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タイトル素朴な疑問
記事No: 2 [関連記事]
投稿日: 2002/02/02(Sat) 21:43
投稿者T.m

どうも、T.mです。

自分の復元案については、立面を提示できる状況となり、
資料の整理と編集を鋭意、進めています。

さて『指図』否定派として、最近の遺構調査の結果を踏まえ
ての疑問なのですが、「吹き抜け」の記録の有無以前に、
不等辺多角形の天主台そのままの平面に建てる必然性があったのか、
と言う点です。

城址からは、高床の建物(本丸御殿)や懸け造りの建物(南側の多聞櫓)、
石垣をまたぐ建物(北門虎口付近)の存在した痕跡が確認されています。

とすれば、天主もまたそれらに類した構造を以って矩形の平面で
あってもよいハズであり、美しさや作業効率のうえでも
よかったのではないか、と思います。

つまり『指図』は、そうした知識(情報)を持たない人物が無理やり
天主台全面に当てはめた復元案だと言わざるを得ないと思うのですが、
いかが反論されますか?
もっとも、牛一自身が読み違えたのではないか、とも言えますが。


タイトル天守台の形
記事No: 3 [関連記事]
投稿日: 2002/02/02(Sat) 23:13
投稿者淳也
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

安土山の上部は、天守台石垣が構築される以前の遺構が、
本丸の下から、発掘されるなど、

何回かに分けた、大規模な土木工事の結果、
天守台の石垣が築かれているので、
矩形の天主を建てる予定で、天守台を築いた場合、
矩形の天守台を築く方が、自然だと思います。

安土城以外の例を考えても、
矩形の天守は、矩形の天守台の上に建てられ、
多角形の天守は、多角形の天守台の上に建てられていて、
また、
大抵の天守は、天守台全面を使って建てられているので、
無理やり当てはめたわけでは無いと思います。

その他にも、安土城天守台の、北辺と南辺、西南西と東北東の辺は、
それぞれ、ほぼ平行に作られているので、何らかの意図があって、
矩形を作るより技術的に難しい、平行する辺を2つ持つ不等辺多角形の
天守台が作られたと考えられるので、

天主の1階平面が、不等辺多角形でも、特におかしいとは思えません。


タイトルRe: 天守台の形
記事No: 4 [関連記事]
投稿日: 2002/02/03(Sun) 08:08
投稿者T.m

> 矩形の天主を建てる予定で、天守台を築いた場合、
> 矩形の天守台を築く方が、自然だと思います。

 天主台全面に建てることを想定していたのであれば、
 そうだと思います。

> 安土城以外の例を考えても、
> 矩形の天守は、矩形の天守台の上に建てられ、
> 多角形の天守は、多角形の天守台の上に建てられていて、

 意図的な多角形と歪みは別の次元のものとして
 考えるべきではないでしょうか。
 
 多角形の天守は岡山城天守ぐらいの事例しかなく、
 むしろ前田家と宇喜多家の関係から、
 『指図』が岡山城天守を参考に製作されたために、
 逆に安土城天主を模したとする伝承が生まれた
 のではないかとも思われます。

 自分が注目している小松城と岡山城が似ている
 と記す文献もあり、何らかの関連性を感じています。

> また、
> 大抵の天守は、天守台全面を使って建てられているので、
 
 秀吉の大坂城、家康の江戸城、蒲生氏郷の会津若松城
 の各天守は、違いますよね。
 前2城には天下人の系譜、後には信長の女婿の城という
 ことが指摘できるかと思います。


> 無理やり当てはめたわけでは無いと思います。
 
 安土城天主は「大抵の天守」ではなかったと思いますが、
 『指図』はその「大抵の天守」の認識で製作された
 のではないか、と言いたいわけです。


> その他にも、安土城天守台の、北辺と南辺、西南西と東北東の辺は、
> それぞれ、ほぼ平行に作られているので、何らかの意図があって、
> 矩形を作るより技術的に難しい、平行する辺を2つ持つ不等辺多角形の
> 天守台が作られたと考えられるので、

 元の地形を生かし、できるだけ整った形にしようとしたのだと
 思います。
 
 でも故・宮上氏も指摘しているように、天主台西側は石蔵を
 含め『指図』一階平面より一間程、引っ込んでいたようですね。
 『指図』を当初の計画案とすれば問題は無いかも知れませんが・・・・


結局、前に戻るのですが、『指図』の信憑性は、なぜ余地を取って
矩形の天主を建てるといった選択がなかったのか、という点を論理的に
実証することが出来るかどうかが、批判を退ける意味においても
重要だと思うのですが。


