土城の資料

 良くいわれる質問で、 安土城については、あれほどたくさんの資料があるのに、「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」の事を記した資料は、なにひとつ無いのはどうしてか?。 というものがあります。
現在巷間で流通する信長関係の書籍は、たしかにたくさんあって、安土城についてもいろいろ書かれているのですが、元になった資料をたどって行くと、すべて、イエズス会の資料と太田牛一の著作に行き着くのをご存知でしょうか?。 その片方の、イエズス会の資料には、天主の内部構造については全く書かれていないので、結局、安土城の内部の部屋の形や大きさについての記録を後世に残したのは、太田牛一ただ一人しか存在せず、現在たくさんある安土城天主の内部構造についての資料は、すべて太田牛一の著作の焼きなおしに過ぎません。
 つまり、「あれほどたくさんの資料があるのに、〜。」というイメージは、現在出まわっているたくさんの安土城関連の資料の状態から推測した誤解に基づくもので、この件については、たった一人の伝記作家、太田牛一が、なぜ書かなかったのか?というのが正確な理解という事になります。
 それでは、太田牛一がなぜ書かなかったかと思われるでしょうが、太田牛一とて万能ではないので、「信長公記」にもいろいろ書き落としがあって ( 例をあげれば、信長の伝記なのに、信長の誕生日が書いてなかったりする。)  「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」が記録されなくても、特におかしいとは思えないのですが、それでは納得できない向きも多いようなので、書かれていない理由について考察してみます。

■ イエズス会の資料

 イエズス会の記録には、安土城のことがたくさん出てきますが、宣教師の記録のページを見てもらえばわかるように、実の所、宣教師達は、安土城をはじめ、大坂城・聚楽第・伏見城などを見学した事があるにもかかわらず、城の内部の部屋の形や大きさに付いては全く記録していないのです。
 安土城の外観を特徴づける、特異な構造であるはずの八角の段についても全く書いていないくらいなので、イエズス会の記録に、部屋の内部構造である、「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」が出てこなくても、他の部分と同様、部屋の内部構造については、記録するつもりが無かっただけの事で、資料的に言って特におかしい物ではありません。
 まさか、宣教師の記録には、八角の段について全く書かれていないから、八角の段は無かった。と言う人はいませんよね・・・・・?。

☆ フロイスの考えたこと

 フロイスの日本史を翻訳した松田毅一氏は、内藤氏の言うとおりなら「フロイスが書簡か自著『日本史』の中で言及したはず」だ。と書いているのですが『歴史と人物』(1975.6)、 天守指図の通り、安土城が大聖堂を模して作られていた場合、フロイスが布教のつもりで、キリスト教の栄光をあらわす建築である大聖堂について述べたことを、信長が新しく作ろうとしていた城のプランとして採用したと考えられます。 つまり、フロイスにとってはあくまでも権力者に対してキリスト教の栄光を伝える布教をしたと思っていて、城の建築の相談に乗ったつもりなど全くなかったので、記録には書かれなかったと思われます。 
 また、出来上がった安土城天主を見て、大聖堂とのつながりを思わなかったのは、フロイスがヨーロッパ出身で、現物の石造りのロマネスクやゴシック様式の大聖堂を見知っていたために、木造で漆塗りの建物である安土城は、奈良の喜光寺をもとにした御殿建築の上に法隆寺の夢殿と鹿苑寺の舍利殿<金閣>を乗せている、どう見ても新しい日本建築の一種としか思えなかったためだと思われます。

■ 安土日記 に書かれていない理由

 一般には「信長公記」が有名では在るものの、先学によって、「安土日記」が原本で「信長記」や「信長公記」は、「安土日記」から派生したものであることが証明されているので、「安土日記」になぜ出てこないのか考えてみると・・・。

☆ 公式記録?

