タイトル | : 信長の墓について |
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投稿日 | : 2008/03/12(Wed) 00:26 |
投稿者 | : 淳也 |
> それに依ると、信長の遺体が見つからず不安がる光秀に対し、齋藤利三が信長の着ていたとみられる
> 着物の燃え残りを発見したとしてそれを光秀に見せるも、尚その死を不審がったとされます。
信長は戦場における進軍と撤退が非常に迅速であり。後年秀吉が信長について語ったとされる話のなかに、
「蒲生氏郷の1万の軍と信長公の5千の軍が戦ったらどちらが勝つか」と皆に聞いたことがあった。
蒲生氏郷も歴戦の勇将であるが、秀吉は必ず信長公が勝つと言った。その理由は、
蒲生氏郷の軍で兜首を幾つか獲ればその中に大将の氏郷の首があるだろうが、信長公の軍で4千900人倒しても、信長は生き残った100人の中にいる、といった話があります。
実際、美濃攻め頃は負けるたびに逃げ帰って来る事を繰り返しているので、
敗戦時の逃げ足が速い事に関しては、生前から定評があったのではないでしょうか?
とすれば、信長のそば近くに長年仕えている光秀にしてみれば、
死体が無い=逃げ出した可能性を否定できない、ということになったと思います。
着物の燃え残りの件ですが、桐の長持に入っていたと考えれば、火事にあっても、燃え残りが存在してもおかしくはないと思われます。
> 阿弥陀寺の墓はかなり早い時期に建てられており、公家の山科言経が度々、墓参しているのも事実で、
> 利三が発見した「焦衣」を阿弥陀寺の住職が受け取り供養したというのが真相?かも知れません。
信長が、納戸の中で敵に捕まらずに自害するためには、
信長のいる建物が十分に燃え広がるまで、建物の外で明智軍の進攻を食い止める必要があり、
信長方が全滅した事からしても、相当数の死体が御殿の外にあったと考えられます。
建物内の信長の死体は、判別が付かないほど粉々に焼けたとしても、その他大勢の建物外にある死体は、
完全には焼けずに、黒焦げ又は白骨化程度で残っていたと思われます。
当時は、歯形で照合とかDNA鑑定もないので、信長主従としか判別できない多数の遺体を葬れば、信長の墓には違いないのではないでしょうか。
また、時宗である阿弥陀寺が戦死者を葬る事について、不自然な点は全くありません。
それに、そもそも墓には死体を埋めなければならないというのは、最近の習慣で、
歴史的に考えれば、死体とは別の所に墓を建てる事は、よくある話だと思います。