タイトルRe^2: 天守台の形
記事No: 5 [関連記事]
投稿日: 2002/02/03(Sun) 23:37
投稿者淳也
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

矩形の天守が、矩形の天守台に建てられる原則は、
どこの城でも踏襲されていて、

>  秀吉の大坂城、家康の江戸城、蒲生氏郷の会津若松城

これらの、天守台全面を使っていない天守でも、
矩形の天守台上に、矩形の天守が立っていた、と考えられています。

特に安土城では、外側と共に、内側の石倉も多角形に作られているので、
矩形の天守が建てられていた、と推測するのは、
少し無理があるのではないかと思います。

>  でも故・宮上氏も指摘しているように、天主台西側は石蔵を
>  含め『指図』一階平面より一間程、引っ込んでいたようですね。

この件は、宮上氏が、内藤説を元にして、指図を理解しているために起っている事で、
天守台の高さを、内藤説の13.5尺ではなく、石倉地上5.5尺にして、
石倉の階が、半地下になっていると仮定すれば、
外側石垣のズレは2尺以内に収まり、単純に施工誤差と考えられ、
内側石垣は、図面を書き写した人が、宮上氏と同じ様に、
石垣内部に柱が立つはずが無いと考え、書きなおしたと考えられるので、
『指図』を、計画図だと考えた方が、説明しやすいと思います。

> 結局、前に戻るのですが、『指図』の信憑性は、なぜ余地を取って
> 矩形の天主を建てるといった選択がなかったのか、という点を論理的に
> 実証することが出来るかどうかが、批判を退ける意味においても
> 重要だと思うのですが。

この点については、内外共に多角形の天守台の上に、変形した余地を取って
矩形の天主を復元することの根拠は何なのか、常々疑問におもっています。


タイトルRe^3: 天守台の形
記事No: 6 [関連記事]
投稿日: 2002/02/04(Mon) 09:38
投稿者T.m

> 矩形の天守が、矩形の天守台に建てられる原則は、
> どこの城でも踏襲されていて、

むしろ矩形に建てるのが常套であり、岡山城天守は特異な例で
あったとみるべきで、安土城を意識したものではなく、
地形の妙を生かした意匠であったのではないでしょうか。

> 特に安土城では、外側と共に、内側の石倉も多角形に作られているので、
> 矩形の天守が建てられていた、と推測するのは、
> 少し無理があるのではないかと思います。

不等辺多角形の平面は山頂を集約した形と理解しています。

内外ともに多角形なのは、外周を優先して石蔵周囲に
ほぼ均等に石塁を構築した結果ではないでしょうか。  

> この点については、内外共に多角形の天守台の上に、変形した余地を取って
> 矩形の天主を復元することの根拠は何なのか、常々疑問におもっています。

そもそも当然のように天主台と呼んでいますが、
本質は「真の本丸」=「天主構え」であり、その曲輪内、
そして石蔵の上に天主を建てたのであり、建物の形状には
直結しないものと認識しています。

天主台は、まず《天主の基本設計》ありきではなく
「天主」という《存在》を前提として造営され、
天主はそれに合わせて設計されたのではないでしょうか。


一方で『指図』否定という主張には反しますが、
従来から一部に言われていることですが、『指図』について
好意的に考えると、かなり後代の手が加えられているものの、
信長の希望が取りいれられた当初の試案であり、その《覚え》の図を
右平が「指図」として清書したもので、他の記録との齟齬が
少なくないことから、その案は実行されず、それをベースに
かなり常識的な形にまとめられて建てられたと、考えることは
できませんか?

小松城の本丸御櫓や大洲城天守の《吹き抜け》の発想を
そこに求めたい、という希望もあるので・・・・・・・


タイトルRe^4: 天守台の形
記事No: 7 [関連記事]
投稿日: 2002/02/04(Mon) 23:40
投稿者淳也
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

> 一方で『指図』否定という主張には反しますが、
> 従来から一部に言われていることですが、『指図』について
> 好意的に考えると、かなり後代の手が加えられているものの、
> 信長の希望が取りいれられた当初の試案であり、その《覚え》の図を
> 右平が「指図」として清書したもので、他の記録との齟齬が
> 少なくないことから、その案は実行されず、それをベースに
> かなり常識的な形にまとめられて建てられたと、考えることは
> できませんか?
>
> 小松城の本丸御櫓や大洲城天守の《吹き抜け》の発想を
> そこに求めたい、という希望もあるので・・・・・・・

これらについては、証拠もないことなので、
何ともいえないのですが、
「指図」の建築構造は、三間四面という融通のきかない部分が基本になっているので、
「指図」の「三間四面」で計画されたプランを、そのまま縮小して、
一般的な城郭の「六間取り」や、「母屋庇」構造に変更するのは不可能です。

また、他の記録との齟齬と言っても、他の記録に書かれていない物が「指図」に書かれている、という事に過ぎません。
この違いは、安土日記系の資料から「指図」が派生したのなら大問題なのですが、
安土日記と「指図」が、別系統で編集された資料であれば当たり前の事なので、
当初の試案とする証拠には、ならないと思います。

> かなり常識的な形にまとめられて建てられたと、考えることは
> できませんか?

