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タイトル淳也さんの「東山殿常御所」へのコメント
記事No: 383 [関連記事]
投稿日: 2007/10/06(Sat) 09:58
投稿者森嶋

淳也さんの東山殿常御所に関する論考を興味深く読ませていただきました.
しかし私の理解では,
淳也さんの東山殿常御所に関する論考には誤解があると思います.


■誤解その1■

私の理解では,宮上復元案は,東山殿常御所ではなくて,
足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承に基づいているはずです.

この伝承の面積は東山殿常御所の各部屋の面積の合計と同じであり,
この伝承はおそらく正しいと私は思います.

ただし宮上氏が主張するように,
安土城天主一階の信長居住部分がこの伝承に基づいているとしても,
宮上復元案はその復元に成功していないと思います.

まず淳也さんの指摘どおり,
宮上復元案は6間×7間になっていません(笑).

また現在の京都御所の天皇の常御所でも,
建物の中央にある外光の入らない部屋は寝室になっていることを考えると,
安土城天主一階の信長居住部分が常御所を想定して設計されているのであれば,
6間×7間部分の中央の部屋は寝室のはずですが,
宮上復元案では寝室ではなくただの落間です.

さらに宮上案の中央の落間は隣の8畳の部屋と一緒にして12畳とするのが自然であり,
落間と8畳に分割するのは無理があると思います.

一階の信長居住部分について,
私の復元案は宮上案そのままでしたから,
改善しなければなりません.


■誤解その2■

>一階の納戸の一つを1類本は「次十七てう敷」と記すが、
>2-3類本は「次十てう敷」と記す。
>十七畳という座敷はほとんどあり得ないし、
>また私が復元図を作成してみたところでも、
>十畳でないとプランが納らないから(次號第三図・一階17参照)、
>この場合に関しては、現存する1類本写本の方の誤写と認められる。
>原本の「十てう敷」の「て」を「七」に読み間違えた結果であろう。

宮上氏は1類本と2-3類本のどちらが正しいのかを問題にしているのですから,
それぞれの復元図を作成して,
うまくいかない方を誤写と考えるのは合理的な推論ではないでしょうか.


■誤解その3■

>「御飾書」には四畳の書院の北西の隅には違い棚が置かれていて、
>その上に横にながい水墨画がかけられていることになっています。
>川上説の書院北西の隅をみると、
>西側は昼の御座所から書院へ入る入口で絵はかけられず、
>北側は焚き火の間との境の戸になっている、
>ということは棚の上にかけられた横に長い墨絵は、
>部屋の境の戸の部分にかけられている事になり、
>絵画の展示のしかたとしてはすこし違和感があります。 
>というか一間幅の開き戸の場合、
>向って右側の戸が手前にはめられるので、
>この部分に絵をかけると戸の開け閉てができなくなります。
>また「御飾書」では書院の脇に二幅の掛軸がかけられている事になっているのですが、
>戸に掛軸をかけるというのは先ほどと同じく違和感があるうえに、
>この間取りで二幅の掛軸をかけるとすると、
>北側にかけた場合、書院から焚き火の間へ行くことが出来なくなり、
>南側にかけた場合、舞良戸が開けられなくなってしまいます。

川上氏は,建具の前方ではなく,
小壁(建具の上の長押と天井の間の壁)
に絵画が飾られていたと考えているはずです.

現代の和室では,
絵画は床の間に飾るものであり,
小壁に絵画を飾ることは違和感がありますが,
義政の時代では普通であり,
京都の寺院の古い建物では,
現在でも小壁に絵画を飾っています.

小壁に絵画を飾るのであれば,
その下の建具を開閉できますから,
川上説におかしな点はないと思います.


タイトルRe: 淳也さんの「東山殿常御所」へのコメント
記事No: 385 [関連記事]
投稿日: 2007/10/07(Sun) 00:25
投稿者淳也

こんにちは、

UPしたページを早速読んでいただいて、ありがとうございます。

提示した復元案に関する問題点が書いてない、ということは、
東山殿常御所は、このプランでもOKと考えてよろしいのでしょうか?

さて"誤解"に関してですが。

> ■誤解その1■
>
> 私の理解では,宮上復元案は,東山殿常御所ではなくて,
> 足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承に基づいているはずです.

