天守指図考察

――吹き抜けについての噂話


 「天下城」という小説の作家の、佐々木譲さんのホームページの、天下城ノート http://www.sasakijo.com/azuchi1.htmの中で、天守指図に対する疑問点がいくつか出ていたので、このページでは、それに対する考察を少々・・・。
 佐々木さんの疑問点の中の、
「わざわざ不整形八角形の建物を建てることの不可解」については、大聖堂の影響―その7・番外編の所で、キリスト教で霊魂の再生、復活を表すとされる、8の数字にちなんだ、八角形の建物にしたかったので、施工のしやすい矩形を少しずらした不等辺八角形が作られたと考察しています。
 「吹き抜け空間の奇妙な構造」については、安土城の建設方法に関る問題であり、後ほど「天主復元案」のページで説明する予定になっているので、ここでは省略します。
 今回は前項の「記録が無い!」に引き続いて、「記録がないことの不可思議」について考えてみます。

■ 記録がないことの不可思議 (佐々木譲 天下城ノートより)

>小説家の立場としては、そこに記録がなければ、あったことにしてもいい。
>否定できないことについては、正史の記述者は触れなかったのだ、と見るのが正しい。
>
>ただ、安土城の天主の吹き抜け空間については、同時代の者が、あるいは
>正史の記述者が隠すべき、もしくは否定すべき理由は何もない。
>ましてや天主が竣工したとき、織田信長は部下たちばかりではなく、
>わざわざ拝観料まで取って、地元の住人や近在の有力者たちに公開している。
>その中には、みずから記録する者はいなかったにしても、噂としては広められた
>はずである。なのにこれまで、『天主指図』が発見されるまで、吹き抜けの存在について
>なにひとつ記述が残っていないというのは奇妙すぎる。


☆ 吹き抜けについての噂話

 安土日記に、「吹き抜け」が有ったと書かかれていない理由は、指図考察2で、当時は「吹き抜け」という言葉や概念が存在せず、なんとも表現のしようがなかったために、記録に残っていないと考えています。 が、しかし。 たしかに佐々木氏の言うように、記録する(できる)者はいなかったにしても、噂としては広められたはずで、『天守指図』が発見されるまで、吹き抜けの存在などについて、噂話すら残っていないというのは奇妙すぎる。 と言う疑問はもっともな事と思われるので、この、「吹き抜け」の存在について、漠然とした噂話すら残っていない問題について考えてみました。

■ 井上章一著 「南蛮幻想」 から

 さて、現在では、荒唐無稽な俗説として抹殺されてしまった?ある噂が、江戸時代から明治にかけて広く信じられていた事を、皆様はご存知でしょうか?。 この噂話について、井上章一さんの書いた 「南蛮幻想」 から引いてみます。

☆ 青木昆陽著 「昆陽漫録」 (1760年起稿)

我国ノ城ノ制ハ、西土ニコレナシ。織田殿ノ時、南蛮人今ノ城制ヲ伝フトイフ。

☆ 百井塘雨著 「笈埃随筆」 (1770年代〜1794年)

我国の城内に五重三重の楼あるもの天守といふ。則信長公、この安土城に楼を建てられしを権輿とす。是全く要害の為にあらず。信長切支丹の法を信ずる事深く、其宗の仏を祭れる為に建てられたり。故に天守といふ。天守とは其宗の本尊の名なり。

☆ 平賀蕉斎著 「蕉斎筆記」 (1800年刊)

古しへは城々に天守といふことなし、信長公の時より始りたり、其頃は切支丹の宗門行はれける故、上の主には天帝を祭りし所也、故に天主と唱へたり、肥後の熊本城には、今に仏壇のごときもの有けると也、学丹居士の咄し也。

☆ 太田錦城著 「梧窓漫筆拾遺」 (1820年代)

西洋人は、家宅を五重七重に作りて、其第一の高層の処に、天主を祭る。信長公天主の邪教を仮りて、仏法を破却する志あり・・・安土に大櫓を立てられて、天主と称す。是天下天主の始めなり・・・実は其の第一の上層に、天主を奉祀する故に、名付けたるにて、西洋人の真似をしたるなり。・・・・
・・・一諸侯の臣の、予が門人、予が少かりし時に、物語せるに、是れはあらはには申し上げがたきことなれど、不思議のこと故申すなり。我国城の天主の上層に、何か怪しき神を安置せり。切支丹の神なりと言ひ伝へたりと。予此言を聞きて、豁然として了悟したり。信長公の天主を安置せられて、天主とは付けられたるなり。諸国の天主も、是れと同じ。御禁制となりて、皆取り棄てたるに、其の国などは辺土にて、今に其ままあることならん。・・・・・・
・・・信長公の心得違より出でたることにて、天守は天主なりと云ふことは知るべき理なり。今かく御禁制に官名までも、其呼称を用ふることは然るべからざること歟と覚ゆ。天下一統に、天守と云ふ語を禁じて、大櫓と云ふべき事なり。

☆ 松浦静山著 「甲子夜話・正編」49巻 (1821年〜1827年)

天守、以前は天主と書て、櫓の上層に天帝を祭ることとぞ。然るを上杉謙信天主の称を悪み、これを改めて天守とし、須弥の天守は毘沙門なりとて、この神を祭りしより、今は皆天守と書来ると。

