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タイトル本能寺についての新説
記事No: 425 [関連記事]
投稿日: 2008/03/04(Tue) 23:40
投稿者淳也

3月3日16時3分配信 産経新聞-------------------------------------
 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が高くなった。                ◇
 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。
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これが新説とは、少し驚きました。
テレビドラマならいざ知らず、歴史学の世界では、信長が本能寺内の
ごく小規模な専用御殿に宿泊していたのは常識だと思っていました。

信長公記の記述によると、

>透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
>御厩より(人名省略)切つて出で討死。此の外御中間衆(人名省略)御厩にて討死。
>御殿の内にて(人名省略)討死侯なり。(中略)
>御台所の口にては、高橋虎松、暫らく支へ合せ、比類なき働きなり。
>信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、
>其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、
>女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、
>既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ侯か、
>殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、

と、書かれています。

この記事から、本能寺の本坊である表御堂に信長は宿泊していなかったと読み取れる上に、
明智軍に囲まれて変を知った信長が、御殿へ隙もなく移動できていたり、
主な戦闘場所が、御殿・厩・台所の口と記録されている事からして、

信長の泊まっていた場所は、本能寺内の塔頭を歴博甲本の細川管領邸のように改造した御殿と思われます。

寺院内の塔頭であれば40m四方というのは標準サイズではないでしょうか?

門を入ると光浄院の客澱のような主殿と、遠侍付きの厩、台所が並んで立ち、
裏手に、信長の寝室のある常御所や湯殿、倉庫などが立っていたと思われます。


タイトルRe: 本能寺についての新説
記事No: 426 [関連記事]
投稿日: 2008/03/05(Wed) 21:19
投稿者哲平

ほへー、そうだったんですね。
まあ、寺に泊まったからと言って仏像の前で寝るわけでもないですしね。もともと宿泊施設でない所に宿泊しているわけだから、それなりに宿泊しやすい様に改築していて当たり前でしょうから、専用お泊まりスペースが無かったという方が難しいでしょうね。

ただ今回の発表は、新設ではなくて発掘成果などから文献の内容が事実に基づいているという事を証明できた、という事でしょうね。

もちろん私はそんな事知っていた訳もなく信長さんは寺のお堂ら辺で奮闘していたものと思っていましたが、、、

ん??そうなれば火薬はどこにあったんでしょうね。
本能寺の宗派は火薬の輸入ルートを押さえていて、本能寺にも大量の火薬があった、という説(逆説の日本史)を聞いた事がありますが、実際にあったのなら寺にあったのか、信長公のスペースにあったのか。
どっちでもいいんですけどね。


タイトル火薬の話
記事No: 429 [関連記事]
投稿日: 2008/03/06(Thu) 21:18
投稿者淳也

> ん??そうなれば火薬はどこにあったんでしょうね。
> 本能寺の宗派は火薬の輸入ルートを押さえていて、本能寺にも大量の火薬があった、という説(逆説の日本史)を聞いた事がありますが、実際にあったのなら寺にあったのか、信長公のスペースにあったのか。
> どっちでもいいんですけどね。

本能寺の火薬の話は、八切氏が言い出したのが発端です。

信長の遺体が見つからなかった理由について考察した結果、保管してあった火薬に引火して大爆発=
その結果、死体はバラバラになって発見できない、ということだったと思います。

でも当時、消防車や放水ポンプはまだ存在していないので、
本能寺が火事になっても、消火活動が行われるはずもなく、

現在でも、阪神大震災の火災で遺体が確認されないために行方不明の人がいるように、
一般的に建物の中心部にある納戸の内部に遺体があった場合、火薬など無くても、
火災によって遺体が確認できないほど粉々になってしまうのは常識ではないでしょうか?


タイトル信長の「焦衣」
記事No: 435 [関連記事]
投稿日: 2008/03/10(Mon) 06:20
投稿者Tm.

亀レスですが、信長の遺体については、江戸時代初頭に林羅山が著した『織田信長譜』(寛永18年・1641)に
興味深い記述見られます。

それに依ると、信長の遺体が見つからず不安がる光秀に対し、齋藤利三が信長の着ていたとみられる
着物の燃え残りを発見したとしてそれを光秀に見せるも、尚その死を不審がったとされます。

実は、某小説のネタ本となっている阿弥陀寺の伝承でも、当初は発見したのがその「焦衣」であったとされ、
それを証しに(遺灰を集め)信長の墓を建てたとされていたようです。
後に火災でその「焦衣」を失ったことで、各地にある信長の墓のなかでの正統性を主張する為に、
例の話が新たに創作されたようです。

「変」から幾分、年月を経て浮かび上がって来た話だけに信憑性に疑問は持たれますが、
阿弥陀寺の墓はかなり早い時期に建てられており、公家の山科言経が度々、墓参しているのも事実で、
利三が発見した「焦衣」を阿弥陀寺の住職が受け取り供養したというのが真相?かも知れません。


タイトル信長の墓について
記事No: 436 [関連記事]
投稿日: 2008/03/12(Wed) 00:26
投稿者淳也

> それに依ると、信長の遺体が見つからず不安がる光秀に対し、齋藤利三が信長の着ていたとみられる
> 着物の燃え残りを発見したとしてそれを光秀に見せるも、尚その死を不審がったとされます。

信長は戦場における進軍と撤退が非常に迅速であり。後年秀吉が信長について語ったとされる話のなかに、
「蒲生氏郷の1万の軍と信長公の5千の軍が戦ったらどちらが勝つか」と皆に聞いたことがあった。
蒲生氏郷も歴戦の勇将であるが、秀吉は必ず信長公が勝つと言った。その理由は、
蒲生氏郷の軍で兜首を幾つか獲ればその中に大将の氏郷の首があるだろうが、信長公の軍で4千900人倒しても、信長は生き残った100人の中にいる、といった話があります。

