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タイトル牛一の作為
記事No: 115 [関連記事]
投稿日: 2002/12/30(Mon) 09:20
投稿者T.m

実は以前、『安土日記』(内閣文庫写本)と『信長(公)記』とを比較して
みたことがあるのですが、恩賞の金種や金額が水増し(銀子→金子、
十枚→百枚)されていました。
以前より、池田本では池田氏関連の記事が捏造に近い形で挿入されている
ことも指摘されていまし、現地にも記録が残っていないような、明らかに
創作された記事のあることも指摘できます。

そして最近、自分が注目しているのが、一時期、信長と信忠の間にかなり
深刻な対立が存在していたらしいということであり(それを裏付ける史料も
多々在り例『当代記』)、他にもどうやら、牛一は信長にとって不名誉な
事柄については色々と口を噤んでもいるようなのです。

『信長(公)記』は、牛一自身が述べているような「嘘や偽りの無い」、
小瀬甫庵が述べている「素朴」なものでも無いようなのです。

そうした事実を考えると、「貞勝の記録」から「 安土(山)御天主之次第 」への
改変が“自らの拝見記”の如き体裁に改められているように、その内容に
おいても天主をより立派に見せよう、自分の博識を他者に認めてもらおう、
という信長贔屓や自らの博識をひけらかすような売名行為に近いものが
潜在しているものと言えるでしょう。

つまり、「 安土(山)御天主之次第 」に“より一致”することは、“より真実に近い”のではなく、
むしろ“牛一の作為”に影響を受けたものである可能性を秘めているのです。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 116 [関連記事]
投稿日: 2002/12/31(Tue) 08:13
投稿者森嶋

> 『信長(公)記』は、牛一自身が述べているような「嘘や偽りの無い」、
> 小瀬甫庵が述べている「素朴」なものでも無いようなのです。
>
> そうした事実を考えると、「貞勝の記録」から「 安土(山)御天主之次第 」への
> 改変が“自らの拝見記”の如き体裁に改められているように、その内容に
> おいても天主をより立派に見せよう、自分の博識を他者に認めてもらおう、
> という信長贔屓や自らの博識をひけらかすような売名行為に近いものが
> 潜在しているものと言えるでしょう。
>
> つまり、「 安土(山)御天主之次第 」に“より一致”することは、“より真実に近い”のではなく、
> むしろ“牛一の作為”に影響を受けたものである可能性を秘めているのです。


T.mさんと同様な主張は,故宮上氏もされていましたが,
この主張に私も賛成します.

牛一は安土城天主について,
信頼性の低い資料も十分に検討することなしに使用しているようです.
それ故,牛一の記録を解釈する場合,細心の注意を払うべきです.

その典型が,
天主内の障壁画がある座敷の柱などは全て黒漆を塗られていた,
という内藤説だと考えます.

安土城の復元CGでは,本丸御殿は白木です.
これは,当時の御殿の装飾に関する研究に基づいているのでしょう.
私は,復元CGより本丸御殿はもっと豪華に装飾されていたと思いますが,
それはともかく,
誰が見ても天主内の座敷は本丸御殿よりも豪華だと感じるでしょう.

しかし,実際にこの二つの建物を見たフロイスによると,
本丸御殿のほうが(フロイスが見た)天主内の座敷より豪華だったようです.
したがって,天主内の座敷の柱などが黒漆で塗られていたという内藤説は
間違いである可能性がきわめて高いことになります.
私は当時の御殿の装飾様式から考えても,
天主内の座敷の柱などが黒漆で塗られていたという内藤説は間違いであり,
天主内の座敷は本丸御殿と同じく白木であったと考えます.



また,私は安土城天主三階に能舞台となるような部屋があったと考えていますが,
『信長記』に総見寺で信長と家康が能を鑑賞したという記録があることから,
安土城主郭部に能のための施設はなかった,という主張があります.
これは,大手道に関する記録が文献にないので,
大手道は信長存命中に存在しなかった,と主張しているようなものだと思います.
「○○は存在しないと文献に書かれている」のであればともかく,
「文献にないから存在しなかった」とは決して言えないと私は考えます.


