安土城 掲示板
[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

タイトル安土
記事No: 375 [関連記事]
投稿日: 2007/09/29(Sat) 14:28
投稿者大陸進出

宮元健次著「神社の系譜 なぜそこにあるのか?」(光文社新書)
立花京子著「信長と十字架−天下布武の真実を追う」(集英社新書)

 ↑これらの2冊を読み、だんだん安土占地の理由が判ってきました。
 前者は季節を知り、未来を予想する神社のネットワークの解説や天海による徳川家康の神格化のノウハウ=「日吉大社(山王大権現)−岡崎城(生誕地)−駿府城−久能山」の東西ラインと「久能山−富士山−日光東照宮」家康再生復活ライン、「日光(北極星)−江戸(北斗七星)」の南北ライン。
 因みに、織田家はもともと越前(福井県)織田荘の発祥で、剣神社の神官だったそうです。ですから織田家の嫡男信長も武将でありながら、神道奥義をも身に付けていた可能性が高く、安土選地にフル活用したと思います。秀吉家康も信長の神道奥義を身に付けて、迷いを捨てて天下を取りにいったと考えられます。
 例:気象衛星のない時代に、日の出日の入りで冬至と夏至を知り、田植えの時期、梅雨入り&明けなど生活に必要不可欠な現象を予想する。信長は入梅を待ち、今川軍が鉄砲を使えない状態で桶狭間を奇襲し、梅雨明け(自分が鉄砲隊が使える)を待って、長篠の戦いで徳川軍に加勢した(お目当ては津具金山?)。

 また後者については「天下布武」(七徳の武=天下人)は源頼朝の「天下草創」、「天下静謐」、「天下の義」などをベースに考案された。信長はイエズス会の操り人形だったという衝撃的な内容で、比叡山延暦寺焼き討ち、明国進出はイエズス会の指示、本能寺の変は傲慢になり言うことを聞かなくなった信長を光秀に襲わせ、秀吉へ首の挿げ替えをした事件というもので、古文書の解読(読みやすく現代語訳してあります!!)と信長政権の全体像(細川 藤孝、「死の商人」津田宋久のあやしい行動)の緻密な組み立て方は、内藤昌著「復元安土城」に匹敵する読み応えのある力作です。

 これらをまとめて安土選地の理由について考えてみました。

●安土占地理由

【実利的&物質的な理由】
-主要東山道と八風街道(伊勢方面)の交差点(∵すでに六角氏が観音寺城で近江支配に便利な街道を整備していた)。
 →瀬田の唐橋、(京都⇔安土間の)東山道の拡幅整備、下街道(佐和山-安土-京都バイパス)の整備だけで済んだ。
-(その日のうちに舟で【上洛】できる)【常楽】寺港の直轄支配。
-湖上航行中の信長を護衛するための(沖ノ島)水軍の存在。

【宗教的&精神的な理由】
−日本列島の中心(琵琶湖)の真ん中(大中湖、伊庭湖、弁天湖、西ノ湖)の中心【水平方向x軸の中心:x=0】
−「豊葦原の中つ国」そのものの風景。高天原と黄泉の国の中心【垂直方向y軸の中心:y=0】
  →【(x,y)=(0,0)】 ∴安土山頂=日本列島の中心地点(須弥山)。
−【南北ライン】
  「越前織田荘−気比神宮−愛発関−竹生島−安土−尾鷲」 
−【東西ライン】
  「生野銀山−柏原−貴船山−鞍馬山−安土−熱田神宮(勝幡城・那古野城・清洲城)−津具金山」
−【京都−岐阜ライン】
  「京都−安土−大垣−岐阜」
  →3直線の交点


-安土城跡を中心とした地図(Yahoo)
 http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.9.8.345&lon=136.8.31.448&sc=9&mode=map&type=scroll
 

 【南北ライン】
 「越前織田荘−気比神宮(けひじんぐう)−愛発関(あらちのせき)−竹生島(聖地)−安土−尾鷲(九鬼水軍)」
  ※越前織田荘=織田家発祥の地。
  ※勝幡城=信長誕生の地、那古野城=信長最初の城、清洲城=桶狭間の戦いの時の居城。
  ※気比神宮=福井県敦賀市にある日本海航路・北陸道の総鎮守。大鳥居は春日大社と厳島神社とで三大鳥居。
  ※愛発関=越前と近江の国境の北国街道上の関所。不破関(岐阜県)と鈴鹿関(三重県)とで三大関所。
  ※尾鷲=九鬼水軍の本拠地。伊勢長島の一向一揆を海上から攻撃して鎮め、鉄甲船を作り堺湾で毛利水軍を撃破。

