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タイトル安土城天主一階推定平面図
記事No: 102 [関連記事]
投稿日: 2002/12/26(Thu) 23:37
投稿者森嶋

おひさしぶりです.
安土城の天主の一階平面を復原してみました.
建設的な批判をいただければ幸いです.
この掲示板では図を描けないようなので,
図はT.mさんのHP http://resq.to/fun/azuchi/ に描かせてもらいました.
ただし,内部の柱の位置,部屋の仕切が壁,襖,舞良戸,
障子のいずれであったかを特定するのは意味がないと考え,していません.

1 十二畳敷 墨絵ニ 梅之御絵を被遊候 同間内 御書院有 是ニ遠寺晩鐘 景気被書
2 次四てう敷 雉の子を愛する所 御棚ニ鳩計かゝせられ
3 又十二てう敷ニ 鵝をかゝせられ 鵝の間申也
4 又其次八畳敷 唐の儒者達をかゝせられ
5 南 又十二てう敷
6 又八てう敷
7 東 十二畳敷
8 御縁六てう敷
9 次三てう敷
10 其次八てう敷 御膳を拵申所也
11 又其次八畳敷 御膳拵申所  
12 六てう敷 御南戸  
13 又六畳敷
14 北之方 御土蔵有
15 其次 御座敷 廿六畳敷御なんと也
16 西 六てう敷
17 次十七てう敷
18 又其次 十畳敷
19 同十二畳敷


各部屋の機能を説明します.

1は信長の居間(書院は省略),
19は信長の寝室,6は信長専用の納戸,

2,3は重臣との対面座敷(2の棚は省略),
4は重臣の控え室,

5は信長側近の小姓の控え室,

7は天主を警備する武士の控え室,8は縁側,

9は壁がなく上段に畳が敷かれているだけで,
門・階段室を監視する武士のための部屋と考えます.

10,11は膳の準備のための部屋,12,13は食器,膳などのための納戸です.
11の前の扉は東の台所へとつながります.
人間の動線を考えると,
東の台所から食事が10,11へ運ばれます.
11,12で信長の日常の膳の準備がなされ,
北側の廊下を通って,1,17へ膳を運びます.
10,13は天主三階で会食があるときに使われたと考えます.

14は土蔵,15は納戸,16,17,18は妻女のための部屋と考えます.

天主の規模が十二間四方と仮定すると,天主台の北側は他の側に比べて空地が大きいので,
T.mさんのアイデアを使用させていただき,北側の空地に土蔵があったと考えます.

私の復原は,階段室の採光を考慮していないという,
故宮上茂隆氏の復原案の欠点を改善するかたちで行っています.
階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.

自画自賛になりますが,
既存の復原に比べて非常にスッキリとした部屋の配置だと思います.
また,内部の採光という点でも優れていると思います.
信長が日常生活する南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子を使っています.
天主一階の狭間戸の数は,東8個,北2個の計10個です.
「人間が快適に生活する」ということを考えると,
天主一階の南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子以外ありえないと思います.

T.mさんのHPに以前発表したものと異なる点は,
天主と他の建物をつなぐ通路と9の三畳の位置です.

天主二階の「十二畳 御門之上」という表現と石垣の形状から考えて,
『天守指図』とは異なる位置に通路はあったと推定します.

9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.

また,門・階段室を監視する武士のための部屋と考えれば,
なぜ三畳という中途半端は大きさなのかについて説明できるのではないでしょうか.

実際に天主台に行ったことのある人なら解ると思いますが,
天主台の階段は大手道の階段と同様に昇りやすいものではありません.
もちろん現在の階段が信長の時代と同じであるという保証はありませんが,
信長がこの階段から天主に入ることより,
天主東側の天主取付台にあった建物から通路を上がって
天主に入ると考えたほうが自然だと思います.
天主取付台にあった建物は天主に対して「玄関・遠侍」の役割であったと考えます.

『天守指図』によると,
天主取付台の建物から台所へとつながる通路と本丸御殿に直接つながる通路があります.
位置から考えて,天主と天主取付台の建物をつなぐ通路は,
料理の運搬を主な目的とするようです.
しかし,現在の石垣の形状から考えて,
『天守指図』が指定する位置に通路があったとは考えにくいです.
また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.

天主取付台を本丸と同様に詳細に発掘調査し,
天主と建物を結ぶ通路がどこにあったのかを明確にすれば,
『天守指図』が実在の天主の指図なのか,
それとも推定復元図にすぎないのかが判明するでしょう.

主郭部の発掘調査を現在する予定はないようですが,
ぜひ天主取付台,二の丸,三の丸の詳細な発掘調査をして,
主郭部の全貌を解明して欲しいです.


タイトルRe: 安土城天主一階推定平面図
記事No: 103 [関連記事]
投稿日: 2002/12/28(Sat) 11:40
投稿者T.m

> おひさしぶりです.
本当にお久しぶりですね。
自分の現況としては、信長関連の別件に集中しており、安土城天主に
ついては小休止といったところですが、『安土日記』掲載の貞勝の
「天主記録」については、その目的が「安土山ノ記」の撰文の為の基礎資料であったのではないかとの結論に至っています。

> 安土城の天主の一階平面を復原してみました.
> 建設的な批判をいただければ幸いです.
        (中略)
> 階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
> 多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.
以前、疑問を提起させていただきましたが、そうかもしれませんね。

> 9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
> その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
> それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
> その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.
全くその通りであり、宮上氏の復元案では、「三畳」である必然性以前に、
背後の「八畳」との関係からも不自然さは否めないと思います。

> また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
> 『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
> 天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.
自分は、「天正5年の安土行幸」の噂からして、同6年の正月に公開された
御殿(江雲寺御殿?)こそが当初の「御幸御殿」であり、伝・三の丸に位置し、
天主取付台を介して天主と廊下で結ばれていたものと考えています。
増築された本丸御殿もそれにつなげられたものと思います。


ところで、森嶋さんの復元案における二階、三階の平面はどのようになって
いるのでしょうか。
採光面では、宮上のそれにも問題は在るとおもうので、是非とも
ご披露願いたいところです。


タイトル画像UP型に改造しました。再掲
記事No: 104 [関連記事]
投稿日: 2002/12/28(Sat) 17:16
投稿者HP管理人(淳也)

画像UP型に改造しました。再掲 画像サイズ: 166×200 (6kB) こんにちは、HP管理人の淳也です。

掲示板を画像UP型に改造したので、
誠に勝手ながら、
森嶋さんの記事を画像付きで再掲致します。


タイトル : 安土城天主一階推定平面図
投稿日 : 2002/12/26(Thu) 23:37
投稿者 : 森嶋

おひさしぶりです.
安土城の天主の一階平面を復原してみました.
建設的な批判をいただければ幸いです.
ただし,内部の柱の位置,部屋の仕切が壁,襖,舞良戸,
障子のいずれであったかを特定するのは意味がないと考え,していません.

