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タイトル安土城天主の六階について
記事No: 58 [関連記事]
投稿日: 2002/04/30(Tue) 18:44
投稿者森嶋

最近よく指摘されることですが,
戦国大名は天下統一を目標にして戦をしていたのではないということです.
信長を除く戦国大名は領地の拡大と経営しか考えておらず,
信長だけがどうすれば天下統一できるのかを考え行動していたのです.

今川義元が尾張に侵攻したのは上洛の途中だったからではなく,
尾張侵攻そのものが目的だったと考えられています.
また,上杉謙信は関東管領の職を誇りに思っており,
室町幕府にとってかわろうとは全く考えていなかったでしょう.

戦国大名が天下統一を目標にしていたのであれば,
信長が尾張をどうにか平定したとき,既に中国地方の覇者であった毛利氏は,
信長が美濃を領地にする間に,
五万人以上の兵を率いて上洛し本州の西半分を領地にしたでしょう.

それでは,「天下統一」という発想を信長は何から得たのでしょうか.
信長は「天下統一」の概念を中国の歴史書から得たと私は考えます.
同様に「天帝」と「皇帝(天子)」という中国の世界観から大きな影響を受けたはずです.
「皇帝」とは「天から選ばれた,地上における神」であり,
信長の自己神格化とは,天道思想ではなく,
「天帝」と「皇帝」という中国的な世界観に基づいていると私は考えます.

そして,信長の世界観は安土城天主にも反映されていると思います.

安土城天主の六階の画題は全て中国に由来していますが,
これは信長の政治思想だけでなく,
「信長は皇帝である」という世界観も示しているのではないでしょうか.

安土城天主の六階は,
少数の例外を除いて信長以外の人間が使用を禁止された部屋であり,
信長が天を祭る儀式のための部屋,
つまり,中国の天壇に相当する空間だったと私は考えます.


タイトルRe: 安土城天主の六階について
記事No: 59 [関連記事]
投稿日: 2002/04/30(Tue) 19:50
投稿者T.m
URLhttp://resq.to/fun/azuchi/

> 信長だけがどうすれば天下統一できるのかを考え行動していたのです.
> 戦国大名が天下統一を目標にしていたのであれば,
> 信長が尾張をどうにか平定したとき,既に中国地方の覇者であった毛利氏は,
> 信長が美濃を領地にする間に,
> 五万人以上の兵を率いて上洛し本州の西半分を領地にしたでしょう.

「天下を望まず」は、元就の遺言です。

> それでは,「天下統一」という発想を信長は何から得たのでしょうか.

足利義輝からの感化であったと思います。
その死により、自らの「天下草創」を決意し、
「麟」の花押や「天下布武」の印を用い始めたのだと。

義昭に対しては頼朝の「天下草創」を
正親町天皇には楠木正成の「天下草創」だと
説明していたと考えています。

> 安土城天主の六階の画題は全て中国に由来していますが,
> これは信長の政治思想だけでなく,
> 「信長は皇帝である」という世界観も示しているのではないでしょうか.

信長は自身を「黄帝」に比していたのだ、と思います。
「安土」もその「土徳」に由来するのだと。
「平安楽土」なんて平凡な発想ではなかったと思います。


タイトルRe^2: 安土城天主の六階について
記事No: 62 [関連記事]
投稿日: 2002/05/11(Sat) 22:01
投稿者森嶋

> > それでは,「天下統一」という発想を信長は何から得たのでしょうか.
>
> 足利義輝からの感化であったと思います。
> その死により、自らの「天下草創」を決意し、
> 「麟」の花押や「天下布武」の印を用い始めたのだと。

「足利義輝からの感化」とは,具体的にはどういうことなのでしょうか.


> 信長は自身を「黄帝」に比していたのだ、と思います。

特定の人物に比していたと考えるのは誤りだと思います.

「三皇五帝」から「皇帝」という言葉が造られたことは周知のとおりです.
天下統一のために当時の信長は「勤皇」の立場をとる必要があり,
「皇帝になりたい」と思っていても,それを公にできなかったのですから,
天主の最上階の「三皇五帝」の絵は「皇帝」を意味し,
信長の願望を示していると素直に考えるべきでしょう.


タイトルRe^3: 安土城天主の六階について
記事No: 63 [関連記事]
投稿日: 2002/05/12(Sun) 10:28
投稿者T.m
URLhttp://resq.to/fun/azuchi/

> 「足利義輝からの感化」とは,具体的にはどういうことなのでしょうか.

信長より以前に上洛を果した謙信は、先ず御所へ参内し、次ぎに義輝と
対面しています。
それに対し信長は、参内しておらず、義昭を奉じての上洛後の正親町天皇との
最初の対面においても、朝廷側の不手際に旋毛を曲げて早退してしまい、
「尊皇心」の無さを露呈しています。

「将軍」に対してもどれだけの「尊敬心」を持っていたかは疑問ですが、
永禄二年の上洛は、三好一党に対抗する力を欲していた義輝の要請を
受けてのものであり、尾張支配の「正統性」を欲していた信長の思惑とも
合致し、永禄十年のいわゆる「決勝綸旨」のような思い《将軍の命による
天下静謐》を信長に抱かせたものと推察されます。

義輝の死が信長自身の「天下統一」を決意させ、その現れが「麟」の花押
であったと思います。


> > 信長は自身を「黄帝」に比していたのだ、と思います。
>
> 特定の人物に比していたと考えるのは誤りだと思います.
       ・
       ・       ・
> 天主の最上階の「三皇五帝」の絵は「皇帝」を意味し,
> 信長の願望を示していると素直に考えるべきでしょう.

「黄帝の如く在りたい」
それは「天皇」への挑戦ではなく、大陸進出への願望(皇帝の始祖に
凝らされる)の現れであり、六階の画題も、皇室との強調をうたうもの
であり、三階の「許由・巣父図」も「皇室」の権威までも侵す意思の無いことを示すものであったとみます。