 【東西ライン】
  「生野銀山−丹波柏原−貴船山−鞍馬山−安土−熱田神宮(勝幡城・清洲城)−津具金山」
  ※生野銀山=信長・秀吉・家康が直轄地とした兵庫県の銀山http://www.ikuno-ginzan.co.jp/rekishi.html    
  ※丹波柏原(かいばら)藩=織田信雄の子孫が江戸時代1695(元禄8)年に封じられた。兵庫県丹波市柏原。
  ※貴船山(神社)=古来から神聖な信仰の山 「丑の刻祭りと貴船神社」http://www.kibune.or.jp/jinja/tayori/12.html
  ※鞍馬山(寺)=真北(毘沙門天)に位置し京都を守る天狗(=山の精霊)の最高位山。山伏の山岳信仰の聖地。
           源頼朝の異母弟、源義経が修行。貴船鞍馬=京都の奥座敷
  ※熱田神宮=桶狭間の合戦の戦況祈願→戦勝のお礼に築地(信長)塀を寄進。三種の神器のうち草薙の剣を祀る。
  ※勝幡城=信長の生誕地。那古野城=信長初城主。清洲城=天下取り開始の城(桶狭間勝利時の居城)。
  ※津具金山=「信玄坑」。戦国最強を謳われた武田騎馬隊の軍資金。長篠の合戦(1573)後、信長直轄地に。

●天主台の意味     
 
【外部七角形】→七徳の武&北斗七星

 ※天下布武の「武」は武力行使そのものではなく、「七徳の武」で、「武力行使の七つの目的(=禁暴、治兵、保大、定功、安民、和衆、豊財)を持った者が天下を治めるに相応しい(春秋左氏伝)」という意味だそうです。
 −「五徳の冠者」=後鳥羽院の時代、「平家物語」の作者とされる信濃前司行長が白楽天の「新楽府」の詩文につき御前で討論する当番に召し出された際、七徳の武を題材に作られた舞曲「七徳の舞」のうち、二つの徳が何であったかをド忘れしてしまい、「五徳の冠者」と不名誉なニックネームを付けられ、学識が優れていることに名声があった行長は憂いのあまり学問を捨てて遁世した(吉田兼好の随筆「徒然草」第226段)。
  →信長は「五徳の冠者」にならないように天主台を七角形にしてそこに住んだと思います。
  →2階(三重目)の空中舞台は「幸若舞(敦盛)」に加え、正統な天下人になるための「七徳の舞」を舞うためであったかもしれません。

 ※北斗七星は天帝(北極星)の乗り物で、真北にある琵琶湖の聖地、竹生島を北極星に見立てる。
 −昼は熱田神宮(勝幡城)から東西ラインに沿って天照大神(太陽)、夜は竹生島(越前織田荘)から南北ラインに沿って天帝(北極星)を迎えて一心同体→常に天の主となり、24時間戦える仕掛け(天主閣)を作る。
 −ひょっとすると夜は天帝への目印として、5階八角堂に灯りを灯していたかもしれません。夕方から夜にかけての湖上交通の安全確保も兼ねるので一石二鳥です(∵近江領民に新領主織田信長の威光を見せつける)。


【石倉六角形】→亀の甲羅&六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天道)

 ※古代インドの宇宙観では【蛇→亀→三頭の象→大地→九山八海&須弥山】で5点セットですから、「蛇」石を地下に埋設し(もしくは砕いて天主台の石垣に使用?→山頂引き上げ作業は城下と漁農村の連体帯を高めるイベント)、平行四辺形の3隅(南西を除く)を切って「三頭の象」(→七徳の武と北斗七星が出現)、六角形の石倉で「亀」を表象して「大地」を作り、その上に「須弥山(天主閣)」を建てる。天主台を横から見るとこの5点セットが下から上に順番どおり並びますhttp://www.avenue.co.jp/~pdfland/12_kumi.html
 ※信長は第六天魔王を自称しました。第六天とは、六道の最高道、天道のうちの欲界六欲天の最高位にある天で、この天に生まれたものは、他人の楽しみを、自由に自らのものとすることができるそうです。信長は全国の茶器の名器を収集していたということでそのものずばりといえます。
 また石垣礎石群の南北軸は、磁北に対して東に6°10′ずれていますが、日本付近では磁北と真北が5°〜7°ずれるので、ほぼ正確に真北を指しています。また石倉南北面は東西軸に対して微妙に南東に傾いていますが、石倉をより正確に熱田神宮の方角に向けようとしたとすると、穴太衆の石積み技術は正確無比ではないでしょうか。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 返信フォーム (この記事に返信する場合は下記フォームから投稿して下さい)
おなまえ ※必須
Eメール 公開または未記入   非公開( Webメール利用 )
タイトル sage
URL
メッセージ   手動改行 強制改行 図表モード
画像File (←130kB程度まで)
Exif情報を   削除しない  削除する
暗証キー (英数字で8文字以内)
プレビュー   

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 暗証キー