1 十二畳敷 墨絵ニ 梅之御絵を被遊候 同間内 御書院有 是ニ遠寺晩鐘 景気被書
2 次四てう敷 雉の子を愛する所 御棚ニ鳩計かゝせられ
3 又十二てう敷ニ 鵝をかゝせられ 鵝の間申也
4 又其次八畳敷 唐の儒者達をかゝせられ
5 南 又十二てう敷
6 又八てう敷
7 東 十二畳敷
8 御縁六てう敷
9 次三てう敷
10 其次八てう敷 御膳を拵申所也
11 又其次八畳敷 御膳拵申所  
12 六てう敷 御南戸  
13 又六畳敷
14 北之方 御土蔵有
15 其次 御座敷 廿六畳敷御なんと也
16 西 六てう敷
17 次十七てう敷
18 又其次 十畳敷
19 同十二畳敷


各部屋の機能を説明します.

1は信長の居間(書院は省略),
19は信長の寝室,6は信長専用の納戸,

2,3は重臣との対面座敷(2の棚は省略),
4は重臣の控え室,

5は信長側近の小姓の控え室,

7は天主を警備する武士の控え室,8は縁側,

9は壁がなく上段に畳が敷かれているだけで,
門・階段室を監視する武士のための部屋と考えます.

10,11は膳の準備のための部屋,12,13は食器,膳などのための納戸です.
11の前の扉は東の台所へとつながります.
人間の動線を考えると,
東の台所から食事が10,11へ運ばれます.
11,12で信長の日常の膳の準備がなされ,
北側の廊下を通って,1,17へ膳を運びます.
10,13は天主三階で会食があるときに使われたと考えます.

14は土蔵,15は納戸,16,17,18は妻女のための部屋と考えます.

天主の規模が十二間四方と仮定すると,天主台の北側は他の側に比べて空地が大きいので,
T.mさんのアイデアを使用させていただき,北側の空地に土蔵があったと考えます.

私の復原は,階段室の採光を考慮していないという,
故宮上茂隆氏の復原案の欠点を改善するかたちで行っています.
階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.

自画自賛になりますが,
既存の復原に比べて非常にスッキリとした部屋の配置だと思います.
また,内部の採光という点でも優れていると思います.
信長が日常生活する南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子を使っています.
天主一階の狭間戸の数は,東8個,北2個の計10個です.
「人間が快適に生活する」ということを考えると,
天主一階の南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子以外ありえないと思います.
>
T.mさんのHPに以前発表したものと異なる点は,
天主と他の建物をつなぐ通路と9の三畳の位置です.

天主二階の「十二畳 御門之上」という表現と石垣の形状から考えて,
『天守指図』とは異なる位置に通路はあったと推定します.

9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.

また,門・階段室を監視する武士のための部屋と考えれば,
なぜ三畳という中途半端は大きさなのかについて説明できるのではないでしょうか.

実際に天主台に行ったことのある人なら解ると思いますが,
天主台の階段は大手道の階段と同様に昇りやすいものではありません.
もちろん現在の階段が信長の時代と同じであるという保証はありませんが,
信長がこの階段から天主に入ることより,
天主東側の天主取付台にあった建物から通路を上がって
天主に入ると考えたほうが自然だと思います.
天主取付台にあった建物は天主に対して「玄関・遠侍」の役割であったと考えます.

『天守指図』によると,
天主取付台の建物から台所へとつながる通路と本丸御殿に直接つながる通路があります.
位置から考えて,天主と天主取付台の建物をつなぐ通路は,
料理の運搬を主な目的とするようです.
しかし,現在の石垣の形状から考えて,
『天守指図』が指定する位置に通路があったとは考えにくいです.
また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.

天主取付台を本丸と同様に詳細に発掘調査し,
天主と建物を結ぶ通路がどこにあったのかを明確にすれば,
『天守指図』が実在の天主の指図なのか,
それとも推定復元図にすぎないのかが判明するでしょう.

主郭部の発掘調査を現在する予定はないようですが,
ぜひ天主取付台,二の丸,三の丸の詳細な発掘調査をして,
主郭部の全貌を解明して欲しいです.


タイトルいくつか質問させてください。
記事No: 108 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 12:43
投稿者

こんにちは。いくつか質問させてください。

1 依拠史料に、いわゆる「落間」の記載がないにも関わらず、復元に
 反映させているのは何故ですか。これは外周の縁側にも言えますし、
 また西・南側の建具の仕様にも言えることと思います。
 
2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

3 部屋2は、いわゆる上段に当たると解釈されておられるように推察
 しますが、上階の花鳥の間のように上段記載がないのはどうお考え
 ですか。

4 3本の主柱の位置についてはいかがお考えでしょうか。上階の大屋根
 の向きとも関連すると思いますが、宮上氏のように東西3間おきに並列
 と考えてよろしいでしょうか。

5 また、そもそもこの復元案においては12間四方と「仮定」する
 ところから立ち上がっており、「建設的な議論」の前提としては
 まずこのことが問われますし、確定しない限りその先、同じ土俵
 での議論は難しいと考えます。他者の検証可能なところで、これは、
 という論拠なり考察を示していただければ幸いです。

6 またこれは感覚的なものですが、部屋5と7の間の空きは一般的な
 母屋内の仕様としては少々奇異なものを感じるのですが。

よろしくお願いいたします。


タイトルRe: いくつか質問させてください。
記事No: 112 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 15:31
投稿者森嶋

森さんの質問にお答えします.

> 1 依拠史料に、いわゆる「落間」の記載がないにも関わらず、復元に
>  反映させているのは何故ですか。これは外周の縁側にも言えますし、
>  また西・南側の建具の仕様にも言えることと思います。

> 3 部屋2は、いわゆる上段に当たると解釈されておられるように推察
>  しますが、上階の花鳥の間のように上段記載がないのはどうお考え
>  ですか。

これらの質問は依拠史料がどの程度信頼できるのかという
問題と同値だと思います.
そこで,これらの問題に具体的に答える前に
まず史料批判からはじめるべきだと思います.

これについては,この掲示板で以前いろいろ書込みましたが,
現在でもその考えは変っていませんし,
むしろ私の考えが正しいという確信が強くなっています.
とはいえ,それを論じるのは
長くなるので別の機会にしたいと思います.



> 2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

天主台の塀の瓦だと思います.



> 4 3本の主柱の位置についてはいかがお考えでしょうか。上階の大屋根
>  の向きとも関連すると思いますが、宮上氏のように東西3間おきに並列
>  と考えてよろしいでしょうか。

私の復元は宮上説を改善・発展させたものです.
現時点では,宮上説と同じと考えてくだされば結構です.