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 119 [関連記事]
投稿日: 2002/12/31(Tue) 21:02
投稿者淳也

> > つまり、「 安土(山)御天主之次第 」に“より一致”することは、“より真実に近い”のではなく、
> > むしろ“牛一の作為”に影響を受けたものである可能性を秘めているのです。

信長記に書かれる3階の柱数は93本で、
天守指図において書かれる、天主3階の柱数は76本。

東側に並ぶ座敷の柱から考えて、岩の間と竜虎の間の、
間に、1本柱があったと考えて、合計77本。

「かうらん角きほうし」と書かれた部分の、高欄と思われる線上の、
角の部分にある、どう考えても「指図」作者は、
擬宝珠のつもりで画いたと思われる、小さい黒丸を柱数に入れ、
擬宝珠であれば、高欄の相対する位置にも当然作られたと仮定して、
推測される擬宝珠の合計が16本。

柱と擬宝珠を合計して、信長記の記述と同じ93本になるのですから、
「天守指図」の成立が先で、
「指図」に影響されて、「 安土(山)御天主之次第 」
の3階の柱数が書かれたと、考えられます。

宮上説のように、「信長記」に影響されて「天主指図」が成立したとすると、
池上右平は、柱数の中に、なぜか擬宝珠も含めて計画して、
更に擬宝珠を4つ書き忘れたことになるのですが、
これって、あまりに不自然なのでは、ないでしょうか?。


> 天主内の座敷の柱などが黒漆で塗られていたという内藤説は間違いであり,
> 天主内の座敷は本丸御殿と同じく白木であったと考えます.

安土日記に書かれる、「御殿主ハ七重、悉黒漆也」
と言う記事は、間違いなのでしょうか?


> また,私は安土城天主三階に能舞台となるような部屋があったと考えていますが,

天主3階の能舞台は、宮上氏がそう言っているだけで、
根拠となる資料は、信憑性の如何を問わず、全く無く、
能舞台が無ければならない理由も、宮上氏は説明していないので、
この件については、否定も肯定もしませんが、

森嶋さんは、どのような理由から、3階に能舞台があったと
考えておられるのでしょうか?


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 121 [関連記事]
投稿日: 2003/01/01(Wed) 08:00
投稿者T.m

> 「天守指図」の成立が先で、
> 「指図」に影響されて、「 安土(山)御天主之次第 」
> の3階の柱数が書かれたと、考えられます。
「柱数」だけに限って言えば、そうした主張も出来るかと思います。
しかしながらその場合、『指図』に有って『御天主之次第 』に無い
多くのもの(例えば、吹きぬけ関連)の説明が、『安土日記』の追記との
関連を含め、合理的にも為さらねばならないでしょう。

従来、内籐氏によって為されているものは、あくまでも「貞勝の記録」
との関係において成立?しうるものであり、牛一の『御天主之次第 』
への改変において適用することには、かなり苦しいものがあるやに
思います。

『指図』と『安土日記』が同じ加賀藩内に伝わったもの、言わば「家伝」
のようなものであるという関係にあり、犯罪捜査における身内のアリバイ
証明との関係にも似ており、『安土日記』の記述を踏まえ『指図』が作成
されたと考えた方が自然でしょう。
そして、余りの荒唐無稽さゆえに藩の文庫に納められなかったものと
考えます。

池上右平の立場の悪化も見過ごせない事実であり、『指図』が影響
したか、逆に、それをもって藩主・綱紀の気を引いて復権を図ったもの
と見ます。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 124 [関連記事]
投稿日: 2003/01/04(Sat) 20:45
投稿者淳也

> 「柱数」だけに限って言えば、そうした主張も出来るかと思います。
> しかしながらその場合、『指図』に有って『御天主之次第 』に無い
> 多くのもの(例えば、吹きぬけ関連)の説明が、『安土日記』の追記との
> 関連を含め、合理的にも為さらねばならないでしょう。