城郭建築の、常識的な形というのは、どういう物でしょうか?

江戸時代に入ると、幕府の関係する天守建築の傾向は似て来ますが、
安土城築城当時に、天守建築の常識的な形があるとは思えません。

八角の段という特異な形が、安土城にのみ作られた事を考えれば、
安土城が、固有の構造で作られていても、おかしくはないと思います。


タイトルRe^5: 天守台の形
記事No: 8 [関連記事]
投稿日: 2002/02/05(Tue) 08:34
投稿者T.m

> 「指図」の建築構造は、三間四面という融通のきかない部分が基本になっているので、

すいません「三間」の部分がいまいち理解不能です。
吹き抜けの部分を指すのであれば、桁行の長さとして「六間」
ではないでしょうか?
実寸「二ケン」を「一ケン」に見たてた表現ですか?


> 「指図」の「三間四面」で計画されたプランを、そのまま縮小して、
> 一般的な城郭の「六間取り」や、「母屋庇」構造に変更するのは不可能です。

すぐに思い浮かぶ「六間取り」の例は、姫路城ぐらいしかないのですが。
母屋の規模は「六ケンに九ケン」ですが、南半分の柱間は「一ケン半」となって
いるので「四ケンに六ケン」とも言え、『指図』の吹き抜けに一致するのは
偶然でしょうか?


> 城郭建築の、常識的な形というのは、どういう物でしょうか?
>
> 江戸時代に入ると、幕府の関係する天守建築の傾向は似て来ますが、
> 安土城築城当時に、天守建築の常識的な形があるとは思えません。

「常識的な形」とは「おとなしい形」の意であり、必ずしも
城郭建築を限定するものではなく、またそれが確立していたとも
考えていません。
しいていえば、「望楼型」でしょうか。


> 八角の段という特異な形が、安土城にのみ作られた事を考えれば、
> 安土城が、固有の構造で作られていても、おかしくはないと思います。

八角の段については、構造自体に目新しさがあるわけではなく、
意匠の《奇抜さ》の範囲ではないでしょうか。

塔屋部は、不遜なまでに信長の政体理念が具現化されたもので
あったためその後に継承されなかったのだと思います。


タイトル天守台の形
記事No: 82 [関連記事]
投稿日: 2002/11/17(Sun) 11:10
投稿者yamamoto

どうも滋賀県からアクセスしてます
天主台の形についてですが
だいぶん以前に初期(昭和初期)の天主台の発掘にあたった方と
天主台の復元工事にあたった方の取材記事を読んだ事があります。
それによると当時の天主台の様子は、現在の状況とは全く異なり
天主台自体が小山の様になっており木々が生い茂り、本当に此処に天主台が有るのかといった状況だったそうです。発掘が進むにつれ、現在の石蔵や
周辺に天主台を構成していた石垣や瓦礫が埋もれていたそうです。
また、天主台を現在の様に復元した方は、崩壊がひどく、積んではみたが
果たして正確(不等八角形の事ではない)であったかどうかは、自信が無いと
語っておられました。私が一つ気になるのは、現在の天主台に行かれた
方ならご覧になられていると思いますが、そこに建っている説明書には
天主台の上には石蔵を囲むように更に石垣が積んであったと記されています
この石垣の性質はどの様なものだったのでしょうか?
私も各地の城郭をみて天主台に登ってみますが、石蔵のある天主台は
結構ありますが、このように石蔵を囲む様に石垣が更に積んであるもの
って有るのでしょうかね。
数年前にあった天主台の発掘調査の説明会では、天主台の最上部の発掘は
行わないとの事でしたので、もう一度、天主台自体を解体調査をしてみれば
新たな発見があるかも知れませんね。


タイトルRe: 天守台の形
記事No: 83 [関連記事]
投稿日: 2002/11/17(Sun) 17:58
投稿者T.m

> また、天主台を現在の様に復元した方は、崩壊がひどく、積んではみたが
> 果たして正確(不等八角形の事ではない)であったかどうかは、自信が無いと
> 語っておられました。

上記の発言を曲解して改変を主張されていた御仁がおられましたが、
最近の発掘調査により、当初より不等八角形であったことが確認
されたようです。

> 私が一つ気になるのは、現在の天主台に行かれた
> 方ならご覧になられていると思いますが、そこに建っている説明書には
> 天主台の上には石蔵を囲むように更に石垣が積んであったと記されています
> この石垣の性質はどの様なものだったのでしょうか?