足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承は、
本当に存在しているのでしょうか?
足利義政のもの以外、将軍邸の常御所の間取りに関する資料は、
存在していないと思うのですが・・・。

> この伝承の面積は東山殿常御所の各部屋の面積の合計と同じであり,
> この伝承はおそらく正しいと私は思います.

東山殿常御所の各部屋のうち、
ご寝所・昼の御座所・落間の面積は資料には載っておりません、
各部屋の面積の合計と同じ、といえる根拠はどこにあるのでしょうか?


> ■誤解その2■
>
> 宮上氏は1類本と2-3類本のどちらが正しいのかを問題にしているのですから,
> それぞれの復元図を作成して,
> うまくいかない方を誤写と考えるのは合理的な推論ではないでしょうか.

宮上氏は資料批判の結果、1類本の本文のみが正しく、
1類本の追記部分と2-3類本の記述は、改竄に基づくものとして、
復元の資料としては使っていないのに、
この部分のみ、2-3類本が正しく1類本が誤写であるとする態度は、
合理的ではなく、御都合主義だと思います。

それに、2-3類本の記述を無視した、自由な発想で復元プランを作っていながら、
十七畳の部屋が復元プランにうまくはめ込めないとは、
6間×7間の規模にこだわりすぎているのではないでしょうか。


> ■誤解その3■
>
> 川上氏は,建具の前方ではなく,
> 小壁(建具の上の長押と天井の間の壁)
> に絵画が飾られていたと考えているはずです.

このサイトには引用していませんが、
"君台観左右帳記"は、この前後もなが〜く続いていて、
会所の小壁に書かれた絵画の記述も書かれています。

小壁に絵画が飾られていたなら、会所の記述と同じように
「小壁に・・・」と書かれるはずで、書いていない以上、
書院の絵画は小壁にかけられたわけでは無いと判断できます。


タイトルRe: 淳也さんの「東山殿常御所」へのコメント
記事No: 386 [関連記事]
投稿日: 2007/10/08(Mon) 09:49
投稿者大陸進出

>足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承は、本当に存在しているのでしょうか?
>足利義政のもの以外、将軍邸の常御所の間取りに関する資料は、存在していないと思うのですが・・・。

これに関しては、

明石散人著「二人の天魔王 信長の真実」(講談社文庫)

を図書館で借りて読んだのですが、天魔の一人はもちろん信長、もうひとりは足利義教(室町幕府の第6代将軍)で、
比叡山延暦寺の焼き討ち、関東平定など、信長は天下布武に当たり、天魔と恐れられた足利義教の恐怖政治をお手本にしたのではないかという内容で、
もし事実なら天魔義教のインスピレーションと精神的な波動を受け続けるために、安土城天主では、(8代義政ではなく)6代義教の常御所を模した可能性が高いのではないでしょうか。

>宮上氏は資料批判の結果、1類本の本文のみが正しく、1類本の追記部分と2-3類本の記述は、改竄に基づくものとして、
>復元の資料としては使っていないのに、この部分のみ、2-3類本が正しく1類本が誤写であるとする態度は、
>合理的ではなく、御都合主義だと思います。
 
 まったくです。 また淳也さんの東山殿常御所復元案のおかげで、宮上案の性格がよく見えてきました。

-内藤昌先生が天守指図に基づいて復元した天主台をそのまま拝借した上、
-自らが復元した東山殿(=義政の)常御所(6間×7間の長方形)を唯一最大の根拠として、それに合わせて
-文献資料を捻じ曲げまくったご乱心的復元案 

 あくまで信長オタクにペーパークラフトを売るために、自分の好みで成形&着色して開発したフィギュア的な模擬天主で、フィギュア好きにはたまらないかもしれませんが、まともな建築史学者のすることではないと確信しました。
 変形瓦が出土すると、急遽東北の付け櫓だけを入母屋から切妻屋根に変更して誤魔化し(「不完全なものを許さない信長」by宣教師に矛盾)、全くの風見鶏で「かたわらいたし」です。
 そもそも単に太目の五重塔(5階座敷)だったら、(日本に来る途中でヨーロッパはもちろん、イスラムやインド・中国の壮大な建築技術を見てきた)宣教師が「内外とも驚くべき建築技術」とは表現しないと思います。
 宣教師が「内外とも」と言うからには、外部の複雑に入り組んだ屋根や壁の凸凹はもちろん、内部に(少なくても今まで日本で見たことがない→「驚くべき」)特殊な空間があったことを間接的に物語っています。