> 5 また、そもそもこの復元案においては12間四方と「仮定」する
>  ところから立ち上がっており、「建設的な議論」の前提としては
>  まずこのことが問われますし、確定しない限りその先、同じ土俵
>  での議論は難しいと考えます。他者の検証可能なところで、これは、
>  という論拠なり考察を示していただければ幸いです。

私の復元は宮上説を改善・発展させたものです.
私の復元は,まず十二間×十一間という宮上説から出発しています.

屋根に銅などの金属を使わない本瓦葺きだけの天守では,
技術的に,秀吉の大坂城,姫路城の大きさが限界だそうです.
江戸城,徳川大坂城などの巨大天守は金属を屋根に使ったからこそ,
建設できたのだそうです.

安土城は本瓦葺であったはずですから,
これと天主台の大きさから,
安土城の天主もせいぜい秀吉の大坂城の天守と同規模だったと
考えるのは合理的な推論でしょう.
つまり,宮上説の大きさには合理的な根拠があるのです.

その上で,宮上説の間取の欠点を改善するためには,
十二間×十一間ではなく十二間×十二間にすべきだと私は考えます.

私は十二間四方と「仮定」することから決して出発していません.


> 6 またこれは感覚的なものですが、部屋5と7の間の空きは一般的な
>  母屋内の仕様としては少々奇異なものを感じるのですが。

私も森さんのような感じが少しします.
しかし,採光を重視すれば,
このような間取にならざるをえないのではないでしょうか.

階段は屋内で危険な場所です.
階段でのケガ・事故を防ぐためには
できるだけ階段室内を明るくする必要がある(あった)と思います.




森さんも安土城天主について復元されているようですから,
現在の森さんの復元案をこの掲示板で紹介していただけますか.


タイトルRe: いくつか質問させてください。
記事No: 113 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 18:05
投稿者

叮嚀な回答ありがとうございます。
おおよその論の起点と今後の展開が理解できました。
何分史料の限定された中での復元ですから、
やはり着眼次第でいろいろな復元図になりますね。

> 森さんも安土城天主について復元されているようですから,
> 現在の森さんの復元案をこの掲示板で紹介していただけますか.

私は…といえば、原則「安土日記」の記載のみに拠り、最小限度の
素材でどこまでその姿を立ち上げられるのか、またそれは可能か、
という立脚で(無論宣教師の記録類やウィンゲのスケッチ、中井図で
知られる秀吉の大坂城天守の底面規模や他天守の基本的構造なども
視野には入れてますが)考察を進めております。今となっては勇み足
過ぎた部分もありお恥ずかしい限りですが、四重目また五重目の
検討から、東西4間×南北6間の身舎を核に、一般的な天守では
縁側である四周を巡る幅2間のスペースが区画され居室となって
いるのでは?、という基本構造を見出し、六重目も上階に倣いこの
規模の身舎を核に部屋割を試みてみました。

ただ、こうした作業でどうしても加えなければならなかったものに、
身舎北半(或いはその一部)を占める各階の階段室と、穴蔵の空きを
覆い、併せて変形瓦を載せ、更に盆山を据えるべき六重目西部の
変形した縁側があったことを白状しておきます(笑)。

まだパックナンバーがありますので掲載誌を御覧いただくのが一番
有り難いのですが、今手がけております手元の作業が今年度内には
終わるとは思いますので、画像のアップのできるようになったのを
幸い、おいおい掲載させていただければと思います。


タイトル構造の問題
記事No: 105 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 00:46
投稿者淳也

こんにちは、
掲示板に画像をUPできるように改造したので、
以後、宜しければ画像を掲載下さい。

さて、
森嶋さんの復元案ですが、
宮上説を基本にされているのですが、
宮上説と同じく、構造的な問題があります。

木造建築は、柱の上に梁を渡して上階の重量を支える構造なので、
一般的な天守建築は、母屋の周りに庇が付けられた形が基本になって、
母屋の周囲は1間置きに柱が建てられる構造で造られます。

森嶋さんの言う、
>故宮上茂隆氏の復原案の欠点
とは、この母屋庇構造の制約によるものなので、
そう簡単に改良できるものではありません。

また、宮上説においても、1階部分に梁間が3間になる部分が存在し、
その3間梁の上に、上階の構造を支える柱が乗る部分があり、
実際にこの構造で建てると、上の階の柱の重みで、
梁が折れてしまうと思われます。

天守指図に依らない復元案で、構造に問題が無く建てられる案では、
森俊弘さんの復元案が優れているので(城郭史研究2001年21号所載)
天守指図に依らずに、従来の案より採光や居住性を
重視したプランを考えるのであれば、
森俊弘さんの復元案を参考にして、考えた方が良いと思います。


タイトルRe: 構造の問題
記事No: 107 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 07:02
投稿者T.m

> 森嶋さんの言う、
> >故宮上茂隆氏の復原案の欠点
> とは、この母屋庇構造の制約によるものなので、
> そう簡単に改良できるものではありません。

そもそも、宮上氏は『指図』批判に「母屋庇構造」を引き合いに
出しており、淳也さんの指摘される「問題」が、今一つ理解できません。
宮上氏の復原案は、一階の平面規模を秀吉の大坂城天守に結び付ける
ことにより、妥当性よりも信憑性を強要するような恣意的な面は
否めませんが、それも十分、修正可能であり、非現実的なものでは
無いと思います。(※学界的に支持が多いのも宮上案であり、
『指図』支持派からの無視はあっても、具体的な批判は無いものと
存じます。)

また安土城天主のように、一気に大規模かつ複雑な間取りの建築を
建てさせられたられたのですから、岡部又衛門もかなりの無理を
押して造営させられたと見るべきであり、一概に「一般的」を
押しつけるのも疑問です。

範例としてはやや問題もありますが、福知山城天守などはかなり
難しい構造であったと思います。
ただそれも、然程規模が大きく無いからこそ可能であったに相違ない
ものと思われます。

『指図』においても、基本的な間取りはそのままにして一階の平面を
矩形に近づけることは可能であり、敢えて天主台全面にそれを広げ
複雑にした理由が理解できません。
それはやはり、「20×17」という規模を優先させた結果と言うべきであり、
それが当初からの“設計上のもの”であるとするなら『指図』のそれは
“こじ付け”に近いものがあり、何を基に算出された(どのような意味の
ある)数値なのかという疑問もあります。

なにより「20×17」という数値は、発想を転換させれば、全くの架空で
あることは明白なのですから。


タイトルRe: 構造の問題
記事No: 111 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 14:14
投稿者森嶋

Re: 構造の問題 画像サイズ: 403×428 (25kB) 鋭い御指摘をいただきありがとうございます.
確かに,構造の問題は重要で十分に考慮すべきです.
構造の問題について配慮が不足していたので,
特に各部屋にある柱の上下階のつながりについて詳細に検討する必要があり,
二階,三階の復元図を公表できるまでには時間がかかると思います.
とはいえ,一応満足できる復元図が完成しても,建築の専門家からすると,
私の復元図は構造的に完全でないかもしれません.