実際、美濃攻め頃は負けるたびに逃げ帰って来る事を繰り返しているので、
敗戦時の逃げ足が速い事に関しては、生前から定評があったのではないでしょうか?
とすれば、信長のそば近くに長年仕えている光秀にしてみれば、
死体が無い=逃げ出した可能性を否定できない、ということになったと思います。

着物の燃え残りの件ですが、桐の長持に入っていたと考えれば、火事にあっても、燃え残りが存在してもおかしくはないと思われます。

> 阿弥陀寺の墓はかなり早い時期に建てられており、公家の山科言経が度々、墓参しているのも事実で、
> 利三が発見した「焦衣」を阿弥陀寺の住職が受け取り供養したというのが真相?かも知れません。

信長が、納戸の中で敵に捕まらずに自害するためには、
信長のいる建物が十分に燃え広がるまで、建物の外で明智軍の進攻を食い止める必要があり、
信長方が全滅した事からしても、相当数の死体が御殿の外にあったと考えられます。

建物内の信長の死体は、判別が付かないほど粉々に焼けたとしても、その他大勢の建物外にある死体は、
完全には焼けずに、黒焦げ又は白骨化程度で残っていたと思われます。

当時は、歯形で照合とかDNA鑑定もないので、信長主従としか判別できない多数の遺体を葬れば、信長の墓には違いないのではないでしょうか。
また、時宗である阿弥陀寺が戦死者を葬る事について、不自然な点は全くありません。

それに、そもそも墓には死体を埋めなければならないというのは、最近の習慣で、
歴史的に考えれば、死体とは別の所に墓を建てる事は、よくある話だと思います。


タイトルRe: 本能寺についての新説
記事No: 427 [関連記事]
投稿日: 2008/03/06(Thu) 06:01
投稿者Tm.

お久です、純也さんそして哲平さん。

> これが新説とは、少し驚きました。
> テレビドラマならいざ知らず、歴史学の世界では、信長が本能寺内の
> ごく小規模な専用御殿に宿泊していたのは常識だと思っていました。

それがどうもそうではないらしく、昨夏に出版された学研の新歴史群像シリーズ(9)
『【本能寺の変】時代が一変した戦国最大の事変』において藤井尚夫氏が、かなり大規模で
豪華な御殿群を復元考証しており(※当然、本能寺自体の規模も南北に2町と想定。)、
同じ頃、今回の発表に繋がる発掘結果が報告されているのにも拘らず、今年初めのTVの特番でも
藤井氏監修の元にそれをそのままに再現した模型が紹介されており、首を傾げてと言うか失笑していました。

旧本能寺ですが、その広さは現在の二条城本丸程でであり、信長の御屋敷はさらにその1/4ほどの
広さであったようですから、当然その御殿も然程大きなものではなかったと考えられますね。
そこへ変前日に大勢の公家たちが訪問し、博多の商人の島井宗室ら地下の者たちを含め暫し歓談が
行なわれたとのことですから、その舞台となったのは表御堂であったと推察されます。


哲平さんご疑問の「火薬」の件、火薬の輸入ルート云々は兎も角、常識的に考えて、巷間に言われている
ような話は小説のネタだと思います。


タイトルRe: 本能寺についての新説
記事No: 430 [関連記事]
投稿日: 2008/03/06(Thu) 22:25
投稿者哲平

まいどまいど丁寧なお返事ありがとうございます。
僕の検討ハズレな疑問はスルーしてくださいね。

逆説の日本史(信長編)には、日本では採れない火薬を誰が輸入していたか、なぜ信長が宿泊した寺は本能寺であったのか、を関連付けて説明しており読んでいてすごく面白かったので、ふと思い出し書き込んでみました。歴史考察が深い人が読んだら、上記新説のように検討違いだ、
という指摘があるかもしれませんが、一度読んでみてくださいな。

そういえば南蛮寺から大砲を撃ったという珍説もありましたね(笑)

ゴールデンウィークに安土登城するつもりでしたが友人の結婚式が入り延期になりそうです。


タイトルRe: 本能寺についての新説
記事No: 445 [関連記事]
投稿日: 2008/05/26(Mon) 11:11
投稿者Tm.

昨日、平安京・京都研究集会主催の「戦国時代の本能寺と織田信長」の現地巡見及びシンポジウムに参加してきました。
昨年、立て続けに行われた発掘調査の結果を踏まえてのものでしたが、出席された研究者の方々の口から出たのは、今谷明氏への批判でした。

閉会間際には、聴講されていた三鬼清一郎さんもコメントを求められ、批判は堺屋氏や井澤氏、そしてジャーナリズムに求められるままに発言される小和田氏らに及び、そのことに具体的な行動(批判・反論)を起こしてこなかった現場の研究者の方々への叱咤となりました。

そもそも今回批判されたのは、今谷氏が、旧本能寺跡の北東部から発見されたL字状の堀跡から、そこに堀で囲まれた約40m四方の「信長の御屋敷」の存在を指摘しその意義を論じられたことなのですが、実際の発掘に携わった方々によると、そもそもそれがL字状であったかは断定されたものではなく、ましてや方形であったというのは今谷氏の全くの「思い込み」に過ぎないとのことでした。

今回、初めて現地を訪れたのですが、現場の方のご説明などもお伺いするに、本能寺の変についてもまだまだ検討の余地が多いことを考えさせられました。