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タイトル「村井貞勝の記録について」への返事
記事No: 57 [関連記事]
投稿日: 2002/04/30(Tue) 12:53
投稿者森嶋

返事が遅れてすみません.

> > たぶん森嶋さんが考えられている「記録」というのは、
> > 役方(組織)制度が確立した時代のものであり、
> > 江戸時代以前の「指図」などは、ほぼ皆無に等しく、
> > むしろ「文字」による記録が一般的であったという点、
> > ご認識頂きたいと思います。

> 現存する「指図」は少ないですが、室町以前の指図も存在しているので、
> 「指図」が書ける人(大工など)の数が、「文字」を書ける人に対して、
> 極端に少ない為に、ほとんど資料が残らなかった、と言うだけの事で、
> 大規模な工事では、必ず「指図」が作成された、と考える方が自然です。

> > 根本的に、そのような「図面」があったと想定すること事態に
> > 無理があると思います。
> > 森嶋さんが考えられている?江戸時代の「図面」は、何れも官僚としての
> > 大工が「報告書」や「技術教書」として残したものであり、
> > 安土城天主にそのようなものがあったかは疑問です。

> 単純な形の平屋であれば、現場施工で何とかなりますが、
> 重層建築で、指図なしに建築するのは、無理というものです。

> 室町以前の指図が皆無と言うなら、安土城の指図が書かれなかった可能性も、
> 指摘できるとは思いますが、
> 室町以前の指図が存在する以上、江戸と室町時代の間に位置する、
> 安土城天主の指図も存在したと考えられます。



淳也さんの意見に賛成です.
「現在,図面(指図)がない」ので「図面なしに建物を作った」と考えるのは短絡的すぎます.
建物が完成したら図面は必要なくなりますから,図面を保存する必要ないと判断された,
あるいは戦乱等で図面が失われたので,
「現在,図面が残っていない」と考えるべきです.

確かに,当時の一般的な農民や町人が住む家であれば,
規模も小さく間取も単純だったので,図面は必要なかったかもしれません.

しかし,多くの建物で構成される御殿や安土城天主のような巨大な建物を
図面なしに建設できたとは信じられません.

安土城本丸御殿・伝羽柴秀吉邸の礎石の配置から建物の間取が解ります.
常識的に考えて,礎石の位置は文章ではなく図面に基づいて決定されたはずです.

また,村井貞勝の記録から天主を復原する場合,
ある部屋の仕切について壁なのか建具なのか,
建具とすれば障子なのか襖なのか舞良戸なのか,全く解りません.

木造建築の場合,各部分を予め作ってから,それらを組合せて建物を作りますから,
予め詳細な図面を書いて,それに基づいて計画的に各部分を作るのでなければ,
建物を建設するのは不可能とは言いませんがきわめて困難でしょう.

秀吉の大坂城には本丸図が残っていますが,実際の御殿の建設にはこれだけでは不十分で,
御殿の各建物について詳細な図面があり,それに基づいて建設されたはずです.

まして,安土城天主の場合,前例のない建築ですから,
実際に骨組の模型を幾つか作るなどして,
構造について細心の注意を払って設計したはずです.
図面(指図)なしに天主の設計ができたということは絶対に有得ないでしょう.




> > 拝見記録だとすれば,筆と紙を持って,部屋の説明を記しながら,
> > 天主内を拝見したことになります.
> > これはきわめて不自然だと思います.

> まさに「貞勝の記録」はその様にして採られたのではないでしょうか。

> 立ったり、歩きながら、文章を書くために、
> 矢立や巻紙、と言う筆記具や、
> 草書体と言う表記法が存在するので、
> 書きながら、天主内を拝見するのは、
> 特に不自然な事ではないと思います。


現代の美術館では,万年筆の使用は禁止されています.
その理由は,絵画にインクがつく可能性があるからなのは言うまでもないでしょう.
まして,毛筆を美術館で使用することなどもってのほかです.

毛筆で記録しながら拝見する場合,
墨汁が畳や木の床に落ちたり,金碧障壁画につく可能性はかなり高いでしょう.
信長がそんな危険性を考慮しないと考えるのは不自然だと思います.
現代の美術館でさえ認めないのですから,
毛筆を持った人間が新築の天主内を歩き回ることを信長が認めたとは考えられません.

また,村井貞勝は一人ではなく,もう一人の家臣と一緒に見学していますから,
村井貞勝が記録をとりながら見学したというのは,おかしいと思います.