> 木造建築は、柱の上に梁を渡して上階の重量を支える構造なので、
> 一般的な天守建築は、母屋の周りに庇が付けられた形が基本になって、
> 母屋の周囲は1間置きに柱が建てられる構造で造られます。

部分的に母屋の周囲に柱が一間おきになくても構造的に問題はないと思いますが,
三畳敷と二階の部屋の柱のつながりを考えると,
前回の復元案には構造的欠陥があります.

そこで,一階の三畳敷・門・階段室について改善してみました.
石垣の形状をよく考えると,
石垣上にある門の外側の通路は一間半×二間より二間四方のほうが自然でしょう.
また,この部分の窓は天主の狭間戸には加えません.
門を開放した状態では通路から光が入ってくるので,
階段室の採光に問題はないと思います.

階段の配置については他にも可能性は考えられますが,
とりあえず一例を示しておきます.

9の三畳は門・階段室の監視のための部屋であるという
私の推測に基づくと,
畳が横一列に並んでいたとしてもおかしくないでしょうし,
むしろ,そのほうが目的に適っていると思います.



> 森嶋さんの言う、
> >故宮上茂隆氏の復原案の欠点とは、
> この母屋庇構造の制約によるものなので、
> そう簡単に改良できるものではありません。

「母屋庇構造の制約」とは,
具体的に何を言いたいのかよく解りません.



> また、宮上説においても、1階部分に梁間が3間になる部分が存在し、
> その3間梁の上に、上階の構造を支える柱が乗る部分があり、
> 実際にこの構造で建てると、上の階の柱の重みで、
> 梁が折れてしまうと思われます。

これはきわめて適切な指摘だと思います.



しかし,構造的問題については『天守指図』のほうが深刻だと思います.
以前,内藤説の窓の少なさについて,
「内藤氏は建築の専門家とは思えない」と批判しましたが,
同様に構造についても
「内藤氏は建築の専門家とは思えない」と言わざるをえません.

具体的には,故宮上氏の批判と同様なので省略しますが,
この批判に対して,内藤氏は建設が実現可能であると反論しています.

秀忠・家光時代の江戸城天守は,
現代の建築技術でも建設が困難だそうです.
それにもかかわらず江戸城天守は実在したのですから,
一見不可能に見える『天守指図』の天主も建設可能なのかもしれません.

しかし,本当に重要な問題は,
物理的にこのような構造が実現可能なのかということと,
信長時代の建築技術の水準でこのような構造を実現できたのか
ということは,全く別の次元であるということです.
例えば,信長時代の石垣築造の技術で徳川大坂城の石垣を築くことは
不可能でしょう.

同様に,江戸城天守も技術者集団の経験の蓄積・
技術の進歩があったからこそ建設できたのであり,
あんな山の上にこんな複雑な構造をもつ六階建の建物を,
いくら信長の要望でも
信長時代の建築技術者が設計したとは思えませんし,
天守建設の経験のない大工が建てることを承諾したとも思えません.
つまり,『天守指図』の天主は実在しなかったと思います.

また,後の天守のように,言葉は悪いですが「はりぼて」の建物ならば,
信長時代の建築技術者でも,
六階建の建物を建築することにそれほど困難は感じなかったでしょう.

しかし,安土城の天主は,信長が住み(一階)
(この点は淳也さんと意見が異なるようですが),
対面の儀式を行い(二階),
会食その他の目的で人々と集う(三階)ための建築であり,
安土城の御殿群の主殿です.

これらの機能をもつ六階建の建物を設計し実際に建築するだけで
信長時代の建築技術者・大工は精一杯であり,
かなりの勇気を必要としたはずです.

その上に,不等辺八角形の天主台いっぱいの一階平面で,
六間×四間の吹抜けが内部にあるという条件が追加された
天主を設計・建設するだけの技術も勇気も,
信長時代の建築技術者・大工にはなかったと考えます.


タイトル母屋庇構造
記事No: 114 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 21:11
投稿者淳也

母屋庇構造 画像サイズ: 200×388 (10kB) > > 森嶋さんの言う、
> > >故宮上茂隆氏の復原案の欠点とは、
> > この母屋庇構造の制約によるものなので、
> > そう簡単に改良できるものではありません。
>
> 「母屋庇構造の制約」とは,
> 具体的に何を言いたいのかよく解りません.

一般的に、天守建築は母屋の周囲に、庇を付けた構造で造られています。
この、母屋と庇部分の柱を省略するのは、不可能ではないものの、
構造に無理がかかるので、普通は1間おきに柱が建てられ、その結果、
建物の中心を、柱がドーナツ状に囲む形に内部が造られます。

安土城では、沢山の座敷が内部に配されているので、
普通は縁側になる庇部分にも座敷があったと思われ、

母屋の一角に階段を作れば、
庇部分の座敷で採光が妨げられるのは、当然の事で、
母屋庇構造を維持したままで、階段室の採光の問題を解決するには、
庇部分に階段を作る以外には不可能ということです。

森嶋さんは、階段室の採光にこだわっておられるようですが、
不特的多数の人間が利用する、遊郭や、旅館などの建築においても、
必ずしも階段室の採光が考慮されているとは言えない状態なので、
そこまで考える必要は無いのではないかと思います。


>そもそも、宮上氏は『指図』批判に「母屋庇構造」を引き合いに
>出しており、淳也さんの指摘される「問題」が、今一つ理解できません。

>『指図』においても、基本的な間取りはそのままにして一階の平面を
>矩形に近づけることは可能であり、敢えて天主台全面にそれを広げ
>複雑にした理由が理解できません。

宮上氏は、「天守指図」は母屋庇構造では無い、と言ってますが、
どう見ても、矩形を基本とした、母屋庇構造です。

吹き抜けのある、6間×4間の母屋の周りに、庇が付いている構造が、
基本となって、1階から3階まで矩形の柱列が通り、
その上に大入母屋の4階が乗っている構造で、
不等辺八角形なのは、1階の庇部分だけです。

1階まで矩形で作ってしまっては、発掘されている、
斜角を持つ軒平瓦を使う場所が無くなると思うのですが・・・。

森嶋さんは、
> 2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

天主台の塀の瓦だと思います.

とのことですが、塀の瓦は、どんなに塀が傾斜・屈曲していても、
普通の瓦で葺かれているので、
この解釈は少し苦しいのではないでしょうか?


タイトル安土城天主一階推定平面図
記事No: 102 [関連記事]
投稿日: 2002/12/26(Thu) 23:37
投稿者森嶋

おひさしぶりです.
安土城の天主の一階平面を復原してみました.
建設的な批判をいただければ幸いです.
この掲示板では図を描けないようなので,
図はT.mさんのHP http://resq.to/fun/azuchi/ に描かせてもらいました.
ただし,内部の柱の位置,部屋の仕切が壁,襖,舞良戸,
障子のいずれであったかを特定するのは意味がないと考え,していません.