P/S
 歴史街道の最新号を図書館で読みました。淳也さんのように工事日程表を作り、
それと照合しながら(当時の織田軍が置かれていた状況をも参考にして)工期的な考察を行ったり、
他の資料との比較や裏付け、検証を行った形跡が全くない愉快犯的な単発記事で、
図書館の雑誌コーナーで目を通せば十分です(^^) 最新号以外は貸し出してくれます。


タイトルRe: 淳也さんの「東山殿常御所」へのコメント
記事No: 387 [関連記事]
投稿日: 2007/10/08(Mon) 14:06
投稿者森嶋

> 提示した復元案に関する問題点が書いてない、ということは、
> 東山殿常御所は、このプランでもOKと考えてよろしいのでしょうか?

宮上案・川上案・淳也さんの復元案の中では,
川上貢氏の復元案が優れていると思います.

宮上案・淳也さんの復元案は御焚火の間の部屋の形がおかしいと思います.

淳也さんの指摘どおり,
川上案の採光について改善すべき点があると思いますが,
そもそも全ての部屋の大きさを書いていないのですから,
復元の対象とすべきではないのかもしれません.


> > ■誤解その1■
>
> 足利将軍邸の常御所が6間×7間だったという伝承は、
> 本当に存在しているのでしょうか?
> 足利義政のもの以外、将軍邸の常御所の間取りに関する資料は、
> 存在していないと思うのですが・・・。

宮上氏によると,
常御所の大きさの伝承だけで間取の情報は不明だったそうです.


> 東山殿常御所の各部屋のうち、
> ご寝所・昼の御座所・落間の面積は資料には載っておりません、
> 各部屋の面積の合計と同じ、といえる根拠はどこにあるのでしょうか?

正確には「川上貢氏が復元した各部屋の面積の合計と同じ」と書くべきでした.


> > ■誤解その2■
> 宮上氏は資料批判の結果、1類本の本文のみが正しく、
> 1類本の追記部分と2-3類本の記述は、改竄に基づくものとして、
> 復元の資料としては使っていないのに、
> この部分のみ、2-3類本が正しく1類本が誤写であるとする態度は、
> 合理的ではなく、御都合主義だと思います。

現在の印刷物は校正がおこなわれていますが,
それでも誤字・脱字はあります.

同様に,各写本にも誤字などの書き間違い(写し間違い)
があることを前提としなければなりません.

これは,どちらの写本が史料として優れているかという問題と全く別の次元の問題です.

1類本「17畳」,2-3類本「10畳」となっていますが,
宮上氏も指摘しているように,
「17畳」という大きさの座敷は普通ありませんから,
まず1類本の書き間違いを考えるのが常識ではないでしょうか.

その後,実際に復元図を作成して,
どちらが正しいかを判断するのは合理的な推論だと思います.


> > ■誤解その3■
> このサイトには引用していませんが、
> "君台観左右帳記"は、この前後もなが〜く続いていて、
> 会所の小壁に書かれた絵画の記述も書かれています。
>
> 小壁に絵画が飾られていたなら、会所の記述と同じように
> 「小壁に・・・」と書かれるはずで、書いていない以上、
> 書院の絵画は小壁にかけられたわけでは無いと判断できます。

会所の小壁に絵画が「書かれていた」のか,
それとも「飾られていた」のか,
また前後関係がどうなっているのか,
原文を読んでいないのでわかりません.

もし「会所の小壁に絵画が書かれていた」のであれば,
小壁に絵を書く(正確には絵を貼り付ける)のは,
当時,非常に珍しいことなので「小壁に」と記録したと考えます.

これに対して,
小壁に(巻物の)絵画を飾ることは当時の常識なので,
わざわざ「小壁に」と書く必要はなかったと考えます.


