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タイトル天主台中央の穴について
記事No: 85 [関連記事]
投稿日: 2002/11/18(Mon) 22:06
投稿者yamamoto

どうもいつも楽しく拝見させて頂いております。
さて、以前にも触れられたかもしれませんが
天主台の中央の礎石の無い部分についてですが
昨年の発掘調査説明会(スライド等を使っての講演)
での調査員の方のお話の中で
初期の発掘で甕が発見された穴の形状について
甕がそのままの形で埋められていたとは
思えない状態であり元々何かの目的で掘られた
穴に甕の破片が捨てられていた言うのが
正しいのではないかと言う事を、おっしゃられていました。
穴については、上部から20CMほど初期の発掘調査後に
心無い者により掘られていたが、それより下は
建築当時に掘られた様子であり長靴状になっていたとの事
また、芯柱を直接天主台の下部にある岩盤に立てた
という状況でも無い様子であり
元々、礎石があって抜き取られたとかは
今後の研究が必要だとおっしゃっておられました。
残念ながらこの年の現地説明会には、行けなっかたので
実際の発掘の状況を見る事は出来なかったのですが…
いったいこの穴はどのような目的で掘られたのでしょうか


タイトルRe: 天主台中央の穴について
記事No: 86 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 11:31
投稿者M

僕個人の勝手な意見なんですが、そこにはもともと礎石があったのですが、
安土城内の信長廟の墓石に
(あのへんてこな形の石です。ぼんさんという説もありますが)
使われてたんじゃと考えています、、、
どうなのでしょうかね。墓を天主の中心の礎石を使ったというのは
無理があるでしょうか?


タイトルRe^2: 天主台中央の穴について
記事No: 87 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 15:59
投稿者yamamoto

> 安土城内の信長廟の墓石に
> (あのへんてこな形の石です。ぼんさんという説もありますが)
> 使われてたんじゃと考えています、、、
> どうなのでしょうかね。墓を天主の中心の礎石を使ったというのは
> 無理があるでしょうか?
どうもyamamotoです
その説については、早くから言われています。
実際に信長廟の直ぐ近くまで行った事は無いですが
遠目に見た限りでは、天主台中央の穴の大きさや
礎石としての石の形状から考えて
私的には、礎石とは認めにくいのではないかと思います
それに信長の化身であるボンサン石は
安土城天主が存在した当時は
総見寺の本堂の2階に安置されていた様ですので
信長廟の石については、江戸時代に信長廟自体が
改修さてる前も同じ様な特異な形状(他の武将の墓とは違う)
をしていたらしく、私もボンサン石そのものではないかと考えています。
しかしながら現在残っている他のボンサン石
例えば「九海八山盆石」などは、イワユル奇岩といわれる
凹凸の激しい形状をしていますが、信長廟の石は
ごく普通の石垣にでも使われている石と変わらない
形状をしていますので…どうかなぁ?


タイトルRe^3: 天主台中央の穴について
記事No: 88 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 17:42
投稿者M

お返事どうもありがとうございます。
ひとつ分からないことがありまして、教えていただきたいです。
私は逆に天主中心の穴の大きさが分かりません。
一体どれくらいあるのでしょうか?よろしくお願いします。


タイトルRe^4: 天主台中央の穴について
記事No: 89 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 19:41
投稿者yamamoto

> お返事どうもありがとうございます。
> ひとつ分からないことがありまして、教えていただきたいです。
> 私は逆に天主中心の穴の大きさが分かりません。
> 一体どれくらいあるのでしょうか?よろしくお願いします。
どうもyamamotoです。さっそくレスありがとうございました。
天主台の穴の大きさですが、上部の一部が発掘後掘削されてはいますが
下部は当時のままであって、初期の発掘や今回の発掘調査によると
一辺が50CMから60CMぐらいで、深さは110CMほどであったそうです。
天主台の礎石の下の状況は、結構堅い岩盤が広範囲にあって
礎石の大きさにあわせて、掘ったというより岩盤をくり貫いた(ちょっと
表現はおかしいかも知れませんが)ところに礎石を置き
更にタタキ漆喰で堅く固めたといった具合で構成されているとの事です
宮上氏が内藤氏の復元案を否定され自らの復元案を出された時の
理由の一つに、内藤氏案の天守閣の重量と礎石の大きさを比較すると
そんなに大きな建築物は建てられないのではと言った事をおっしゃていた
様です。天主台の下に強固な岩盤があって、その上に礎石がのっている状態
を考えれば、その説は当てはまらないと思います。
その岩盤こそ伝説の蛇石では無いのかという質問が出ましたが
その可能性はまず無くて、安土山全体にその様な岩盤は到るところに
ある様です。当時の築城家はその事を良く知っていたのかもしれませんねぇ。
それでは、フロイスも書いている1万人の人が引っ張りあげて、傾いた
ひょうしに100人以上も圧死したと言う「蛇石」はいったい
どこにあるのでしょうか。