1 十二畳敷 墨絵ニ 梅之御絵を被遊候 同間内 御書院有 是ニ遠寺晩鐘 景気被書
2 次四てう敷 雉の子を愛する所 御棚ニ鳩計かゝせられ
3 又十二てう敷ニ 鵝をかゝせられ 鵝の間申也
4 又其次八畳敷 唐の儒者達をかゝせられ
5 南 又十二てう敷
6 又八てう敷
7 東 十二畳敷
8 御縁六てう敷
9 次三てう敷
10 其次八てう敷 御膳を拵申所也
11 又其次八畳敷 御膳拵申所  
12 六てう敷 御南戸  
13 又六畳敷
14 北之方 御土蔵有
15 其次 御座敷 廿六畳敷御なんと也
16 西 六てう敷
17 次十七てう敷
18 又其次 十畳敷
19 同十二畳敷


各部屋の機能を説明します.

1は信長の居間(書院は省略),
19は信長の寝室,6は信長専用の納戸,

2,3は重臣との対面座敷(2の棚は省略),
4は重臣の控え室,

5は信長側近の小姓の控え室,

7は天主を警備する武士の控え室,8は縁側,

9は壁がなく上段に畳が敷かれているだけで,
門・階段室を監視する武士のための部屋と考えます.

10,11は膳の準備のための部屋,12,13は食器,膳などのための納戸です.
11の前の扉は東の台所へとつながります.
人間の動線を考えると,
東の台所から食事が10,11へ運ばれます.
11,12で信長の日常の膳の準備がなされ,
北側の廊下を通って,1,17へ膳を運びます.
10,13は天主三階で会食があるときに使われたと考えます.

14は土蔵,15は納戸,16,17,18は妻女のための部屋と考えます.

天主の規模が十二間四方と仮定すると,天主台の北側は他の側に比べて空地が大きいので,
T.mさんのアイデアを使用させていただき,北側の空地に土蔵があったと考えます.

私の復原は,階段室の採光を考慮していないという,
故宮上茂隆氏の復原案の欠点を改善するかたちで行っています.
階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.

自画自賛になりますが,
既存の復原に比べて非常にスッキリとした部屋の配置だと思います.
また,内部の採光という点でも優れていると思います.
信長が日常生活する南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子を使っています.
天主一階の狭間戸の数は,東8個,北2個の計10個です.
「人間が快適に生活する」ということを考えると,
天主一階の南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子以外ありえないと思います.

T.mさんのHPに以前発表したものと異なる点は,
天主と他の建物をつなぐ通路と9の三畳の位置です.

天主二階の「十二畳 御門之上」という表現と石垣の形状から考えて,
『天守指図』とは異なる位置に通路はあったと推定します.

9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.

また,門・階段室を監視する武士のための部屋と考えれば,
なぜ三畳という中途半端は大きさなのかについて説明できるのではないでしょうか.

実際に天主台に行ったことのある人なら解ると思いますが,
天主台の階段は大手道の階段と同様に昇りやすいものではありません.
もちろん現在の階段が信長の時代と同じであるという保証はありませんが,
信長がこの階段から天主に入ることより,
天主東側の天主取付台にあった建物から通路を上がって
天主に入ると考えたほうが自然だと思います.
天主取付台にあった建物は天主に対して「玄関・遠侍」の役割であったと考えます.

『天守指図』によると,
天主取付台の建物から台所へとつながる通路と本丸御殿に直接つながる通路があります.
位置から考えて,天主と天主取付台の建物をつなぐ通路は,
料理の運搬を主な目的とするようです.
しかし,現在の石垣の形状から考えて,
『天守指図』が指定する位置に通路があったとは考えにくいです.
また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.

天主取付台を本丸と同様に詳細に発掘調査し,
天主と建物を結ぶ通路がどこにあったのかを明確にすれば,
『天守指図』が実在の天主の指図なのか,
それとも推定復元図にすぎないのかが判明するでしょう.

主郭部の発掘調査を現在する予定はないようですが,
ぜひ天主取付台,二の丸,三の丸の詳細な発掘調査をして,
主郭部の全貌を解明して欲しいです.


タイトルRe: 安土城天主一階推定平面図
記事No: 103 [関連記事]
投稿日: 2002/12/28(Sat) 11:40
投稿者T.m

> おひさしぶりです.
本当にお久しぶりですね。
自分の現況としては、信長関連の別件に集中しており、安土城天主に
ついては小休止といったところですが、『安土日記』掲載の貞勝の
「天主記録」については、その目的が「安土山ノ記」の撰文の為の基礎資料であったのではないかとの結論に至っています。

> 安土城の天主の一階平面を復原してみました.
> 建設的な批判をいただければ幸いです.
        (中略)
> 階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
> 多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.
以前、疑問を提起させていただきましたが、そうかもしれませんね。

> 9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
> その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
> それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
> その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.
全くその通りであり、宮上氏の復元案では、「三畳」である必然性以前に、
背後の「八畳」との関係からも不自然さは否めないと思います。

> また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
> 『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
> 天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.
自分は、「天正5年の安土行幸」の噂からして、同6年の正月に公開された
御殿(江雲寺御殿?)こそが当初の「御幸御殿」であり、伝・三の丸に位置し、
天主取付台を介して天主と廊下で結ばれていたものと考えています。
増築された本丸御殿もそれにつなげられたものと思います。


ところで、森嶋さんの復元案における二階、三階の平面はどのようになって
いるのでしょうか。
採光面では、宮上のそれにも問題は在るとおもうので、是非とも
ご披露願いたいところです。


タイトル画像UP型に改造しました。再掲
記事No: 104 [関連記事]
投稿日: 2002/12/28(Sat) 17:16
投稿者HP管理人(淳也)

画像UP型に改造しました。再掲 画像サイズ: 166×200 (6kB) こんにちは、HP管理人の淳也です。

掲示板を画像UP型に改造したので、
誠に勝手ながら、
森嶋さんの記事を画像付きで再掲致します。


タイトル : 安土城天主一階推定平面図
投稿日 : 2002/12/26(Thu) 23:37
投稿者 : 森嶋

おひさしぶりです.
安土城の天主の一階平面を復原してみました.
建設的な批判をいただければ幸いです.
ただし,内部の柱の位置,部屋の仕切が壁,襖,舞良戸,
障子のいずれであったかを特定するのは意味がないと考え,していません.

