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タイトル「ふゑつ」のこと
記事No: 71 [関連記事]
投稿日: 2002/11/04(Mon) 20:47
投稿者T.m

久しぶりです。

天主二階・北廿畳に描かれていた「ふゑつ」について、
淳也殿は「斧鉞」の可能性を指摘されていますが、それも
一理、在りかと思う一方、はたしてそれが一般的な認識且つ、
他に範例が在るのかと常々疑問に思っていました。

そんななか、最近、信長関係の史料を再検討していたところ、
気になるものを見出しました。

それは、天正6年4月に信長が右大臣、右大将の両官を辞した
おりの「奏達状」の一節「到棟梁塩梅之忠矣」であり、
全国平定の暁には再び任官を受け、「武門の棟梁としての忠節を
尽くす」ことを述べたものであり、「 安土山ノ記」にも同様の
主旨が述べられていることから、関連性を感じずにはおれません。

その「塩梅」の説明として、吉田兼見は「傳説」の故事を引き合いに
挙げており、そのことからすると、やはり「斧鉞」よりも「傳説」
の方が一般的であったのではないでしょうか。

つまり天主二階・北廿畳の「ふゑつ」は、通説の如く「傳説」
であり、家臣に対し忠節を説く意味合いを持ったものであったと
思うのですが如何でしょうか。


タイトルRe: 「ふゑつ」のこと
記事No: 73 [関連記事]
投稿日: 2002/11/06(Wed) 00:51
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

「傅説」の故事は、千字文に出てくるので、文字が書ける人なら誰でも、
知っていたとおもわれるので、「傅説」の方が一般的だったと思います。

ただ、この部分は、ほかの画題説明と違って「ふゑつの図と申」と書かれています。
ほかの部分の人物像の説明には、状況の説明や「御絵有」とか「かかせられ」なので、
「図と申」というのは、人物像の表現として、少しおかしいと思います。

また、この絵は、馬の牧場の絵と一緒の部屋に書かれているので、
一般に、道路工事のおじさん?の場面がかかれる、「傅説」の図では、
少し画題に、違和感があるのではないでしょうか?。

この違和感の為に、太田牛一は、信長記に改訂する際に
「ろとうひん」の部屋に「傅説」を入れたのだと思います。

「ふゑつ」を「斧鉞」と解釈すると、天守指図の2階の画題が、
舞台や、西王母の部屋から、絵の書いていない口の8畳まで、
一連のテーマでつながるのではないかと、仮定して検討している所です。


タイトルRe^2: 「ふゑつ」のこと
記事No: 74 [関連記事]
投稿日: 2002/11/06(Wed) 06:18
投稿者T.m

『安土日記』における「ふゑつ」の説明には、その前置として
「繪のふりたる所」の一文があり、「繪」を「柄」の誤記とすれば、
「斧鉞」とする余地は在るかも知れません。

しかしながらそれを素直に読めば、やはり「古たる繪」として、
何処から持ってきたもの=“伝統的”なものと考えるべきでは
ないでしょうか。

>「図と申」というのは、人物像の表現として、少しおかしいと思います。

基になった「貞勝の記録」自体、「安土山ノ記」のような正式なものではなく、
「覚え書き」あるいは「草稿」であったとすれば、表現の不統一は、
然程、拘る必用は無いかと思います。

それまで流れを見ても、
「広さ」「○○○」「○○○申也。」
ともなっていますし、「ふゑつの図と申」とあるのも、
「傅説」か「斧鉞」であるかは別として、取りわけ印象的であったからでしょう。


自分は、天主二階の北半分は信長とその家臣の集う空間であったと
見ているので、敢えて、朝廷に媚びるような「画題」は不要であった
と思います。

「駒の牧之繪」も、後の「御馬揃」に集約され、「武田攻め」の帰路、
富士のすそ野でおこなわれた「御狂い」(※本来のもの)から推察される
ものとして、“家臣との一体感”=信長の“武威”を表現したものであり、
そのような中での「傅説」は、“信長への忠節心”を説いたものとして、
必ずしも家臣を信じきることの出来なかった信長の一面を窺えるものと
思います。


タイトルRe^3: 「ふゑつ」のこと
記事No: 75 [関連記事]
投稿日: 2002/11/06(Wed) 23:16
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> しかしながらそれを素直に読めば、やはり「古たる繪」として、