タイトル蛇石
記事No: 90 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 22:06
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

どうも、こんにちは。

> それでは、フロイスも書いている1万人の人が引っ張りあげて、傾いた
> ひょうしに100人以上も圧死したと言う「蛇石」はいったい
> どこにあるのでしょうか。

信長公記には、石垣工事が始まって、1ヶ月もたたない時点で、
蛇石が天主へ上げられた、と書かれているので、
やはり、蛇石は、天主台の地下にあるのではないか、と思っています。

発掘調査によると、天主台の地下全体に渡って、強固な岩盤がある、
との事ですが、岩盤が1枚岩かどうかに付いては言及されていないようです。

この事から、安土城築城以前の山頂は、現在の安土町の南の、
太郎坊宮が麓に建っている、箕作山の山頂のように、
山頂に、岩盤や巨石の露頭が見られる状態で、
天主台の大きさに足りない部分を、蛇石などの巨岩で埋めて、
天主台全体に渡る岩盤を作り上げたと考えれば、

発掘調査の結果と信長公記の記事の双方が、
いちおう、矛盾せずに説明できると思います。


タイトル盆山
記事No: 93 [関連記事]
投稿日: 2002/11/20(Wed) 00:09
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> しかしながら現在残っている他のボンサン石
> 例えば「九海八山盆石」などは、イワユル奇岩といわれる
> 凹凸の激しい形状をしていますが、信長廟の石は
> ごく普通の石垣にでも使われている石と変わらない
> 形状をしていますので…どうかなぁ?

この場合の盆山石は、飾られる物ではなく、ハ見寺2階の、
窓の無い部屋に納められた、信長の代りになるものなので、
当の信長さえ気に入れば、どのような形の石でも問題なく、
ごく普通の石でも、とりあえず問題ないと思います。

また、あれが盆山でないとすると、
たとえ火事にあっても、石が焼けて無くなる事は無いので、
ハ見寺に納められた筈の盆山が、現在ハ見寺に残っていない理由が、
説明できないと思います。


タイトルRe: 天主台中央の穴について
記事No: 92 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 23:46
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

なかなか更新されないページに来ていただいて、
どうもありがとうございます。

> 甕がそのままの形で埋められていたとは
> 思えない状態であり元々何かの目的で掘られた
> 穴に甕の破片が捨てられていたと言うのが
> 正しいのではないかと言う事を、おっしゃられていました。

私は、安土城天主は、
キリスト教の大聖堂の様式で作られた、と考えているので、
天主台中央の地下に空けられた穴とは、
大聖堂の地下中央に作られる、聖人の墓所、つまり信長の墓として、
将来、信長の遺骨が納められる予定で作られたものと考えています。

安土城建築当時、信長はまだ生きているので、
信長を埋葬する予定の甕が、信長の代りになる物が納められた状態で、
天主台中央の穴に、仮に置かれていた状態であったと考えると、

発掘調査における、
> 甕がそのままの形で埋められていたとは思えない状態

とは、将来信長の遺骨を納める為に、甕がすぐに取り出せる状態で
置かれていた、と考えれば、矛盾しません。  また

信長が死ぬまでの間、仮に、信長の代りになる物が、納められた状態で
置かれていた、と考えれば、二の丸の墓所を作る際に、
焼け跡が掘り出されて、甕の中身を取り出し、掘り出す際に割れた甕の破片が、
周辺に捨てられた、と考える事が出来るのではないでしょうか。

長靴状になっていた部分は、一般的な建築で見かける、
鎮壇具が納められていた空間ではないかと思っています。


タイトルRe^2: 天主台中央の穴について
記事No: 95 [関連記事]
投稿日: 2002/11/20(Wed) 05:51
投稿者T.m

> 私は、安土城天主は、
> キリスト教の大聖堂の様式で作られた、と考えているので、
> 天主台中央の地下に空けられた穴とは、
> 大聖堂の地下中央に作られる、聖人の墓所、つまり信長の墓として、
> 将来、信長の遺骨が納められる予定で作られたものと考えています。

自分は、ハ見寺こそが信長の菩提寺として計画されていたものであり、
正親町天皇との確執から、今後、如何なる官職に就く意志の無いことを
示すべく、天正9年(夏頃)という時期に造営されたものと見ています。