1 十二畳敷 墨絵ニ 梅之御絵を被遊候 同間内 御書院有 是ニ遠寺晩鐘 景気被書
2 次四てう敷 雉の子を愛する所 御棚ニ鳩計かゝせられ
3 又十二てう敷ニ 鵝をかゝせられ 鵝の間申也
4 又其次八畳敷 唐の儒者達をかゝせられ
5 南 又十二てう敷
6 又八てう敷
7 東 十二畳敷
8 御縁六てう敷
9 次三てう敷
10 其次八てう敷 御膳を拵申所也
11 又其次八畳敷 御膳拵申所  
12 六てう敷 御南戸  
13 又六畳敷
14 北之方 御土蔵有
15 其次 御座敷 廿六畳敷御なんと也
16 西 六てう敷
17 次十七てう敷
18 又其次 十畳敷
19 同十二畳敷


各部屋の機能を説明します.

1は信長の居間(書院は省略),
19は信長の寝室,6は信長専用の納戸,

2,3は重臣との対面座敷(2の棚は省略),
4は重臣の控え室,

5は信長側近の小姓の控え室,

7は天主を警備する武士の控え室,8は縁側,

9は壁がなく上段に畳が敷かれているだけで,
門・階段室を監視する武士のための部屋と考えます.

10,11は膳の準備のための部屋,12,13は食器,膳などのための納戸です.
11の前の扉は東の台所へとつながります.
人間の動線を考えると,
東の台所から食事が10,11へ運ばれます.
11,12で信長の日常の膳の準備がなされ,
北側の廊下を通って,1,17へ膳を運びます.
10,13は天主三階で会食があるときに使われたと考えます.

14は土蔵,15は納戸,16,17,18は妻女のための部屋と考えます.

天主の規模が十二間四方と仮定すると,天主台の北側は他の側に比べて空地が大きいので,
T.mさんのアイデアを使用させていただき,北側の空地に土蔵があったと考えます.

私の復原は,階段室の採光を考慮していないという,
故宮上茂隆氏の復原案の欠点を改善するかたちで行っています.
階段室が広すぎるように感じるかもしれませんが,
多くの人間が出入りするのですから,このぐらいの広さがないと不便だと思います.

自画自賛になりますが,
既存の復原に比べて非常にスッキリとした部屋の配置だと思います.
また,内部の採光という点でも優れていると思います.
信長が日常生活する南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子を使っています.
天主一階の狭間戸の数は,東8個,北2個の計10個です.
「人間が快適に生活する」ということを考えると,
天主一階の南側・西側の外部との仕切は,舞良戸と障子以外ありえないと思います.
>
T.mさんのHPに以前発表したものと異なる点は,
天主と他の建物をつなぐ通路と9の三畳の位置です.

天主二階の「十二畳 御門之上」という表現と石垣の形状から考えて,
『天守指図』とは異なる位置に通路はあったと推定します.

9の三畳が「御門之上」にあったというのであれば,
その門は地下一階の門だと考えられますが,そのように記されていません.
それにもかかわらず,わざわざ二階の部屋が「御門之上」にあるということは,
その門は地下一階の門ではなく一階の門を意味すると考えるべきでしょう.

また,門・階段室を監視する武士のための部屋と考えれば,
なぜ三畳という中途半端は大きさなのかについて説明できるのではないでしょうか.

実際に天主台に行ったことのある人なら解ると思いますが,
天主台の階段は大手道の階段と同様に昇りやすいものではありません.
もちろん現在の階段が信長の時代と同じであるという保証はありませんが,
信長がこの階段から天主に入ることより,
天主東側の天主取付台にあった建物から通路を上がって
天主に入ると考えたほうが自然だと思います.
天主取付台にあった建物は天主に対して「玄関・遠侍」の役割であったと考えます.

『天守指図』によると,
天主取付台の建物から台所へとつながる通路と本丸御殿に直接つながる通路があります.
位置から考えて,天主と天主取付台の建物をつなぐ通路は,
料理の運搬を主な目的とするようです.
しかし,現在の石垣の形状から考えて,
『天守指図』が指定する位置に通路があったとは考えにくいです.
また,宣教師が記している天主と本丸御殿をつなぐ通路も,
『天守指図』のように直接つながっていたと考えるより,
天主取付台の建物を介してつながっていたと考えるほうが無理がないでしょう.

天主取付台を本丸と同様に詳細に発掘調査し,
天主と建物を結ぶ通路がどこにあったのかを明確にすれば,
『天守指図』が実在の天主の指図なのか,
それとも推定復元図にすぎないのかが判明するでしょう.

主郭部の発掘調査を現在する予定はないようですが,
ぜひ天主取付台,二の丸,三の丸の詳細な発掘調査をして,
主郭部の全貌を解明して欲しいです.


タイトルいくつか質問させてください。
記事No: 108 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 12:43
投稿者

こんにちは。いくつか質問させてください。

1 依拠史料に、いわゆる「落間」の記載がないにも関わらず、復元に
 反映させているのは何故ですか。これは外周の縁側にも言えますし、
 また西・南側の建具の仕様にも言えることと思います。
 
2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

3 部屋2は、いわゆる上段に当たると解釈されておられるように推察
 しますが、上階の花鳥の間のように上段記載がないのはどうお考え
 ですか。

4 3本の主柱の位置についてはいかがお考えでしょうか。上階の大屋根
 の向きとも関連すると思いますが、宮上氏のように東西3間おきに並列
 と考えてよろしいでしょうか。

5 また、そもそもこの復元案においては12間四方と「仮定」する
 ところから立ち上がっており、「建設的な議論」の前提としては
 まずこのことが問われますし、確定しない限りその先、同じ土俵
 での議論は難しいと考えます。他者の検証可能なところで、これは、
 という論拠なり考察を示していただければ幸いです。

6 またこれは感覚的なものですが、部屋5と7の間の空きは一般的な
 母屋内の仕様としては少々奇異なものを感じるのですが。

よろしくお願いいたします。


タイトルRe: いくつか質問させてください。
記事No: 112 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 15:31
投稿者森嶋

森さんの質問にお答えします.

> 1 依拠史料に、いわゆる「落間」の記載がないにも関わらず、復元に
>  反映させているのは何故ですか。これは外周の縁側にも言えますし、
>  また西・南側の建具の仕様にも言えることと思います。

> 3 部屋2は、いわゆる上段に当たると解釈されておられるように推察
>  しますが、上階の花鳥の間のように上段記載がないのはどうお考え
>  ですか。

これらの質問は依拠史料がどの程度信頼できるのかという
問題と同値だと思います.
そこで,これらの問題に具体的に答える前に
まず史料批判からはじめるべきだと思います.

これについては,この掲示板で以前いろいろ書込みましたが,
現在でもその考えは変っていませんし,
むしろ私の考えが正しいという確信が強くなっています.
とはいえ,それを論じるのは
長くなるので別の機会にしたいと思います.



> 2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

天主台の塀の瓦だと思います.



> 4 3本の主柱の位置についてはいかがお考えでしょうか。上階の大屋根
>  の向きとも関連すると思いますが、宮上氏のように東西3間おきに並列
>  と考えてよろしいでしょうか。

私の復元は宮上説を改善・発展させたものです.
現時点では,宮上説と同じと考えてくだされば結構です.



