1580年、9月1日付


■ 都より パードレ、ジョアン・フランシスコの書簡

― 日本暦、天正8年7月22日付、の書簡

この書簡には、まず、信長の石山本願寺攻めの様子が書かれ、
次に、約1ヶ月前に完成した安土城を、信長が一般公開した時の様子、
安土の修道院建設の申し出と、建設に当っての信長の好意・厚情について、
安土城と天主の様子、安土の信者や、布教の成果、などが書かれた後、
ロザリオや十字架の功徳?によって、銃弾に当らなかった奇跡、
聖週における行列と、祭儀の様子、十字架によって、病気が治った話、
信仰心に篤い信者の死の様子について書かれています。

この時期の安土城の工事は、 5月3日に信忠、信雄邸の普請、
5月7日に、江堀、舟入、道築の普請が出来あがり、普請奉行の
丹羽長秀、織田信澄に、領地帰休の許可が出ているなどからして、
黒金門より上の、主郭部分の工事が、全て終了していたために、
宣教師が、安土城は1ヶ月ほど前に完成したと書いた、と考えられます。


信長は、大坂を攻めんが為立派なる軍隊を率いて、数日前當都に来れリ、
大坂の領主は、日本にある最も有害なる宗派の頭にして、
己を神の如く崇拝せしむ。・・・・・・・・(中略)

・・・・・信長が、安土山の城を完成したるは、約1ヶ月前なるが、
城は宏壮なるものにして、彼は之に依りて、その威勢を
示さんと決心せしが故に、触れを出し、之を見ることを欲する者には
許可をあたえ、ことごとく入城せしむべし、と伝達したれば、
多数の人、来集せり。・・・・・・・・・(中略)

・・・・・・・信長の城は、甚だ高き山の上にあり、約300の階段によりて
之に上る、少しく困難なれど、馬もこの階段を上ることが得べし。
山の周囲には、部下の大身達の家あり。互いに隔離し、
各々堅固なる壁をもって囲まれ、各々一城の如し。

山の頂上は、甚だ長く堅固なる壁をもって囲まれ、その内に主城あり、
信長のものにして、寧ろ其の宮殿と称すべし。
七階を有し、其の室数甚だ多ければ、先頃信長も、
この家の中にては迷うべしと言えリ。
その道を知るべき標識は、多種の木像なり、
其の数多く、いずれも驚くべく、美麗完全なるが、
信長は、少しの不完全も忍ぶことあたわず、
之が為め、日本国中に在る、最良の工人を、各地に求めたり。

足を置くべき床は、天井と同じく、清浄にして磨きだし、戸および窓は、
塗りて、鏡に対するがごとく、己の姿を見ることを得べし。
壁は、頂上の階の、金色と青色を塗りたる外は、悉く甚だ白く、
太陽を反射して、驚くべき光輝を発せり。
瓦は、大きさポルトガルの瓦に等しきが、製作巧みにして、
外よりこれを見れば、薔薇又は花に、金を塗りたるが如し。

この山の麓には、甚だ大いなる湖あり、長さ15又は20レグワなるべし。・・・(後略)


☆ 天主内部の多種の木像とは・・・障壁画?

この書簡で問題なのが、道を知るべき標識が、多種の木像と書かれている部分で、
江戸時代の御殿では普通、部屋の用途に応じて、様々な障壁画が画かれていて、
○○の間と言うように、画題が部屋の名前になっているので、
この場合、障壁画の事を、木像と表現していると考えられるのですが、
絵画を木像と表現するのは、少し表現がおかしいと思われます。
とは言うものの、他に考えようもないので、
安土図屏風に付いてかかれた、1585.03.23日発行の羅馬報知、に出てくる
『極大きくて誠に薄い木の皮に・・・ ・・大きな建築が書いてある。』と言う表現から、
宣教師にとって障壁画とは、木の皮にかかれた物の像、の事であった、と理解して、
木にかかれた像⇒木像、ということに、とりあえず解釈しておきませう。

☆ 天主の規模は、5層7階

1577年の書簡では、五層の屋根と書かれていて、この書簡では七階を有し、と書かれるので、安土城天主は、五層七階ということが、わかります。
尤もこの当時は、石倉は別に、地下何階と数える、と言う江戸時代以降の原則が確立していたとは思えず、安土日記においても、地下と地上階の区別はしていない事から、七階とは、石倉を含めた全体の階数であると考えられます。

☆ 頂上の階以外の壁の色は純白

壁の色は、頂上の階が金と青色で、他の階の壁は、甚だ白いと書かれているので、
壁の基本色は白だと考えられますが、わざわざ、壁の色は、と、
色の付いている場所を、壁と指定している事に注意!

☆ 建物内の木部は、黒漆塗り研き出し仕上げ

安土日記には場所を指定せずに、天主は悉く黒漆と書かれていますが、この記録では、外壁は甚だ白いと書かれていて、 戸と窓は、(漆が)塗られ、鏡の様な光沢がでていて、部屋の内部の、床と天井は同じ仕上げで、磨き出されている、と書かれています。 
床であれば、糠袋などで素木の床を磨き出す方法もあるのですが、素木の天井を糠袋で磨き出すのはあまり聞かないので、天主の床と天井は、何らかの塗料を塗って磨き出していると考えられます。 建築一般で言う「磨き出し仕上げ」というのは、木部を、との粉、灰汁、鉄漿、漆なの塗料を塗って磨き、光沢を出した仕上げの事で、床と天井を塗りながら、柱や長押は白木という仕上げのされる建物は、存在しないと思われます。(少なくとも私は知りません)。 この事から、床と天井を始めとする天主内部の木部が、全て黒漆磨き出し仕上げであると考えると、安土日記と宣教師の記録が矛盾を起こさずに説明できます。

☆ 瓦は普通サイズで、瓦当面が金色

瓦の大きさは普通サイズで、瓦当面に金が塗られている、と言うのは、宣教師の記録によるまでもなく、発掘調査で発見されている通りなので、特にコメントは無し。

最終更新日時
2003/09/15 (月)
12:30:45

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