この部分は、
北廿畳敷、駒の牧之御絵有、絵のふりたる所、是ふゑつの図と申。
と書かれているのですから、「ふりたる所」にかかっている、
「絵の」の言葉が、かかっているのは、「駒の牧之御絵」になって、
駒の牧の絵の中に、「ふりたる所」が有って、その場所が「ふゑつの図」
と言う、と解釈できます。

つまり「ふゑつの図」も基本的には、駒の牧の絵の一部なのですから、
道路工事のおじさん?で一般に表現される「傅説」の絵では、
駒の牧との関連性が薄く、絵の取り合わせに違和感があります。

ましてや、その部分のみが古びている絵をはめ込んだのであれば、
全く別の絵として、「駒の牧之御絵、並びに、ふりたるふゑつの図」
といった風に、画題を分けて書かれなければ、おかしいと思います。

「斧鉞」というと、斧と鉞の絵を考えがちですが、原文は、「ふゑつの図」
と書かれているので、「ふゑつ」は、必ずしも名詞である必要は無く、
「斧鉞」の意味である、征伐と考え、名馬を従えて、まつろわぬ者を
征服するために、出征する図が、画かれていたと考えた場合、
「駒の牧之御絵」と「出征」の図であれば、相互に違和感が無く、
北廿畳敷にかかれた、一連の絵と考える事が出来ます。

また、拝見者に教養が無かった場合、案内人に聞いたまま「ふゑつ」と
記録したものの「出征」図の何処が「ふゑつ」なのかわからなかったので、
案内人に指し示された、絵の振れている場所を、是ふゑつの図と申、と
伝聞の形で表現したのだと思います。


タイトルRe^4: 「ふゑつ」のこと
記事No: 76 [関連記事]
投稿日: 2002/11/07(Thu) 01:03
投稿者T.m

> 道路工事のおじさん?で一般に表現される「傅説」の絵では、
> 駒の牧との関連性が薄く、絵の取り合わせに違和感があります。

續断橋平嶮路、是故四夷献貢来復焉、八蠻鮮辮服鷹焉、
或臂俊鷹、求臣乎其幕下、或上良馬請将乎其麾下、

               『安土山ノ記』より

つまり、安土築城の意義が、力圧しでの天下統一ではなく、
その威光によってなされるものであることを述べており、
天主の障壁画にもそれが反映されていたと思います。


タイトルRe^5: 「ふゑつ」のこと
記事No: 77 [関連記事]
投稿日: 2002/11/07(Thu) 21:16
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

『安土山ノ記』のこの部分の表現は、
国力が回復し、交通の便が良くなったので、
周囲の敵が、鷹や馬を奉じて服属した。
という意味なので、

身分によらない、実力主義の人材登用を表す「傅説」の絵が、
なぜ同じ部屋に、画かれなければならないのか、という疑問があります。


さて、話題は変わりますが、この部分、
> 續断橋平嶮路、是故四夷献貢来復焉、八蠻鮮辮服鷹焉、

たぶん変換ミスです、鮮⇒解、鷹⇒膺、・・・ということではなくて、

どうして、八蠻が辮を解いて、服膺するのでしょうか?

服膺というのは、常に心にとどめて忘れない。
という意味なので、現代風に訳すと、この部分は、
田舎に住んでるヤンキーが、茶髪をやめて、常に心がけて忘れない。
って感じに、意味不明の文になってしまいます。

私はこの部分の原文は、服膺ではなく服属と書かれていて、
写本を作る際に、字が似ているので書き間違えたのだと思うのですが、
どうでしょうか?


タイトルRe^6: 「ふゑつ」のこと
記事No: 78 [関連記事]
投稿日: 2002/11/07(Thu) 23:32
投稿者T.m

> 『安土山ノ記』のこの部分の表現は、
> 国力が回復し、交通の便が良くなったので、
> 周囲の敵が、鷹や馬を奉じて服属した。
> という意味なので、

それまでの脈略からして、それもこれも信長の功績=仁徳ゆえ
と述べられているものと存じます。

フロイスも『日本史』において、それに「瀬田の大橋」
「比叡の山道」という実名を宛て引用しています。

> 身分によらない、実力主義の人材登用を表す「傅説」の絵が、
> なぜ同じ部屋に、画かれなければならないのか、という疑問があります。

まさに、譜代も外様も問わない信長の人材登用の有り様(と共に、信長への
忠節を求める)を示すものと言え、家臣の「溜まりの間」として相応しいもの
と思います。

> どうして、八蠻が辮を解いて、服膺するのでしょうか?
>
> 服膺というのは、常に心にとどめて忘れない。
> という意味なので、現代風に訳すと、この部分は、
> 田舎に住んでるヤンキーが、茶髪をやめて、常に心がけて忘れない。
> って感じに、意味不明の文になってしまいます。

「信長のもとに下った者は、その“仁徳”を忘れない」ということで、
問題はないかと思います。

> 私はこの部分の原文は、服膺ではなく服属と書かれていて、
> 写本を作る際に、字が似ているので書き間違えたのだと思うのですが、
> どうでしょうか?