> 5 また、そもそもこの復元案においては12間四方と「仮定」する
>  ところから立ち上がっており、「建設的な議論」の前提としては
>  まずこのことが問われますし、確定しない限りその先、同じ土俵
>  での議論は難しいと考えます。他者の検証可能なところで、これは、
>  という論拠なり考察を示していただければ幸いです。

私の復元は宮上説を改善・発展させたものです.
私の復元は,まず十二間×十一間という宮上説から出発しています.

屋根に銅などの金属を使わない本瓦葺きだけの天守では,
技術的に,秀吉の大坂城,姫路城の大きさが限界だそうです.
江戸城,徳川大坂城などの巨大天守は金属を屋根に使ったからこそ,
建設できたのだそうです.

安土城は本瓦葺であったはずですから,
これと天主台の大きさから,
安土城の天主もせいぜい秀吉の大坂城の天守と同規模だったと
考えるのは合理的な推論でしょう.
つまり,宮上説の大きさには合理的な根拠があるのです.

その上で,宮上説の間取の欠点を改善するためには,
十二間×十一間ではなく十二間×十二間にすべきだと私は考えます.

私は十二間四方と「仮定」することから決して出発していません.


> 6 またこれは感覚的なものですが、部屋5と7の間の空きは一般的な
>  母屋内の仕様としては少々奇異なものを感じるのですが。

私も森さんのような感じが少しします.
しかし,採光を重視すれば,
このような間取にならざるをえないのではないでしょうか.

階段は屋内で危険な場所です.
階段でのケガ・事故を防ぐためには
できるだけ階段室内を明るくする必要がある(あった)と思います.




森さんも安土城天主について復元されているようですから,
現在の森さんの復元案をこの掲示板で紹介していただけますか.


タイトルRe: いくつか質問させてください。
記事No: 113 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 18:05
投稿者

叮嚀な回答ありがとうございます。
おおよその論の起点と今後の展開が理解できました。
何分史料の限定された中での復元ですから、
やはり着眼次第でいろいろな復元図になりますね。

> 森さんも安土城天主について復元されているようですから,
> 現在の森さんの復元案をこの掲示板で紹介していただけますか.

私は…といえば、原則「安土日記」の記載のみに拠り、最小限度の
素材でどこまでその姿を立ち上げられるのか、またそれは可能か、
という立脚で(無論宣教師の記録類やウィンゲのスケッチ、中井図で
知られる秀吉の大坂城天守の底面規模や他天守の基本的構造なども
視野には入れてますが)考察を進めております。今となっては勇み足
過ぎた部分もありお恥ずかしい限りですが、四重目また五重目の
検討から、東西4間×南北6間の身舎を核に、一般的な天守では
縁側である四周を巡る幅2間のスペースが区画され居室となって
いるのでは?、という基本構造を見出し、六重目も上階に倣いこの
規模の身舎を核に部屋割を試みてみました。

ただ、こうした作業でどうしても加えなければならなかったものに、
身舎北半(或いはその一部)を占める各階の階段室と、穴蔵の空きを
覆い、併せて変形瓦を載せ、更に盆山を据えるべき六重目西部の
変形した縁側があったことを白状しておきます(笑)。

まだパックナンバーがありますので掲載誌を御覧いただくのが一番
有り難いのですが、今手がけております手元の作業が今年度内には
終わるとは思いますので、画像のアップのできるようになったのを
幸い、おいおい掲載させていただければと思います。


タイトル構造の問題
記事No: 105 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 00:46
投稿者淳也

こんにちは、
掲示板に画像をUPできるように改造したので、
以後、宜しければ画像を掲載下さい。

さて、
森嶋さんの復元案ですが、
宮上説を基本にされているのですが、
宮上説と同じく、構造的な問題があります。

木造建築は、柱の上に梁を渡して上階の重量を支える構造なので、
一般的な天守建築は、母屋の周りに庇が付けられた形が基本になって、
母屋の周囲は1間置きに柱が建てられる構造で造られます。

森嶋さんの言う、
>故宮上茂隆氏の復原案の欠点
とは、この母屋庇構造の制約によるものなので、
そう簡単に改良できるものではありません。

また、宮上説においても、1階部分に梁間が3間になる部分が存在し、
その3間梁の上に、上階の構造を支える柱が乗る部分があり、
実際にこの構造で建てると、上の階の柱の重みで、
梁が折れてしまうと思われます。

天守指図に依らない復元案で、構造に問題が無く建てられる案では、
森俊弘さんの復元案が優れているので(城郭史研究2001年21号所載)
天守指図に依らずに、従来の案より採光や居住性を
重視したプランを考えるのであれば、
森俊弘さんの復元案を参考にして、考えた方が良いと思います。


タイトルRe: 構造の問題
記事No: 107 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 07:02
投稿者T.m

> 森嶋さんの言う、
> >故宮上茂隆氏の復原案の欠点
> とは、この母屋庇構造の制約によるものなので、
> そう簡単に改良できるものではありません。

そもそも、宮上氏は『指図』批判に「母屋庇構造」を引き合いに
出しており、淳也さんの指摘される「問題」が、今一つ理解できません。
宮上氏の復原案は、一階の平面規模を秀吉の大坂城天守に結び付ける
ことにより、妥当性よりも信憑性を強要するような恣意的な面は
否めませんが、それも十分、修正可能であり、非現実的なものでは
無いと思います。(※学界的に支持が多いのも宮上案であり、
『指図』支持派からの無視はあっても、具体的な批判は無いものと
存じます。)

また安土城天主のように、一気に大規模かつ複雑な間取りの建築を
建てさせられたられたのですから、岡部又衛門もかなりの無理を
押して造営させられたと見るべきであり、一概に「一般的」を
押しつけるのも疑問です。

範例としてはやや問題もありますが、福知山城天守などはかなり
難しい構造であったと思います。
ただそれも、然程規模が大きく無いからこそ可能であったに相違ない
ものと思われます。

『指図』においても、基本的な間取りはそのままにして一階の平面を
矩形に近づけることは可能であり、敢えて天主台全面にそれを広げ
複雑にした理由が理解できません。
それはやはり、「20×17」という規模を優先させた結果と言うべきであり、
それが当初からの“設計上のもの”であるとするなら『指図』のそれは
“こじ付け”に近いものがあり、何を基に算出された(どのような意味の
ある)数値なのかという疑問もあります。

なにより「20×17」という数値は、発想を転換させれば、全くの架空で
あることは明白なのですから。


タイトルRe: 構造の問題
記事No: 111 [関連記事]
投稿日: 2002/12/29(Sun) 14:14
投稿者森嶋

Re: 構造の問題 画像サイズ: 403×428 (25kB) 鋭い御指摘をいただきありがとうございます.
確かに,構造の問題は重要で十分に考慮すべきです.
構造の問題について配慮が不足していたので,
特に各部屋にある柱の上下階のつながりについて詳細に検討する必要があり,
二階,三階の復元図を公表できるまでには時間がかかると思います.
とはいえ,一応満足できる復元図が完成しても,建築の専門家からすると,
私の復元図は構造的に完全でないかもしれません.