たしか、以前の発掘調査のおり、仮設的に積まれたものであったハズです。


タイトルRe: 天守台の形
記事No: 84 [関連記事]
投稿日: 2002/11/18(Mon) 00:01
投稿者
URLhttp://asitaka.s4.xrea.com/az1/index.htm

こんにちは、静岡県からアクセスしてます。

> 現在の天主台に行かれた
> 方ならご覧になられていると思いますが、そこに建っている説明書には
> 天主台の上には石蔵を囲むように更に石垣が積んであったと記されています
> この石垣の性質はどの様なものだったのでしょうか?

私は、安土城には行った事が無いので、説明書を読んだ事がないのですが、

発掘調査報告書によると、現在、天主台内部の、石倉の南側石垣の外側に、
石蔵を囲むように積まれている低い石垣のうち、東側の2Mほどが
元からあった石垣で、それ以外の部分は、昭和の発掘調査の時に、
石垣の崩壊防止の為に積まれた物だそうです。

つまり、安土城天主台の、少なくとも東側の2Mほどは、
石蔵を囲むように更に石垣が積んであった、という事で、

内藤説では、本丸御殿と天主をつなぐ階段と、それを支える
梁を、1階の床下に納める為に、天主台のうち、
この部分にだけ作られたものと考えている様です。

宮上説では、不等辺の天主台の上に、低い石垣が矩形に積まれて、
その上に天主が建てられていた、と考えているので、
もともと、天主台全体にわたって作られていたものが、
かろうじて残った部分、と考えている様です。


> 私も各地の城郭をみて天主台に登ってみますが、石蔵のある天主台は
> 結構ありますが、このように石蔵を囲む様に石垣が更に積んであるもの
> って有るのでしょうかね。

宮上氏によると、中井家所蔵の本丸図に書かれる、秀吉の大坂城の天守台に、
石蔵を囲む様に石垣が更に積んである部分があるそうです。が、
それ以外の類例は、ないのではないでしょうか?

> 数年前にあった天主台の発掘調査の説明会では、天主台の最上部の発掘は
> 行わないとの事でしたので、もう一度、天主台自体を解体調査をしてみれば
> 新たな発見があるかも知れませんね。

たぶん、滋賀県では、天主台の最上部は崩壊していて、
当初の地面は残っていない、と判断して、
発掘調査をしないのではないかと思われるのですが、
掘ってみなければ、本当の所はわかりませんよね。

私は、天守指図から考えて、北側の天主台の上には、倉の基礎部分が、
崩壊せずに残っているのではないか、と思っています。


タイトルRe^2: 天守台の形
記事No: 91 [関連記事]
投稿日: 2002/11/19(Tue) 22:34
投稿者yamamoto

> 内藤説では、本丸御殿と天主をつなぐ階段と、それを支える
> 梁を、1階の床下に納める為に、天主台のうち、
> この部分にだけ作られたものと考えている様です。
どうもyamamotoです。
天守閣と本丸御殿は建物でつながっていた事についてですが
発掘調査の結果、確かに本丸御殿は天主取付台と呼ばれる
天主台より一段低い郭の石垣の目いっぱい際まで建っていた
様です。また、天主取付台と三の丸と呼ばれる石垣の上には
現在で見る他の城の本丸の様に、例えば土塀で囲まれた空間では
無く多聞櫓のような大型の長屋型の建物が本丸御殿をぐるっと囲む
様に建てられていた様です。つまり、家臣団や一般人は
二の丸を通って本丸御殿のそばを通って天守閣に到るという状況ではなく
三の丸と呼ばれている郭から建物を通ってしか天守閣に
行けなっかたのでは無いかと思っています。本丸御殿が、秀吉が造った
慶長期の京都御所のものと全く同じ形である事から、初めから
天皇行幸を目的としたものであって、他の城郭の御殿とは違った
性質のものです。近年に描かれた安土屏風では、本丸御殿と天守閣が
直接、屋根つきの階段でつながった絵を見ますが
上記の様に、多聞櫓のような建物をいくつか通らなければ
本丸御殿から天守閣に行けなかったと言う事を指しているのではないかと
思っています。
また、本丸から天主取付台の間に階段が現在ありますが
築城当時からあったものか、後世に利便的に改修されたものかを
聞くのを忘れましたので、この次の現地説明会で聞いときます。