> > 村井貞勝が拝見したのは,一階から三階の金碧障壁画のある部屋だけだと考えるからです.
>
> 「記録」の内容からすると、その解釈には無理があるのではないでしょうか。

> 「貞勝の記録」は「拝見記」以上のものです。

> > それでは,村井貞勝の記録はどのようにして書かれたのでしょうか.
> > 村井貞勝の記録は,村井貞勝が天主を拝見した後で,
> > 天主の図面を見ながら書いた個人的な覚書だと私は考えます.

> 何らかの図面が在ったとしても、
> 簡単な「間取り図」程度のものであったハズであり、
> それから記憶を頼りにあれ程の内容のものが書けたとは思えません。


拝見記録としては,フロイスや大友宗麟の大坂城の拝見記録は,
村井貞勝の記録よりはるかに優れていると思います.
なぜなら,遠侍の床に虎の毛皮が飾られていたとか,奥御殿の納戸(寝室)の様子など,
実際に見たのでなければ書けないような内容だからです.

確かに,村井貞勝が見学した時点では,信長は天主に住んでいなかったようです.
しかし,金碧障壁画の画題を記せるのであれば,
この部屋は寝室にする予定であるとか,
この納戸には,茶道具を保管する予定であるとか等,
各部屋の機能についてもっと詳細な情報を記せたはずです.

はっきり言って,この程度の内容であれば,
実際に天主を拝見しなくても,天主の図面を見ながら十分に書けるでしょう.
そして,実際,村井貞勝が拝見した部分は限られており,
村井貞勝は天主の図面を見ながら記録を書いたのでしょう.



また,村井貞勝が「官房長官」というのはおかしいと思います.
官房長官であれば,常に信長の側にいなければならないからです.
村井貞勝は特別な存在ではなく重臣の中の一人にすぎないでしょう.


タイトルRe: 「村井貞勝の記録について」への返事
記事No: 60 [関連記事]
投稿日: 2002/05/03(Fri) 00:11
投稿者淳也
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> 毛筆で記録しながら拝見する場合,
> 墨汁が畳や木の床に落ちたり,金碧障壁画につく可能性はかなり高いでしょう.
> 信長がそんな危険性を考慮しないと考えるのは不自然だと思います.
> 現代の美術館でさえ認めないのですから,
> 毛筆を持った人間が新築の天主内を歩き回ることを信長が認めたとは考えられません.

現代では、インクの問題の無い筆記用具が選択できますが、
当時の筆記具は、毛筆しか存在しません、
また、当時の右筆は、墨汁が畳や木の床に落ちたり、
金碧障壁画につく危険性があっても、部屋の中で文章を書いているので、
天主内でメモを取る事も、可能だったのではないでしょうか。

また現在、毛筆と言うと、
太筆に硯の墨をたくさんつけるイメージがありますが、
当時メモを取る為に使われた矢立ては、
細筆を使い、墨を、もぐさに染み込ませた状態で携帯しているので、
墨汁が垂れることは無く、
筆を落とさない限り、そう簡単に墨で汚れる事は、ないと思います。


> はっきり言って,この程度の内容であれば,
> 実際に天主を拝見しなくても,天主の図面を見ながら十分に書けるでしょう.
> そして,実際,村井貞勝が拝見した部分は限られており,
> 村井貞勝は天主の図面を見ながら記録を書いたのでしょう.

安土日記には、1階から6階まで、非常にたくさんの画題が、
記録されている事から、拝見した時の記憶によって、画題が書かれたのではなく、
何らかの記録によって、書かれていると考えられますが、
それにも係らず、画題の記録の中に「ろとうひんと申仙人杖なけ捨てたる所」
という、仙人についての、基本的な理解がなっていない部分が見られます。

画題まで書きこまれた、天主の図面から、記録を書いた場合、
このような表現には、なるはずも無いので、
この部分から、安土日記の記録は、仙人についての知識が無い人物が、
拝見した時に、説明を誤解して書いたメモを元に書かれた記録だと思います。