 天守指図批判の第一人者である宮上茂隆氏は、安土日記の原文は、信長が村井貞勝に命じて作らせた安土城の公式記録であり、公式記録に「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」が出てこないから、そのような物は無かったと言っているのですが、「安土日記」は、本当に安土城天主の公式記録なのでしょうか?。
 原本を見ればわかるのですが、安土日記には、天主の地下部分である七重目の記録が、表題のみで中身がまったく記されていません、7階建ての建物で、1階分の記録が全くされていない正式記録というのは、はっきりいって少しおかしいのではないかと思います。 
 また、五重目の記録の中で、「ろとうびんと申仙人 杖なけ捨たる所」と、書かれている部分があるのですが、仙人の常識から言って、「呂洞賓」の持ち道具は杖ではなく宝剣であり、杖を持っている仙人である「李鉄拐」は、杖を投げ捨てている訳ではなく、投げると、杖が空中で龍に変わるものなので、「ろとうびんと申仙人 杖なけ捨たる所」 という表現がされる正式記録と言うのは、どう考えてもおかしすぎます。
 これらの事から、「安土日記」は、仙人に関する知識が無くてもおかしくない、村井貞勝の、個人的な拝見記録と考える方が自然です。

☆ 「吹き抜け」の用語

 村井貞勝の、個人的な記録とかんがえられる「安土日記」の記事に「吹き抜け」が出てこない理由ですが、建築用語としての「吹き抜け」が、いわゆる「吹き抜け」を表す表現として使われるようになったのは明治時代以後の事で、信長の時代には「吹き抜け」という建築構造に対する概念は無かったのですから、信長の時代の記録である「安土日記」に「吹き抜けあり」などと書かれていないのは、時代的に見て当然の事で、全くおかしい物ではありません。
 (明治時代以降の用語や地名が載っている武功夜話であれば書かれていてもおかしくないかも?) 
 吹き抜けと書かれていないから吹き抜けは無かったという主張は、現代において用いられている言語・用語の視点から過去の歴史を見るために発生した疑問だと思います。

☆ 表現できなかった「吹き抜け」

 吹き抜けの概念を持たない人物が、吹き抜けを見たときに考える事は、非常に天井の高い部屋というものなのではないでしょうか?、と すれば、この吹き抜け部分の記事は、吹き抜けの床部分がある七重目の部分に記される予定だったと思われるのですが、安土日記には七重目と題だけ書かれていて、中身の記事が全く書かれていません。
 七重目が通常の形状であれば、安土日記の書式からいって、「○○間の御蔵あり、また蔵○○間・・・・・」といった風に書かれているはずで、もし七重目を見学しなかったとしても、六重目の記事のように「御土蔵あり」くらいは書かれていなければおかしい物なのに、実際には安土日記の七重目には本文が何も書かれていません。
 この七重目の空白は、吹き抜け部分を見た村井貞勝が、あまりに常識はずれの形から、なんとも表現する事が出来ずに筆を置いてしまった為に、本来記録できるはずの蔵の大きさについての記事までもが、一言も書かれずに終わってしまった空白であると考えられます。

☆ いしくら は画期的な構造!

 安土日記には、天守台の石垣内部が部屋として使われている、いしくらの事についても記録がされていません。
 現在の城郭建築の常識では、天守建築で、石垣の部分が地下室になっているのは、いたって普通の事なので、全く気にも とめられていないのですが、 建築史において、半地下状に作られた倉は、信長の時代より以前から存在していますが、楼閣建築や、御殿建築の建物の地下がほぼ全面に渡って石倉になっている形態は非常に珍しく、村井貞勝が安土城天主を、信長の命令によってとか、珍しい物を見たからと言う理由で記録したのであれば、この画期的な構造である、建物地下の石倉についての記事が、安土日記に書かれていないのは、おかしいと思います。
 後に編集された信長公記には書かれているから、一般的には、安土日記に書かれていない事が気にならない様ですが、信長公記は、太田牛一が、いしくらの構造が天守建築の常識になっていた江戸時代に入ってから編集したもので、村井貞勝の記録をもとにしたとされる安土日記には、当時は画期的な構造であったはずの石倉の記事が書かれていない事からして、村井貞勝は、ただ単に安土城の天主についての記録を取ったのではなく、何らかの必要があって記録を取った為に、建築として非常に珍しい、いしくらの構造であっても、村井貞勝にとっては記録する必要が無い部分であった為に省略されたのではないかと考えられます。