「かうらん角きほうし」と、注意書きが書かれながら、
擬宝珠と柱の区別すらつけられない人物が、
図面を見て、吹き抜けや、舞台・橋、部屋の正確な大きさ、
などを読み取れたとは、到底考えられないので、
合理的に説明できなくても、特に問題ないと思います。

その他に、一見してわかる例としては、
地階の宝塔が上げられると思います。
宮上氏が、この物体を、「置き灯篭らしき物」と言っている様に、
置き灯篭と見る事は可能であるばかりではなく、
宝塔と、灯篭では、灯篭の方が一般に目にする機会がはるかに多いので、

この物体を、置き灯篭と見た為に、
安土日記に「つらせられ」と書かれた灯篭の記事が、
信長記では「をかせられ」に書き換えられたのではないでしょうか。

森俊弘さんは、つらせられ(釣)⇒を、かせられ(架)⇒をかせ、られ(置)
と、書写の際の、読み取りの変化で、この件を説明しておりますが、

私の手元にある、
新人物往来社版の信長公記、桑田忠親/校注 と、
角川書店版の信長公記、奥野高広・岩沢愿彦/校注 では、文の中に、
釣り下げるという意味で、「かせられ」と表現された部分は無いので、
太田牛一は、釣り下げる表現に「かせられ」とは使わなかったと考えられます。

この部分は、「指図」に画かれた物体を、置き灯篭と見た為に、
「つらせられ」を「をかせられ」に書き換えた、
つまり、「指図」に影響されて、「 安土(山)御天主之次第 」
が書かれたと考えられる、と思います。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 125 [関連記事]
投稿日: 2003/01/05(Sun) 02:15
投稿者T.m

失礼ながら、淳也さんの主張からすれば牛一は安土城天主を全く
見ていない、という事になるのでしょうか。
しかしながら、信長は実に多くの人物に天主を拝見させており、
牛一もまた天主をちゃんと見ていたと思います。

天正10年の正月には、御馬廻や甲賀衆などにも「御幸の間」を
拝見させていますが、まさにその中に牛一も雑じっていたものと
思います。『信長記』のその描写には感想が交えられており、
まさに牛一自身の「拝見記」と言えましょう。
それと「貞勝の記録」とを比較すれば、自ずとその性格の違いも
判るのではないでしょうか。

当人の『信長記』を含め、信長に仕えていてた時代の牛一の
動向には不明点が多いものの、実際は、天正2年の「賀茂競馬」の
奉行を務めていたように、官僚としてもそこそこには活躍していた
ようです。

自分はどうも、秀吉に大村由巳がいたように、いつの頃からか
牛一は信長からその事績を綴ることを命じられ、自己の存在を
消してまで、その記録に勤しんでいたのではないかとみています。

そんな牛一にしてみれば、自分に天主の記録を撮ることが命じられ
なかったことには内心熟知たるものが在ったに相違無く、それゆえ
「貞勝の記録」に加筆してまで自身の「拝見記」の如く改めたのでは
ないでしょうか。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 126 [関連記事]
投稿日: 2003/01/05(Sun) 20:58
投稿者淳也

> しかしながら、信長は実に多くの人物に天主を拝見させており、

多くの人物に、天主を見せたというのは、
現在では定説になっていますが、実際にはどうでしょうか?

安土日記には、
村井貞勝ほどの重役であっても「忝御殿主をミせさせられ候」
と、表現されている事から、安土城天主は、
特別の人が、特別の機会にのみ入ることが出来た建物だと思います。

天正10年の正月にも、階道を上り、南殿・江雲寺御殿、御幸の間、
を見たと書かれるのみで、天主を見たとは書かれていません。

また、
安土城の前に信長が住んでいた、岐阜城を訪れたフロイスが、
「信長の慣例と習慣とに従って、この屋形に足を踏み入れる者は、
一人もありません。(中略)いっしょに中に入った大身たちにとって、
この屋形を見たのは、これが初めての事でした。」
とか、
「ごく少数の人々にだけ、信長は城に登ることを許しています。」
などと書かれているのですから、

