安土城 掲示板
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タイトル魅せるための城
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投稿日: 2007/10/06(Sat) 18:36
投稿者大陸進出

Q.信長は安土城を戦うための城ではなく、見せるための城として築城したと言われていますが、来るべき上杉・毛利・本願寺の三国同盟(=第二次信長包囲網by足利義昭)との合戦に備えて蓄財しておかなければならない時期に、なぜ大散財して見せるための城を築いたのか?いまいちピンと来ません。そこで今日は納得できる理由を考えてみました。キーワードは戦国最強、武田騎馬隊の軍資金(隠し金山)です。
 
 世界遺産インドのタージマハルには合計28種類もの宝石がふんだんに使われ、大理石(ラジャスターン地方)、碧玉(パンジャーブ地方)などムガール帝国領内はもちろん、翡翠(中国)、トルコ石(チベット)、ラピス・ラズリ(アフガニスタン)、サファイア(スリランカ)、カーネリアン(紅玉髄)(アラビア)、インド国内で産出しない貴重な宝石を多用することで、圧倒的な財力はもちろん、皇帝シャー・ジャハーンの威光や親交がそれらの国々(の皇帝や王族達)にも及んでいることを、反皇帝派の諸侯に見せつけ、謀反や裏切りを未然に防ぐ狙いもあったのではないかと言われています。
 
 信長も生野銀山(兵庫県朝来市)はもちろん、長篠の合戦(1575)後、津具金山(愛知県北設楽郡)など武田家の隠し金山の獲得を待って安土築城を開始(1576)したからこそ、安土城天主や御幸御殿に金銀をふんだんに用いることができたのです。 また戦国時代の日本では金の産出量が少なく(銅銭ですら輸入「永楽通宝」に依存)、本格的に産出され大判・小判として流通するのは江戸幕府が佐渡や伊豆の金山を発掘してからということなので、安土築城時の黄金は超高額なレアモノだったのです。しかも津具金山は長篠の合戦での加勢に対する徳川家康からの御礼の献上地(棚から牡丹餅)で、信長自身が散財したというより、武田家から奪い取った戦利品を自由に使ったというのが正解です(=第六天魔王)。

津具金山(設楽町教育委員会)
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou062.htm

A. 安土城に当時入手困難で超高価な金銀を多用することで、朝廷や足利義昭を奉じる毛利元就や上杉謙信、石山本願寺に対して、「見よ、生野銀山はもとより、うぬらが頼りにしておった武田家秘蔵の津具金山もすでにわしのものじゃ!もはや武田の騎馬隊を蝶略してわしを背後から挟み撃ちにすることなど出来ぬわっ!」と宣言でき、(第2次信長包囲網を画策中の将軍義昭の信長追討&室町幕府再興要請に応じる可能性が高い)親足利・反織田の他大名や宗教勢力、武装勢力をけん制し、信長包囲網の足並みを乱せるのが確実だったから。また津具金山が戦利品であったため、信長自身の大散財とは言えないから。

 また訪問客に城だけでなく、黄金一万枚を見せつけることは、信長にとって目の上のたんこぶだった戦国最強の武田騎馬軍が近いうちに足元から崩壊することを予感させる効果があったと思います。
 特に当時貴重だった黄金の価値を誰よりも肌でよく知る武器商人、津田宗久に自ら案内して見せれば、その圧倒的な黄金(使用量)に驚愕した宗久自身が、石山本願寺のお膝元である堺の町(堺商人のネットワーク→全国津々浦々)に直接「織田軍の圧倒的大勝利!」という噂を広めてくれるのは確実です(顕如ピンチ!)。
 テレビも電話もインターネットもなく、明日のわが身をも知れぬ戦国時代には、あらかじめ情報戦を仕掛けて動揺を与えることが、敵の部下を寝返らせるのに必要不可欠です。
 また今まで見たこともないような「至る所に金が用いられ、内外ともに驚くべき建築技術をもって建てられていた(by宣教師)」優雅で豪華絢爛な天主閣や天皇専用の御幸御殿は、天下統一に邁進する織田家家臣や兵士の士気を大いに高める効果を計算に入れていたことは間違いありません。
 工事中の信長(館ひろし)が何かに憑り付かれたかのように、黒漆と金具で装飾され、花鳥尽くしにされる前の組みあがったばかりの天井格子を見上げて「この天主さえ完成すれば、朝廷はもとより上杉も毛利も本願寺の坊主どももわしにひれ伏すわっ!」と叫んだ理由もこれで納得です。
 また上杉謙信(Gackt)が春日山城の厠で死に(T_T)、伝説の鉄砲使い雑賀衆の加勢により10年も持ち耐えた石山本願寺がついに降伏して顕如が退去し、武田家を滅亡させて、安土築城目的であった関東と畿内の三大勢力の鎮圧に成功した後で、富士山見物中に「お狂いなされ」家臣や兵士を楽しませたり、徳川家康や穴山梅雪を安土城に招き、教養のある明智光秀に直接接待役を命じ、自ら膳を運び座敷の真ん中に座って給仕してもてなしたり(→逆効果。家康も梅雪も信長の給仕に恐縮してしまい、折角のご馳走の味がよく判らなかったそうです(^^))したのは、(この城に大散財した甲斐があったわ!わしは神に選ばれし天才じゃ!)という自分の決定の正しさと天下統一の達成間近の予感に酔いしれていたからだと思います。
 こうして築城目的をすべて達成した後、初めて安土城を出発し、諸悪の根源である将軍義昭を奉じる毛利、村上水軍、長曽加部討伐に出陣するのは自然な流れです(今度こそ義昭めの息の根を止めてくれるわっ!!)。しかしこれが命取りに…残念です。
 
 ここまで判ってくると、信長が魅せるための(安土)城に惜しげもなく金銀を多用できた理由が判り、その目的だと六角氏が街道筋や楽市楽座などインフラを整備しておいてくれた観音寺城では標高が高すぎるということが理解できます(∵高すぎて折角の金銀御殿が雲や濃霧に隠れてしまう)。安土山は高からず低からず、仰ぎ見るのに丁度いい高さで、湖側から見ると深緑色の観音寺山が天然の屏風となって黄金に輝く色彩豊かな天主閣を鮮やかに引き立ててくれ、信長が求めるすべての必要条件を満たしていたのです。
 
 以上、信長の居城とその意義や目的をまとめると以下のようになります。

 清洲城=尾張制圧の拠点(vs今川・松平)
 小牧城=美濃攻略の拠点(vs斎藤)
 岐阜城=近江攻略の拠点(vs六角・浅井朝倉・比叡山延暦寺)
 安土城=京都・畿内・東国制圧の拠点
 (vs朝廷・石山本願寺・高野山金剛峯寺・北畠・伊勢長島一向衆・甲賀伊賀衆・雑賀根来衆・上杉・武田)
 大坂城=九州・中国・四国・瀬戸内海制圧の拠点
  →石山本願寺跡に豊臣秀吉が1583年築城開始→1587年九州、1590年小田原を平定=天下統一の完成。


P/S
 NHKBSハイビジョンで放送中の「功名が辻」再放送は月曜日、いよいよクライマックス「本能寺」です。
 信長(館ひろし)が白い寝間着の上に甲冑胴衣を着け、雑賀孫市並みの百発百中の正確な射撃で反撃する新しい演出が見れます!!(^^)


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