☆ 村井貞勝の記録の背景

 信長は、安土城の漢文による記録として、天竜寺の策彦周良の推挙により、岐阜の南化玄興に「安土山ノ記」を書かせています。 当時の?禅僧は、漢文の読み書きを自由自在にでき、中国故事にも通じていて、特に南化玄興は、後に妙心寺住持となり国師号を特賜されたほどの名僧の一人である事からして、信長は、安土城を称える漢詩文を書かせるにあたって、当代一流の人選をしている事が覗えます。
 また、安土山の城と山下町の風景を絵に画くに当って、足利将軍家の御用絵師として名声の高い狩野派の、狩野永徳に命じていて、これもまた、当代一流の人選をしている事が覗えます。
 そんな信長が、安土城の間取りを公式に記録させようと考えた時に、単なる京都奉行に過ぎない村井貞勝に記録文の作成をを命じる事があるのでしょうか?、漢詩文や絵画の例から考えれば、安土城天主の隅々に精通する人材である、棟梁の岡部又右衛門や、普請奉行の丹羽長秀などに命じるはずです。
 安土日記に書かれる安土城天主の記録は、「ろとうびんと申仙人 杖なけ捨たる所」 という部分からわかるように、教養のない人物が、見たまま聞いたままに書きとめたような表現が見られるので、村井貞勝の個人的な覚え書きと考えた方が相応しい記録であると思われます。 
 さて、その村井貞勝ですが、信長政権の京都奉行として、内裏の修理・足利義昭の二条城・誠仁親王の二条御所・信長の宿所となる本能寺、などの建設に関っているので、信長の好みの建築について覚書を作る必要があった可能性は否定できません。 また、信長の時代は、建築における絵画が変化する時期で、室町時代には珍しかった金壁障壁画が、建物内の部屋中を埋め尽くすようになった最初の頃で、部屋の格式を画題で区別する、絵画と、部屋の用途の関連付けが始まった時期に当るので、村井貞勝としては新しい技法である、部屋の格式と、描かれる絵画の関係について、信長の好みの組み合わせを把握しておく必要があったために、部屋の画題を中心とした覚え書きとして作成されたのが、安土日記の原本にあたる記録で、「吹き抜け」や「橋・舞台」「宝塔」などは、地下のいしくら同様、記録するつもりが無かったために記録されなかったのだと思われます。

■ 当時の常識

☆ お城と天守閣

 現代では、お城に天守閣があるのは常識、というより天守閣=お城という認識が一般ではされています。
ですが、天守閣と言われるようになったのは明治時代以降であり、また、天守の始まりは信長の安土城から、という記録もあるように、信長の時代には天守というもの自体、非常に珍しいもので、現代人の考えるような、天守の常識的な形、などという共通認識は、当時の人には当然のことながら存在していません。

 つまり、天守に吹き抜けがあるのは非常に珍しい、と考えるのは、天守の常識的な形が出来上がった江戸時代以降の常識であって、信長の時代の人にとっては、天守というもの自体が非常に珍しい建築であり、他に比べられる類例などほとんど無い状態なのですから、わざわざ「吹き抜け」だけを取り出して、珍しい構造だと記録するほうが不自然だと思われます。

☆ 常識的な記録

 また、太田牛一と宣教師以外の人は、安土城天主を拝見しても、「ヤウタヰ〜難暢筆也」(津田宗及)とか、「か様に御結構の様、古今承り及ばず」(信長公記・石田主計、前田薩摩両人)という、全く復元には役に立たない記録しか残していないのですから、一般的に言って、新しく出来た建物を拝見した記録というのは、この程度の、表面的な感動を表しただけの物の方が常識であり、構造にまで言及しろと言う方が無理なのではないでしょうか?。




最終更新日時
2006年1月2日
16:07:26

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