安土城においても同じ事で、
特に天主は、特別の人が、特別の機会にのみ入ることが出来る、
現在の感覚では、皇居の宮殿のような建物だったのでは無いでしょうか。

太田牛一が、信長政権の官僚として活躍していたとしても、
現在の官僚が、宮殿内部を見る機会がほとんど無いのと同じ事で、
天主内部を見れなくても特に不思議はありません。

そもそも、天正10年の正月に、その年の5月に、
徳川家康の饗応が行われる事になる、江雲寺御殿を
御馬廻や甲賀衆に、見せた事が記事になるくらいですから、
江雲寺御殿であっても、御馬廻や甲賀衆にとっては、
特別の機会にしか拝見できない建物だったと考えられるので、
天主を、そう簡単に拝見できたとは思えません。

信長は実に多くの人物に天主を拝見させたという、
現在の定説は、証拠に基づかない、
単なる思いこみだと思います。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 127 [関連記事]
投稿日: 2003/01/06(Mon) 01:01
投稿者T.m

> 信長は実に多くの人物に天主を拝見させたという、
> 現在の定説は、証拠に基づかない、
> 単なる思いこみだと思います。

いいえ、『信長公記』にもそうしたことが記されており、
津田宗及に至っては、丸一日、天主の中にいたことをその
日記に記しています。

信長にとって安土城天主は、内外共に見せるための建築で
あったと断言しても良いでしょう。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 129 [関連記事]
投稿日: 2003/01/07(Tue) 00:44
投稿者淳也

> いいえ、『信長公記』にもそうしたことが記されており、

T.m さんが、「そうしたこと」と表現している様に、
天主を見せたのではないか、と解釈されている、と言うだけで、
天主を見せたという記事は、書かれていないと思います。

> 津田宗及に至っては、丸一日、天主の中にいたことをその

津田宗及は、豪商で茶人でもあり、
堺の会合衆、天王寺屋の人間なのですから、
現在で言うところの、経団連の会長クラスの人ではないでしょうか?
津田宗及が見たことをもって、広く一般に天主を見せたと言うのは、
少し無理があると思います。

> 信長にとって安土城天主は、内外共に見せるための建築で
> あったと断言しても良いでしょう。

私は別に、安土城天主は、内外共に見せるための建築であった事を、
否定している訳ではなく、信長に許された特別の人が、
特別の機会にのみ拝見することが出来た。
つまり、一般人に見せる為の建築では無いという事です。

信長記の作者の太田牛一が、自分の体験としての
拝見記を書いていない事も、太田牛一クラスでは、
天主の拝見を許可されなかったからではないでしょうか。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 130 [関連記事]
投稿日: 2003/01/07(Tue) 03:13
投稿者T.m

> T.m さんが、「そうしたこと」と表現している様に、
> 天主を見せたのではないか、と解釈されている、と言うだけで、
> 天主を見せたという記事は、書かれていないと思います。

『信長公記』巻十二(天正七年)
七月廿六日、石田主計、前田薩摩両人召し寄せられ、堀久太郎所にて
御振舞仰付けられ候。相伴は南部宮内小輔なり。御天主見物仕候て、
か様に御結構の様、古今承り及ばず、生前の思出忝きの由候キ。

牛一が記録しているのはこの一件だけのようですが、実際には
津田宗及は度々、天主に登っており、イエズス会の宣教師達も
見物しているように、他にも天主を見物した人物は多くいたハズ
です。

> 私は別に、安土城天主は、内外共に見せるための建築であった事を、
> 否定している訳ではなく、信長に許された特別の人が、
> 特別の機会にのみ拝見することが出来た。
> つまり、一般人に見せる為の建築では無いという事です。
そしてなによりも、前述の堀久太郎(秀政)や楠木長諳など、
信長の側近は確実に天主に度々立入っていたハズであり、
彼らは天主の焼失後もかなり長い年月生存しており、
もし安土城天主が後にも先にも見られない特異な構造を
もっていたなら、その彼らから牛一も情報を得られたのではないでしょうか。
他にも武井夕庵や長谷川宗仁など、天主を見た人物は多くいたでしょう。

