| 淳也さんが指摘されているように、二重目の「かど東の御殿より廊下あり」と記入されている位置が、一重目石倉東北隅の階段と平行であることから、ここに渡り廊下の出入り口を設けてみました(左の図をご覧ください)。すると偶然にも、小便所の隅から伸びる(意味ありげな傾きを持つ)板の間の縁と一致します。これなら物置の前に「かど東の…」と書き込まれた理由も、二重目の東北の2間分の南側に階段の記入がない理由も納得ですし、(飲食後)東の御殿から(勾配や傾斜の少ない廊下を小走りに)天主に入ってすぐの場所にトイレがあるので、人間の生理にも適っています(^^) また「天下の中心」宝塔の独占祈祷室へも直接入ることができ、信長はそこを出た後、
-訪問客に土蔵で唸る黄金を見せたり(金色) -大階段から1階に上がったり(赤) -登閣(御)門(=信長専用)からそのまま外に出たり(青)することができます。
しかし天主台の遺構にそれらしい形跡もなく、天守指図にも石垣の大きな欠け(切り込み)を示す記述や線分がないので、この案は我ながらボツだと思います(^^)
そこでとりあえず渡り廊下配置想像図に若干の修正と改善(悪?)を加えるにとどめてみました(右の図をご覧ください)。
-修正ポイント1…淳也さんの仮説の取り込み(赤い細線) 安土城は初期天主とはいえ、穴太衆の正確無比な石積み技術が用いられているため、淳也さんの仮説どおり、東北2間分の空白の南側から物置の真下へ階段を降り、渡り廊下の出入り口を半地下に開けるという案も十分考えられますので、赤い細線で示してみました。 その一方で、東の御殿への廊下を「かど東の御殿より廊下あり」の記入位置に合わせて、2間分だけ天主台に沿って這わせてみました(ちなみに天主台の上端面が北の「大倉」の部分だけ低くなって段差が出来ているのは、東北に渡り渡り廊下を引き込んだためだと思います)。
-改善(悪)ポイント2…西側南北の接続(青緑) 西側にある2本の渡り廊下ですが、カルタリの木版画によると渡り廊下に壁や窓はなく、桧皮葺の屋根、柱、板床、欄干(転落防止)、提灯(夜間照明)だけのようですので、1階南西側にある2つの大きな華頭窓を塞がないという条件で、南北を繋げ、青緑で示してみました。 こうすると二の丸御殿⇔南西物見櫓間が(天主をバイパスして)直接行き来できますし、天正9年7月15日のお盆にライトアップする際にもより簡単に提灯を吊れると思います。 また(軒に加えて)桧皮葺の廊下屋根が夏の厳しい西日を遮ってくれ、(眺望が確保されるなら)この南北接続もアリだと思うのですが、どうでしょうか?
-改善(悪)ポイント3…本丸御幸御殿への急勾配解消(黄色) 本丸御幸御殿への渡り廊下は直線で結ぶと勾配がかなり急になりそうな上(高低差約10m)、カルタリの木版画ではこの渡り廊下は曲がりくねる桧皮葺屋根が表現されていますので、天主台の東南面や天主取り付け台の石垣に沿って這わせてみました。 人間50年といわれた平均寿命の短い戦国時代で、すでにおじいさんだった第106代正親町天皇(1517年生まれ59歳)もこのほうが登り易いと思います(^^) |