タイトルRe^2: 「村井貞勝の記録について」への返事
記事No: 61 [関連記事]
投稿日: 2002/05/11(Sat) 22:00
投稿者森嶋

> 現代では、インクの問題の無い筆記用具が選択できますが、
> 当時の筆記具は、毛筆しか存在しません、
> また、当時の右筆は、墨汁が畳や木の床に落ちたり、
> 金碧障壁画につく危険性があっても、部屋の中で文章を書いているので、
> 天主内でメモを取る事も、可能だったのではないでしょうか。
>
> また現在、毛筆と言うと、
> 太筆に硯の墨をたくさんつけるイメージがありますが、
> 当時メモを取る為に使われた矢立ては、
> 細筆を使い、墨を、もぐさに染み込ませた状態で携帯しているので、
> 墨汁が垂れることは無く、
> 筆を落とさない限り、そう簡単に墨で汚れる事は、ないと思います。

右筆は机の上で文章を書いていたので,
墨が畳や壁につく危険性はかなり低いはずです.
また,危険性があっても,仕事のために書かざるを得ないという理由があります.
しかし,信長がまだ住んでもいない新築の建物で,
危険をおかしてまでメモをとる必要がどこにあるのでしょうか.
私が信長なら「後で図面を見せるから毛筆を持って天主内をうろうろするな」と言います.



> 安土日記には、1階から6階まで、非常にたくさんの画題が、
> 記録されている事から、拝見した時の記憶によって、画題が書かれたのではなく、
> 何らかの記録によって、書かれていると考えられますが、
> それにも係らず、画題の記録の中に「ろうとびんと申仙人杖なけ捨てたる所」
> という、仙人についての、基本的な理解がなっていない部分が見られます。
>
> 画題まで書きこまれた、天主の図面から、記録を書いた場合、
> このような表現には、なるはずも無いので、
> この部分から、安土日記の記録は、仙人についての知識が無い人物が、
> 拝見した時に、説明を誤解して書いたメモを元に書かれた記録だと思います。

朝廷との交渉役になるくらいですから,
記録の作者である村井貞勝は大変な教養人だったはずです.
画題の故事について当然知っていたでしょうから,説明を誤解したとは考えられません.

「仙人についての知識が無い人物」とは,
図面を書いた建築関係者こそふさわしいのではないでしょうか.
つまり,記録の基になっている図面で部屋の画題が
「ろうとびんと申仙人杖なけ捨てたる所」となっていたのではないでしょうか.


タイトルRe^3: 「村井貞勝の記録について」への返事
記事No: 65 [関連記事]
投稿日: 2002/05/12(Sun) 22:47
投稿者淳也
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> 「仙人についての知識が無い人物」とは,
> 図面を書いた建築関係者こそふさわしいのではないでしょうか.
> つまり,記録の基になっている図面で部屋の画題が
> 「ろとうひんと申仙人杖なけ捨てたる所」となっていたのではないでしょうか.

呂洞賓の持ち道具は宝剣であり、杖を持っているのは、李鉄拐なので、
仙人についての知識があれば、「ろとうひんと申仙人杖なけ捨てたる所」
という表現がされる筈も無く、
仙人についての知識が無ければ、「ろとうひん」と言う名前を出せずに、
単に、「仙人の杖なけ捨てたる所」と書かれる筈なので、
この部分の変わった表現は、
仙人についての知識の無い人が、「仙人の杖なけ捨てたる所」の書かれた絵について、
この絵は何の絵でしょうか?と、聞いたのを、
案内人が、近くに書かれていた「ろとうひん」の絵について聞かれた物と誤解して、
「ろとうひん」と申す仙人です。と答えたのを、そのままメモしたために、
「ろとうひんと申仙人杖なけ捨てたる所」という、
普通考えると有り得ない、変わった表現になったと考えられます。

つまり、この部分から、安土日記は、仙人についての知識の無い人が、
案内人に、実際の天主の中を、歩きながら説明してもらった記録と考えられます、

メモを取ったかどうかは、記憶力の問題なので、
メモを取らなかった可能性も考えられますが、
拝見記録と考えなければ、この部分の表現は、
説明できないのでは、ないでしょうか?


タイトルRe: 「村井貞勝の記録について」への返事
記事No: 64 [関連記事]
投稿日: 2002/05/12(Sun) 11:06
投稿者T.m
URLhttp://resq.to/fun/azuchi/

まあ確かに、「記録」が貞勝自身のものか、貞勝が入手したものか、
一考の余地はあります。

『安土日記』後半の詩文は貞勝自身のものかも知れず、
大半を占める天主の説明は、大工の提供したものかも知れませんね。

それと、牛一もなかなかの勉強家であり、「記録」の改竄(修正)も
行ったことが、後半の詩文の変更から窺えるのではないでしょうか。