> 信長記の作者の太田牛一が、自分の体験としての
> 拝見記を書いていない事も、

むしろ自分は、牛一が自らの存在を消してまで信長の“私設秘書”に
徹していた姿勢と見ます。
牛一のいう「日記」も個人的なものではなく、言わば信長版『お湯殿の上日記』
のようなものであったのではないでしょうか。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 131 [関連記事]
投稿日: 2003/01/07(Tue) 21:33
投稿者淳也

> 『信長公記』巻十二(天正七年)
> 七月廿六日、石田主計、前田薩摩両人召し寄せられ、堀久太郎所にて
> 御振舞仰付けられ候。相伴は南部宮内小輔なり。御天主見物仕候て、
> か様に御結構の様、古今承り及ばず、生前の思出忝きの由候キ。
>
> 牛一が記録しているのはこの一件だけのようですが、実際には
> 津田宗及は度々、天主に登っており、イエズス会の宣教師達も
> 見物しているように、他にも天主を見物した人物は多くいたハズ
> です。

さすがに、細かい所まで良く読まれていますね、
安土宗論の件に挟まれた所なので、読み飛ばしていました。

たしかに、服膺した使者や、豪商、宣教師などは、
天主に登っていますし、信長の側近も上っているのは、
当然だと思いますが、

太田牛一が、自分の体験を元に書いたのなら、
「 安土(山)御天主之次第 」の最期に書かれる、
「抑も、当城は、深山こう々として、麓は歴々甍を並べ・・・」
のような、流麗な文章で表現されたのではないでしょうか?

他にも、体験を元に書いたと思われる、馬揃えの記事を見ても、
牛一は、少し大袈裟に文章を飾り立てる癖があったと思われるのに、
天主内部の描写は、村井貞勝の記事そのままの、少し事務的な書かれ方なので、

天主内部の詳細は、見た事が無かったので、
あまり文意を変えずに、引き写さざるを得ず、
その反動で、最後の部分の安土城の描写部分のみが、
改訂される段階で拡大していったのではないでしょうか。


>もし安土城天主が後にも先にも見られない特異な構造を
>もっていたなら、その彼らから牛一も情報を得られたのではないでしょうか。

安土城天主は、後に天守の濫觴といわれるくらい、
前代未聞の特異な建築であったにもかかわらず、
太田牛一と、宣教師の記録以外は、
「ヤウタヰ〜難暢筆也」とか、「か様に御結構の様、古今承り及ばず」なので、

資料として使える情報を得られたかどうかは、
アヤシイものだと思います。

特に、吹き抜けに付いては、宮上氏も「日本建築史上、他に例の無い」
と言っているように、前例の無い建築構造であり、
その、前例の無いものを表す「吹き抜け」と言う名称が、
当時既に有ったはずも無く、名前がない物は表現し難いので、
伝わらなかったのではないでしょうか。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 132 [関連記事]
投稿日: 2003/01/08(Wed) 07:04
投稿者T.m

> たしかに、服膺した使者や、豪商、宣教師などは、
> 天主に登っていますし、信長の側近も上っているのは、
> 当然だと思いますが、
そもそも、『信長(公)記』が読み手に想定していたのは
牛一本人であるとともに、そうした彼らでもあったことが
重要であると思うのです。

> 太田牛一が、自分の体験を元に書いたのなら、
> 「 安土(山)御天主之次第 」の最期に書かれる、
> 「抑も、当城は、深山こう々として、麓は歴々甍を並べ・・・」
> のような、流麗な文章で表現されたのではないでしょうか?
まさに、牛一のそのような文芸的才能が信長に認められ“個人秘書”に
採用されたものであり、事績的存在感の希薄さはそれに徹した故と見ます。