> 木造建築は、柱の上に梁を渡して上階の重量を支える構造なので、
> 一般的な天守建築は、母屋の周りに庇が付けられた形が基本になって、
> 母屋の周囲は1間置きに柱が建てられる構造で造られます。

部分的に母屋の周囲に柱が一間おきになくても構造的に問題はないと思いますが,
三畳敷と二階の部屋の柱のつながりを考えると,
前回の復元案には構造的欠陥があります.

そこで,一階の三畳敷・門・階段室について改善してみました.
石垣の形状をよく考えると,
石垣上にある門の外側の通路は一間半×二間より二間四方のほうが自然でしょう.
また,この部分の窓は天主の狭間戸には加えません.
門を開放した状態では通路から光が入ってくるので,
階段室の採光に問題はないと思います.

階段の配置については他にも可能性は考えられますが,
とりあえず一例を示しておきます.

9の三畳は門・階段室の監視のための部屋であるという
私の推測に基づくと,
畳が横一列に並んでいたとしてもおかしくないでしょうし,
むしろ,そのほうが目的に適っていると思います.



> 森嶋さんの言う、
> >故宮上茂隆氏の復原案の欠点とは、
> この母屋庇構造の制約によるものなので、
> そう簡単に改良できるものではありません。

「母屋庇構造の制約」とは,
具体的に何を言いたいのかよく解りません.



> また、宮上説においても、1階部分に梁間が3間になる部分が存在し、
> その3間梁の上に、上階の構造を支える柱が乗る部分があり、
> 実際にこの構造で建てると、上の階の柱の重みで、
> 梁が折れてしまうと思われます。

これはきわめて適切な指摘だと思います.



しかし,構造的問題については『天守指図』のほうが深刻だと思います.
以前,内藤説の窓の少なさについて,
「内藤氏は建築の専門家とは思えない」と批判しましたが,
同様に構造についても
「内藤氏は建築の専門家とは思えない」と言わざるをえません.

具体的には,故宮上氏の批判と同様なので省略しますが,
この批判に対して,内藤氏は建設が実現可能であると反論しています.

秀忠・家光時代の江戸城天守は,
現代の建築技術でも建設が困難だそうです.
それにもかかわらず江戸城天守は実在したのですから,
一見不可能に見える『天守指図』の天主も建設可能なのかもしれません.

しかし,本当に重要な問題は,
物理的にこのような構造が実現可能なのかということと,
信長時代の建築技術の水準でこのような構造を実現できたのか
ということは,全く別の次元であるということです.
例えば,信長時代の石垣築造の技術で徳川大坂城の石垣を築くことは
不可能でしょう.

同様に,江戸城天守も技術者集団の経験の蓄積・
技術の進歩があったからこそ建設できたのであり,
あんな山の上にこんな複雑な構造をもつ六階建の建物を,
いくら信長の要望でも
信長時代の建築技術者が設計したとは思えませんし,
天守建設の経験のない大工が建てることを承諾したとも思えません.
つまり,『天守指図』の天主は実在しなかったと思います.

また,後の天守のように,言葉は悪いですが「はりぼて」の建物ならば,
信長時代の建築技術者でも,
六階建の建物を建築することにそれほど困難は感じなかったでしょう.

しかし,安土城の天主は,信長が住み(一階)
(この点は淳也さんと意見が異なるようですが),
対面の儀式を行い(二階),
会食その他の目的で人々と集う(三階)ための建築であり,
安土城の御殿群の主殿です.

これらの機能をもつ六階建の建物を設計し実際に建築するだけで
信長時代の建築技術者・大工は精一杯であり,
かなりの勇気を必要としたはずです.

その上に,不等辺八角形の天主台いっぱいの一階平面で,
六間×四間の吹抜けが内部にあるという条件が追加された
天主を設計・建設するだけの技術も勇気も,
信長時代の建築技術者・大工にはなかったと考えます.


タイトル母屋庇構造
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投稿日: 2002/12/29(Sun) 21:11
投稿者淳也

母屋庇構造 画像サイズ: 200×388 (10kB) > > 森嶋さんの言う、
> > >故宮上茂隆氏の復原案の欠点とは、
> > この母屋庇構造の制約によるものなので、
> > そう簡単に改良できるものではありません。
>
> 「母屋庇構造の制約」とは,
> 具体的に何を言いたいのかよく解りません.

一般的に、天守建築は母屋の周囲に、庇を付けた構造で造られています。
この、母屋と庇部分の柱を省略するのは、不可能ではないものの、
構造に無理がかかるので、普通は1間おきに柱が建てられ、その結果、
建物の中心を、柱がドーナツ状に囲む形に内部が造られます。

安土城では、沢山の座敷が内部に配されているので、
普通は縁側になる庇部分にも座敷があったと思われ、

母屋の一角に階段を作れば、
庇部分の座敷で採光が妨げられるのは、当然の事で、
母屋庇構造を維持したままで、階段室の採光の問題を解決するには、
庇部分に階段を作る以外には不可能ということです。

森嶋さんは、階段室の採光にこだわっておられるようですが、
不特的多数の人間が利用する、遊郭や、旅館などの建築においても、
必ずしも階段室の採光が考慮されているとは言えない状態なので、
そこまで考える必要は無いのではないかと思います。


>そもそも、宮上氏は『指図』批判に「母屋庇構造」を引き合いに
>出しており、淳也さんの指摘される「問題」が、今一つ理解できません。

>『指図』においても、基本的な間取りはそのままにして一階の平面を
>矩形に近づけることは可能であり、敢えて天主台全面にそれを広げ
>複雑にした理由が理解できません。

宮上氏は、「天守指図」は母屋庇構造では無い、と言ってますが、
どう見ても、矩形を基本とした、母屋庇構造です。

吹き抜けのある、6間×4間の母屋の周りに、庇が付いている構造が、
基本となって、1階から3階まで矩形の柱列が通り、
その上に大入母屋の4階が乗っている構造で、
不等辺八角形なのは、1階の庇部分だけです。

1階まで矩形で作ってしまっては、発掘されている、
斜角を持つ軒平瓦を使う場所が無くなると思うのですが・・・。

森嶋さんは、
> 2 付近で表採されている、斜角を持つ軒平瓦の解釈をお教えください。

天主台の塀の瓦だと思います.

とのことですが、塀の瓦は、どんなに塀が傾斜・屈曲していても、
普通の瓦で葺かれているので、
この解釈は少し苦しいのではないでしょうか?