☆ 山崎美成著 「海録」第一巻 (1820〜1837年)

城の中央に、殊に高やかに矢倉をつくりなし、これを殿守といへり、これはもと吉利支丹の天主をまつれる所なるより、天主といひたりしを、彼宗門御制禁の後、文字を改めてかきたる也、そのよしは、織田信長 切支丹の法を殊に信仰され、その本尊を祭れる為安土城に立られたり、これ殿守の出来し初なり。

☆ チェンバレン著 「日本事物誌」 (1890年初版)

彼はキリスト教徒たちの公然たる保護者であった・・・彼がその有名な城を建てたとき、本丸の頂上にキリスト教の神〔十字架か?〕を置いたといわれる・・・・・きわめて意味深長だが、城の本丸に対する日本語「天守閣」は、日本人のカトリック信者が採用した神の名前の訳語と同一の発音である。
ここに挙げた語源は、陸軍技師の間で通用し、主要な日本語辞書の権威者によって認められている。

☆ 大槻文彦編 「言海」  ( 国語辞書 1891年版)

天守ハ、松永久秀ガ志貴ノ多門城ニ始マリ、織田信長ガ安土城ニ盛ナリト云フ。共ニ天主教ヲ信ジタレバ、或ハ、天守ヲ祀レルモノナラムカ、

☆ 「伝家宝典明治節用大全」 ( 事典 1894年)

天守・・・ 始は楼上に耶蘇の天主を祭りたれば天主楼といひしを豊臣氏天主教を禁せしより主を守に改めしなり

☆ 岡野知十著 「少年週話」 (1899年)

日本では織田豊臣の時代に基督教が盛んに行はれ、信長は南蛮寺といふ寺を建立したのは基督教のためでした、又城の櫓を天主といふのも天主教の信仰から起った事で、この様なはなしは誰もよく知っていましょう。


■ 噂話の記録の存在

 これらの、江戸時代から明治にかけての記録には、安土城天主はキリスト教の神を祭る施設 (大聖堂) として作られた、と書かれています。
 つまり、安土城天主が、吹き抜けを持つキリスト教の大聖堂と関係があることを伝える噂話は、現在では、荒唐無稽なものとして完全に否定され、忘れられてしまった、というだけで、歴史をさかのぼって見れば、江戸時代から明治時代に渡って広く信じられていたことなのです。

☆ 青木昆陽のころ

 最初に挙げた記録を書いた、青木昆陽の時代は、秀吉によってキリスト教が禁教となり、さらに家光により、西洋の学問まで禁じられてしまっていた、西洋文明に対する徹底した禁令が、将軍・徳川吉宗によって緩和されて蘭学が盛んになるころなので、天守閣がキリスト教の天主のルーツだというような、それまで禁教令に抵触する為に、公に語る事が出来ずに、ひそかに伝えられて来た噂話が記録出来るようになった時期と考えることもできます。
 また、徳川吉宗は家康の曾孫、ということは、この頃はまだ、曽祖父が信長に仕えていた、という人もいてもおかしくはない時期で、秀吉に始まるキリスト教禁教令によって、大っぴらに語る事が出来なくなっていた、安土城とキリスト教の関係が、この頃になって始めて公に記録されるようになった、と考える事は十分可能であると思われます。

☆ 安土城天主とキリスト教の大聖堂

 天守指図の特徴は、建物内部に吹き抜けが作られていること以外にも、建物内部に舞台や橋、宝塔が置かれていたり、八角形の部分があったりと、宮上氏が「奇想は注目に値する」、と表現するほど破天荒な形態なのですが、 これらの変った形態はすべて、キリスト教の大聖堂の各部分を日本の建築様式で作ったものと考えることができます。
 詳細は、大聖堂のページのなかで書いていますが、安土城天主がキリスト教の大聖堂を模して建てられていた場合、信長はキリスト教を保護してはいたものの、その教えを信仰していなかった事は、宣教師の記録から見ても明らかなので、その目的は、フロイスの記事から考えて、人間であったイエスを、三位一体の神として祭る大聖堂の形式を流用して作った、信長自身を、第六天魔王 (他化自在天主) の、現世に垂迹した神として祭る、ハ見寺の奥の院としての”神の家”(キリスト教では聖堂の事)だったと考えられます。 
 もっとも、フロイスの記事にあるように、”第1回信長神格化祭”?が行われて、19日を経過した後に、本能寺の変が起って信長が死んでしまったので、信長が神として君臨したのは、わずか19日間!、これでは、一般庶民に神としての信長のイメージは定着する筈もなく、大聖堂に似せてつくられた建築である安土城天主は、キリスト教の神を祭る施設として建造された、という噂話が広まったとしてもおかしくありません。
 つまり、吹き抜けの存在などについての噂話は、現在では荒唐無稽な俗説として否定され、忘れられてしまったと言うだけで、過去においては広く世の中に存在していたのです。




ではなぜ現在、佐々木譲氏の主張されるような、吹き抜けなどの存在についての噂話である、安土城天主とキリスト教の関係について、語られる事がなくなったのでしょうか?。

その件については、次のページで。

最終更新日時
2006年1月3日
16:45:57

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