タイトルRe: 淳也さんの「東山殿常御所」へのコメント
記事No: 389 [関連記事]
投稿日: 2007/10/10(Wed) 01:30
投稿者淳也

> 宮上案・淳也さんの復元案は御焚火の間の部屋の形がおかしいと思います.

部屋の形が、矩形ではなく変形しているからおかしいという理論からすると、
森嶋さんは室町時代の将軍御所についての研究史を調べたことが無いようですね、
ということは、以下の文は書いても無駄のようですが、いちおう。


> そもそも全ての部屋の大きさを書いていないのですから,
> 復元の対象とすべきではないのかもしれません.

復元考察というのは、ピースの欠けたジグソーパズルから元の絵を組み立てるような学問なので、
これを言ってしまっては、学問自体が成り立たなくなると思いますが・・・。


> 宮上氏によると,
> 常御所の大きさの伝承だけで間取の情報は不明だったそうです.

> > 東山殿常御所の各部屋のうち、
> > ご寝所・昼の御座所・落間の面積は資料には載っておりません、
> > 各部屋の面積の合計と同じ、といえる根拠はどこにあるのでしょうか?
>
> 正確には「川上貢氏が復元した各部屋の面積の合計と同じ」と書くべきでした.

宮上氏がそのように主張していることは知っていますが、
その伝承の根拠がわからないのです。

また、川上貢氏が復元した各部屋の面積の合計と同じであるから、
6間×7間の伝承が正しいと、どうして言えるのでしょうか?
そもそも川上貢氏の復元案は6間×7間では無いと思いますが。


> 「17畳」という大きさの座敷は普通ありませんから,
> まず1類本の書き間違いを考えるのが常識ではないでしょうか.

17畳の座敷が普通ありえないのは、太田牛一の時代でも常識なので、
"十てう"と書かれた原文を"十七てう"と書き間違えるような
常識に反する記述ができるかという部分が、非常に疑問なのです。

天守指図が安土城天主の計画図であれば、工事途中に設計変更して
この部分に十七畳の座敷を作ることが可能なので、
私は、十七畳の記述は誤記ではないと考えています。



> 会所の小壁に絵画が「書かれていた」のか,
> それとも「飾られていた」のか,
> また前後関係がどうなっているのか,
> 原文を読んでいないのでわかりません.

書き方が悪かったようです、

御飾書の会所部分は、

>一.八景の八幅、四幅一対のよこゑ、東西の小かへにかかる、さかの躰をかき申候、
>一.西の六間御置物なし、夏斗小壁に四幅一対の絵・・・・・・・・
>・・・西北の一間に御違棚置、紫檀、其上の小かへに小絵の二幅かかる也、

このような感じに書かれているので、

小壁に絵画が飾られていたなら、会所の記述と同じように
「小壁に・・・」と書かれるはずで、書いていない以上、
書院の絵画は小壁にかけられたわけでは無いと判断できます。

とすれば、川上説の書院部分は改善すべき点があると思いますが、どうでしょうか?


タイトル5階⇔6階の鉄砲階段
記事No: 396 [関連記事]
投稿日: 2007/10/23(Tue) 18:44
投稿者大陸進出

5階⇔6階の鉄砲階段 画像サイズ: 360×290 (27kB)
>小壁に絵画が飾られていたなら、会所の記述と同じように
>「小壁に・・・」と書かれるはずで、書いていない以上、
>書院の絵画は小壁にかけられたわけでは無いと判断できます。


 淳也さんの長押と鴨居の間の内壁(欄間)に関する考察から、5階⇔6階の階段に関して気が付きました。
 
 6階の高欄と5階の屋根裏の木組みから、外陣を支える海老紅梁(Ψ平三斗組Ψ)の位置が決まり、内陣の長押と鴨居の位置が決まります。
 淳也さんが指摘しているように、6階への階段を天守指図の通り、長さ1間(通し柱の関係から8.7尺≒2.6m)の鉄砲階段にすると梯子のような急階段になってしまうので、
内藤案では5階の内陣に沿って下方に半間(4.35尺≒1.3m)伸ばし、合計長さ1間半(13尺≒3.9m)の中折れ階段にして現実的な勾配にしています。