タイトル総見寺が信長の菩提寺として造られたのか
記事No: 96 [関連記事]
投稿日: 2002/11/20(Wed) 22:33
投稿者yamamoto

どうもyamamotoです
総見寺の事ですが
確かに信長の死後、織田家の関係者が
代々住職として信長や一族の菩提を弔って来たとは思いますが、
信長自信が、死後の菩提寺とする事を考えていたでしょうか
フロイスが書いているように「自分自身(信長の事)より優れたもの
は存在せず自らを神と称した…」と言ってはばから無かった
のですから、神が死を想定して、菩提寺を建立したというのも変な気がします
要するに信長自信はイワユル生神であり信長を崇拝する事によって
人身を掌握するという目的があり、それは、信長自信、一向宗など
宗教の力に嫌というほど手を焼いている事から、それを利用しようと
したのでは無いでしょうか。それに、信長自信、自分の人生の終わりが
安土城なんて考えてはいなかったのだと思っています。信長ほど自分の
本拠地に執着せずに、どんどん替えている武将はそうはいないのでは無いかと
思っています。
おそらく次は大阪を本拠とするつもりではなっかたのでしょうか
秀吉の大阪城の築城が、本能寺の変からあまりにも速すぎます。何事も
素早い秀吉の事だから不思議では無いように見受けられますが
私は、信長の生存中、次の本拠地は大阪であると考えて、ある程度のプランが出来ていたのでは無いかと思っています。


タイトルRe: 総見寺が信長の菩提寺として造られたのか
記事No: 97 [関連記事]
投稿日: 2002/11/20(Wed) 23:56
投稿者T.m

> 確かに信長の死後、織田家の関係者が
> 代々住職として信長や一族の菩提を弔って来たとは思いますが、
> 信長自信が、死後の菩提寺とする事を考えていたでしょうか

最近、信長関連の史料を再見していて思うことが、如何に従来の信長像が、
小説はもとより、学術的論文においても、イメージが先行しているかという
ことです。
信長なら“こうした”ハズである、信長なら“そうはしない”ハズである
との予定調和で検証し、創り上げられた虚像であったと言ってもよいかと
思います。

ハ見寺については、天正4年の築城開始依頼、同9年の造営までの間、
何故その敷地が確保されていたのか、何故、同9年になって造営された
のかを考えたとき、正親町天皇との確執や、信長の「官職」へのこだわり
(※義昭擁立時から既に右大将を狙っていた)などからもそのように
考察するものです。

> それに、信長自信、自分の人生の終わりが安土城なんて考えては
> いなかったのだと思っています。信長ほど自分の本拠地に執着せずに、
> どんどん替えている武将はそうはいないのでは無いかと思っています。

後者を前提にすれば、まさにそう思われるでしょうが、信長は、天正6年の
「両官辞官」で既に信忠への「天下与奪」を計画しており、それは既に
同3年の「家督与奪」依頼、既定の路線であり、安土築城もそれに沿って
なされたものと見ています。

それは、信長の唯一公認記録である「安土山ノ記」に詠われているところ
であり、信長が安土城を「天下統一のシンボル」として築城したことは
明らかです。

> おそらく次は大阪を本拠とするつもりではなっかたのでしょうか

実は、そうした従来の“思い込み”こそが「安土山ノ記」が軽視されている
一番の要因だと言えます。

たとえ織田政権の本拠が大坂へ移ったとしても、安土城は、豊臣の豊国社、
徳川の東照宮の如く、信長の威光を後世に伝えるものとして残り、信長自身
それを意図していたと思います。

なによりも、天正10年の時点で信長の目は「シナ攻め」に向いており、
信長の中国憧憬は安土城にも遺憾無く表現されているところでもあり、
その点で言えば、安土の次ぎには秀吉の名護屋城よろしく、九州に
その拠点となる城を築く意図を持っていたかも知れません。


タイトル菩提寺
記事No: 99 [関連記事]
投稿日: 2002/11/21(Thu) 00:33
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

T.mさん、

菩提寺というのは、
死者の魂を供養し、菩提を弔う寺の事なので、
死者より、僧侶の方が格が上という事になります。

信長生存時のハ見寺は、すべての尊像の上に信長が君臨する形で、
寺院内部が、荘厳されていたようですから、
僧侶や、本尊より信長の方が上位に位置していた事になり、

菩提寺という言葉はこの場合ふさわしくないと思います。


> たとえ織田政権の本拠が大坂へ移ったとしても、安土城は、豊臣の豊国社、
> 徳川の東照宮の如く、信長の威光を後世に伝えるものとして残り、信長自身
> それを意図していたと思います。

豊国社の付属寺院の方広寺や、東照宮の付属寺院の輪王寺は、
鎮護国家を標榜していて、菩提寺とは言いませんよね〜。
ハ見寺も、これらと同じ性格の寺だったと思います。


タイトルRe: 菩提寺
記事No: 101 [関連記事]
投稿日: 2002/11/21(Thu) 00:46
投稿者T.m

> 豊国社の付属寺院の方広寺や、東照宮の付属寺院の輪王寺は、
> 鎮護国家を標榜していて、菩提寺とは言いませんよね〜。
> ハ見寺も、これらと同じ性格の寺だったと思います。

まさに当初の予定はその通りだと思います。

ただし、天正9年にハ見寺が造営されたのは、今後、
如何なる官職に就く意志の無いことを示すものであったと見ています。
「三職推任」の勅使への戸惑いが、それを裏付けているのでは
ないでしょうか。