シャルヴォア 日本史

             桜井成広 著  戦国名将の居城〜その構造と歴史を考える  新人物往来社刊 より

シャルヴォアと言う人はフランス人なので、原題は、
『Le Pere de Charle voix, de la Compagnie de jesus; Histoire de Japon』と言うらしい。
1734年にパリで刊行された本で、宣教師の記録ではないのですが、他に適当な所もないので・・・。

――――第1巻 第6章――――

・・・(前略) 信長の屋形へは岩を切り開いて造った見事な段々を通って登って行くのである。 この段々はその山の台地のようになっている広い場所に達し、これを削るためには莫大な費用がかかった。 この広場の周囲は高さ50腕尺(coudees)の堅固な城壁で、それはすべて非常に美しい切石で造られていた。 その城の内部やかずかずの庭園、テラス、廊下、いくつもの御殿はすべてまれに見る美しさであった。 しかしわれわれの目をもっとも驚かしたのはその城の真ん中に高くそびえたピラミッドのような塔であった。 そしてこれはこの山の頂きとなっていた。

この塔は七重(a sept etages)で日本の習慣にしたがっておのおのの階に屋根があり、おのおの屋根と縁(les cordons)はその色彩のためにきわだって美麗であった。 そこではおのおのお色を保存しまた更に引き立てるために、われわれのもっとも見事な鏡とほとんど同じ光彩を持ち、またいかなる風害にも耐えることができる漆が塗ってあった。

そしてこの塔全体は、頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのような物で完成されていた。  当時このドームは、内側も外側も紺色や、様々の絵や、モザイクのような沢山の装飾で大変趣味よく飾られていた、そしてその豪華さを漆はさらに引き立たせており、その絢爛さに人はそれから目を離すことも見つづける事もできないほどであった。

これが安土山であり、信長の城であった。 それは叛乱軍によって襲撃され、ひとりの無分別な人間のために灰燼に帰したのである。 ・・・(後略)




☆ 主郭部分の造成方法

 この段々はその山の台地のようになっている広い場所に達し、
 これを削るためには莫大な費用がかかった。

安土城郭発掘調査報告書12の、レーダー探査の結果を受けた調査担当者所見で、

「ただ物理探査担当者が述べている「築城に際して高盛土のような大規模な土工事を行ったと言うよりも、自然の地形を十分に利用して基礎工事が行われたことが推察される」と言う点には、少し違ったイメージを持っている。 城の普請は自然地形の切り土と盛土で成り立っている。 この主郭部一帯に関してもこのことが言えるはずで、元来の自然地形である岩盤層を相当切り土して造成していると考えている。  安土山周辺の山を見てもわかるように、急峻な地形は見られないことから、ここ安土山山頂部の元来の地形も恐らくはそれほど急峻ではなく、なだらかな尾根が山頂を中心に伸びていたと考えられる。 天主台は安土山で最も標高の高い山頂部にあるが、そこから東、伝掘久太郎邸を経て馬場平に至る尾根上に、本丸取付台と伝名坂屋敷が、この尾根の南斜面に本丸が造られている。 なだらかな地形上にこれらを造成し平坦面を確保しようとした時、標高の高い側、特に各郭が接する石垣裾部分付近は相当量の岩盤を掘削しなければならなかったと思われるのである。 これは天主台と本丸との約10mの段差、今回の調査範囲外である伝名坂屋敷と伝掘久太郎邸跡の間の約10mの段差や、本丸取付台と伝台所跡との約15mの段差を目の当たりにすれば首肯できると考える。」

という部分を裏付ける記録で、安土城の工事は、切り土に莫大な費用がかかったと記録されるほど大規模な造成工事を行ったと思われます。 発掘調査の物理担当調査員は、「高盛土のような大規模な土工事を行ったと言うよりも、」と、書いていることからもわかるように、造成=盛り土、の前提で所見を書いているのですが、全く自然の状態で、天守台のような形の岩盤が偶然存在したとは考えにくいので、担当調査員の所見のように、「岩盤層を相当切り土して造成している」と考える方が自然です。 私は、さらにこの論を進めて、安土城築城以前の山頂は、現在の安土町の南の、太郎坊宮が麓に建っている、箕作山の山頂のように、山頂に、岩盤や巨石の露頭が見られる状態で、自然の岩盤の余分なところを削り取り、天主台の大きさに足りない部分に、蛇石などの巨石を嵌め込んで、天主台全体に渡る巨大な基礎が作られてたと考えています。

☆ 純金の冠を載せたドーム

そしてこの塔全体は、
頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのような物で完成されていた。


桜井成広氏は、「シャルヴォワが伝える屋根頂上の一個の金冠というのは、金を塗った宝珠の装飾であろう。」と考え、安土城の最上階の屋根を宝形で復元していますが、原文は「純金の冠を載せたひとつのドーム」であり、屋根頂上とは微妙に意味が違うと思います。
ドームについて日本語で説明すれば、「丸い屋根」と説明するのが妥当な所で、日本建築史的に考えると、丸い屋根と言えば「八角円堂」に決まっています。 この部分の記事は、八角円堂の丸い屋根≠ドームの上に、金閣寺の舍利殿のような総金箔張りの六階が乗せられた状態を表した物と思われます。

☆ ドームの色や装飾、はたまた紺色にいて

このドームは、内側も外側も紺色や、様々の絵や、
モザイクのような沢山の装飾で大変趣味よく飾られていた、


安土日記によると八角の段には、釈迦と十人の弟子が描かれ、釈迦が説法をしている構図になっていて、部屋の周囲の縁側には、餓鬼や鬼が描かれ、縁の脇の板には、鯱や、飛ぶ龍が描かれ、手すりには擬宝珠が付いている。と書かれ、天守指図には、それに加えて、長押に牡丹唐草、縁の天井に龍が一間に二匹づつ、窓の内側は海の様子、鯱などもあると書かれていて。これらが、「様々の絵や、モザイクのような沢山の装飾」に相当すると思われます。


最終更新日時
2003/12/31 (水)
20:47:36

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