 もし、天守指図通りの長さ1間(8.7尺≒2.6m)の鉄砲階段を実現させようとして、内陣の床だけを中途半端に上げてしまうと(緑)、
(平三斗組による海老紅梁との取り合わせから長押や鴨居の位置は動かせないので)、階段が却ってさらに急勾配になってしまいました(赤)。
 この場合、例えば1階(二重目)北の大倉の段差のように、(内陣と外陣の)大きな段差を示す「さか(坂)」の表示がないのが気になります。
 ここでもし急になった階段の勾配を元に戻そうと、さらに床を上げていくと(青)、最終的に5階の内陣は潰れてしまいます(T_T)
 
 したがって内陣の通し柱(8本)の間隔や、6階高欄と5階屋根の勾配(→3階2階1階の屋根の勾配も?)と外陣を支える木組み(海老紅梁)を見直さない限りにおいて、
内藤案の1間半(13尺≒3.9m)の中折れ階段をとりあえずの解決策としてもいいのではないでしょうか(→この階段と屋根の2つの勾配は連動)。
 しかし、淳也さんの指摘どおり、天守指図ではハッキリと長さ1間(8.7尺≒9尺≒10尺まで余裕でokだと思います)の鉄砲階段になっているので、
(夜空=宇宙空間を示すかもしれない)ここ5階⇔6階間の木組みは、天守指図に基づく(内藤案以外の)復元案を提示する際に、腕の見せ所になると思います(応援してます)!
 「平三斗組」「海老紅梁」でググってこの本↓を見つけ、昨日図書館で予約してきましたので、調べてみて何か発見したらすぐにお知らせします。

-鶉功著「図解 社寺建築 各部構造編」(理工学社)4515円!!(゚O゚;)
http://www.rikogakusha.co.jp/products/3500.html
-(5階八角堂の外陣を支える)海老紅梁(えびこうりょう)
http://www.kamidana.jp/pop/pop04.html

 (現時点で)淳也さんはここにどんな木組みを想定していますか?
 →個人的には(永徳の洛中洛外図にも描かれてる)吉田神社の本殿や法隆寺の夢殿が参考になると思いますが… 

P/S
 5階の内壁は欄間(彫り物)の可能性がないでしょうか?

[安土日記]より
六重目、八角、四間あり。外柱は朱なり。内柱は皆金なり。釈尊十大御弟子等、釈尊成道御説法の次第。
御縁輪には餓鬼ども、鬼ども描かせられ、御縁輪の鰭板には、鯱(しゃちほこ)、飛龍を描かせられ、高欄擬宝珠、彫り物あり。

 内藤昌先生は最後の「高欄擬宝珠、彫り物あり」を「高欄擬宝珠【に】彫り物あり」と訳していますが、もっとざっくりと「高欄擬宝珠【と】彫り物あり」と訳すことも可能ではないでしょうか。
 内壁が欄間だと、風通しがよくなり、襖を閉め切って(釈迦説法図に360℃囲まれて)瞑想していても夏の強い日差しによるこもり熱を換気できますし、
西正面に釈迦説法図を見ながらこの階段を登る時、櫛形の窓越しに、常楽寺港の湖面交通や山腹に広がる家臣の屋敷の様子も窺える(?)からです(^^)
 
 高3素人の素朴な疑問ですが、よろしくおねがいします。


タイトル×内壁→○小壁
記事No: 397 [関連記事]
投稿日: 2007/10/24(Wed) 06:43
投稿者大陸進出

 長押と鴨居の間の壁は小壁でした(スイマセン)。
 
 今も氾濫し続けるフィギュア的な模擬天主の中で存在感を高め、内藤案との違いを明確にするために、
(北条家の小田原城天守閣の模型みたいな)木組みのみの復元案という手もありではないでしょうか?

重要文化財 小田原城天主閣模型 
http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/culture/cultural/building/k-tensyukaku.html

 もし淳也さんが(安土城天主の骨格を組んだ棟梁)岡部又右衛門より優れた、100人乗っても大丈夫的な望楼部の木組みを発見してしまった場合、(洛中の住所みたいな)「日本総天守棟梁・上がる」の称号を贈りたいと思います(応援します)。
 
名古屋市・岡部又右衛門邸跡
http://www.city.nagoya.jp/ku/atsuta/machi/meguri/atsuta/sira/nagoya00000663.html