> 天主内部の詳細は、見た事が無かったので、
> あまり文意を変えずに、引き写さざるを得ず、
> その反動で、最後の部分の安土城の描写部分のみが、
> 改訂される段階で拡大していったのではないでしょうか。
年齢的にみても牛一は兵士としては一戦を退く時期に当っており、
かつての公務にあたるような右筆との認識は誤りであったとは思いますが、
その役割は、秀吉に仕えた晩年のそれに似て信長の女房衆や妻女の相手を
務め、その一方、信長の“公務日誌”を書き記するものであったのでは
ないかと思っています。

その彼とて自由に天主内部を歩き廻れたとは思えませんから、
「貞勝の記録」以上のものは書き記すことが出来ないのは当然であり、
その一方で、信長の事績に誰よりも精通しているという自負と評判から
そのような形になったものとみます。

牛一の加筆が、5階6階という日常生活の場から隔絶された特殊な空間に
顕著なのも、第三者から突っ込まれる心配の無いことが理由ではないでしょうか。
その点、実際の安土城天主を知る人間の居ない時代に創られた『指図』には自由裁量の余地が多く在った。そう思うのです。

> 資料として使える情報を得られたかどうかは、
> アヤシイものだと思います。
>
> 特に、吹き抜けに付いては、宮上氏も「日本建築史上、他に例の無い」
> と言っているように、前例の無い建築構造であり、
> その、前例の無いものを表す「吹き抜け」と言う名称が、
> 当時既に有ったはずも無く、名前がない物は表現し難いので、
> 伝わらなかったのではないでしょうか。
淳也さんがご主張されているように、もし牛一が『指図』を入手したうえで
「 安土(山)御天主之次第 」への改変を行ったとすれば、自身の知識は
もとより、生存する関係者にもそれを求め、より詳しいものとなっていた
ハズではないでしょうか?

つまり現段階において、『指図』から「 安土(山)御天主之次第 」へ情報の
流入を主張することは難しいのではないかと思うのです。


タイトルRe: 牛一の作為
記事No: 133 [関連記事]
投稿日: 2003/01/08(Wed) 23:18
投稿者淳也

> 牛一の加筆が、5階6階という日常生活の場から隔絶された特殊な空間に
> 顕著なのも、第三者から突っ込まれる心配の無いことが理由ではないでしょうか。

私は、安土日記の注記は、「貞勝の記録」の段階ですでに書かれていた、
つまり、貞勝が追記した、余白のメモ書きだと考えるので、

南化玄興の「安土山の記」に書かれる、恨むらくは頂きを窮め不ることを。
の様に、貞勝も6階には上れなかったので、
6階の記事は、伝聞の資料で書かれ、
貞勝の上れた最上階の5階の記事が、実際の最上階の6階の部分に、
混入した為に、加筆の部分が多いのだと思います。


> 淳也さんがご主張されているように、もし牛一が『指図』を入手したうえで
> 「 安土(山)御天主之次第 」への改変を行ったとすれば、自身の知識は
> もとより、生存する関係者にもそれを求め、より詳しいものとなっていた
> ハズではないでしょうか?

「貞勝の記録」が、手に入った事自体、
生存する関係者から、資料を収集していた証拠だと思いますが、

建築知識のない素人で、八十近くの年寄りが、
主要関係者のほとんどが死に絶えた、何年も前に焼け落ちて、
存在しない建築の記事を、より詳しい物にしようと努力した結果が、
宮上氏に、記事の改竄、根拠のない数字の偽造と言われる、

天主の階の記述を、時代に合わせて順番を逆にしたり、
柱数の中に、擬宝珠を入れて数えて、間違って記入してみたり、
天主の石倉高さに、主郭部分の総石垣高を記入
するといった事に、なったのではないでしょうか。

生存する関係者から、聞き取り調査をしたから、と言っても、
より詳しい物になるとは限らないと思います。

> つまり現段階において、『指図』から「 安土(山)御天主之次第 」へ情報の
> 流入を主張することは難しいのではないかと思うのです。

少なくとも、3階の柱数の問題は、
『指図』から「 安土(山)御天主之次第 」へ情報の流入があった、
と考えないと、説明できないのでは、ないでしょうか?