「鮮」については「解」の誤記かも知れませんが、「服膺」はそのままで
良いかと思います。


自分は一つの可能性として、「貞勝の記録」は「安土山ノ記」を記す
に当っての「参照」であったのではないか、とも考えています。


タイトルRe^7: 「ふゑつ」のこと
記事No: 79 [関連記事]
投稿日: 2002/11/08(Fri) 23:08
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

たしかに、一つ一つの画題の説明としては、理にかなっているのですが、
安土城の部屋の画題は、一部屋一テーマが原則になっていると、
安土日記の記述からは、考える事ができます。  
そのなかで、この部屋だけに、

> “家臣との一体感”=信長の“武威”
> 譜代も外様も問わない信長の人材登用の有り様(と共に、信長への
> 忠節を求める)

という、二つのテーマに基づく別の絵が併記されているのは、
どういった理由だと、考えておられるのでしょうか?。



> 「信長のもとに下った者は、その“仁徳”を忘れない」ということで、
> 問題はないかと思います。

> 「服膺」はそのままで
> 良いかと思います。

この件、なっとくしました。
「安土山ノ記」を久しぶりに読み返して気が付いたのですが、
「八蠻解辮服膺」は、その前の句の「四夷献貢来復」と対になっているのですね。

「来復」と書いているという事からして、作者の「南化玄興」は、
信長の時代にはじめて、周囲の敵が服属したのではなく、
葛原帝や、平清盛が、蛮族を服属させていた理想的な状態が、
長い間失われていたのを、その子孫が復活させた、と言いたいわけで。

この部分を訳すと、
近くのヤツらはまた再び、貢物を持って来るようになり、
遠くのヤツらも、以前の如く、威光を常に感じて生活している。

といった感じでしょうか?

とすると、「南化玄興」は、信長の権力の正統性を、
葛原帝の子孫の平清盛から数えて、21代目の子孫
という所に、見ていたのでしょうか。


タイトルRe^8: 「ふゑつ」のこと
記事No: 80 [関連記事]
投稿日: 2002/11/09(Sat) 06:28
投稿者T.m

> という、二つのテーマに基づく別の絵が併記されているのは、
> どういった理由だと、考えておられるのでしょうか?。

信長にとって、「人材登用」こそがその「武威」の源であった、
と考えているので矛盾は無いと思います。


> とすると、「南化玄興」は、信長の権力の正統性を、
> 葛原帝の子孫の平清盛から数えて、21代目の子孫
> という所に、見ていたのでしょうか。

それは、玄興の考えでは無く、信長の意図を反映したものと
見るべきでしょう。

『信長公記』のみならず、同時代の史料」を横断的にみると、
「左大臣推任問題」の答えも、「右大臣任官」時の出来事に
見出すことが出来ます。

その発端となった「御馬揃」が、安土での「左義長」を前提
としたものであることは定説ですが、その関連性として、
正親町天皇と信長との最初の対面が永禄12年正月の「左義長」
の場であったことが、従来、余り注目されていないように、
信長については、『信長公記』を含め、従来、創り挙げられてきた
イメージを一端捨て、自身で史料を読み直し再構築すべきではないか、
そう考える今日此の頃です。


タイトルRe^9: 「ふゑつ」のこと
記事No: 81 [関連記事]
投稿日: 2002/11/09(Sat) 22:54
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> 信長にとって、「人材登用」こそがその「武威」の源であった、
> と考えているので矛盾は無いと思います。

たしかに、理論の上では、矛盾は無いと思います。

私は、駒の牧場から考えられる、草原のイメージと、
傅説から考えられる、傅巌の岩山のイメージでは、
二つの画題に違いが有りすぎるので、
「ふゑつ」は 「斧鉞」だと、考えているまでの事で、

TMさんのように、信長の理念を重視して画題を考えるのであれば、
「傅説」と考えても、宜しいのではないでしょうか。