安土城 掲示板
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タイトル天守指図の信憑性
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投稿日: 2007/09/28(Fri) 17:01
投稿者大陸進出

天守指図の信憑性 画像サイズ: 370×450 (45kB)  内藤昌著「復元安土城」が自分の本となって気付いた細かいことがたくさんありました。やはり借りるのと手に入れるのでは雲泥の差がありました(^^) 今日は吊灯篭と擬宝珠に引き続き、5階と6階の望楼部における発見についてご報告します。

Q.なぜ天守指図は西が上なのか?

 バリアフリーが叫ばれる欧米化(?!)した市民社会では上座と下座の区別がなくても問題ありませんが(出入り口=下座)、主従の上下関係を前提に成立している封建時代に上座と下座の明確な区別がない建築というのはありえません。例:段差や仕上げの差別化、「御座」「一段高し」「一段低し」「上様」「下々」…etc.
 神仏の住む天上界(=完全数「8」)を示す5階八角堂では、小屋の段からの階段を登り、添付図のように狩野永徳の描いた鰭板(鯱と飛龍@青海波濤)と襖絵(餓鬼畜生・阿鼻地獄)、平三斗組で支えられた海老紅梁(龍の彫り物載せ)に囲まれた外陣を通って「片側に24レーグアもある巨大な湖や美しい城下町、反対側には農村や城砦が点在する開けた田園風景」を眺めながら縁側をグルリと一周し、正面(西=上座)に釈迦説法図を見る出入り口(東=下座)から内陣に入ります。
 この東西の上下関係は、地階石倉の祈祷室(丸格子から西に「天下の中心」宝塔を独り占めする)や登閣御門と併せて、東が出入り口(=下座)となる天主台の遺構からも、天守指図の信憑性を裏付けてくれます。
 6階天主室へは、内陣の北端に設置された天上階段を(正面に釈迦説法図を、同じ目線に天人影向図を見ながら)登り、下座から直接6階に行けるようになっています(これよりわしは天上界におわす神仏をも超越し天の主となるぞ!!ワクワク!ドキドキ!)。また6階から降りる時は、天上階段脇の襖からすばやく階下への階段に回り込めるように工夫されていて、戦国時代の大工棟梁の面目躍如といった感じです。

∴A.西(京都)が上座で出入り口(東国)が下座だから。
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 そしてここ5階には、安土城天主が日本列島のヘソ(=東西の中間点)に位置していることを示す演出がもうひとつあります!

 5階八角堂の付け根の千鳥破風は小屋の段の明かり取りですが、その両脇下の軒に東西それぞれ2ずつ取り付けられた飾りの小破風も、日本列島そのものを一つの御殿と見做し、朝廷と武門の上下関係を意識して、以下のように作り分けられているのです。

西(朝廷=上座)優雅でお洒落な唐破風(庇)×2
東(武家=下座)豪放磊落な切妻破風×2


 天守指図が捏造だとすると、(日本側資料に天主閣⇔本丸行幸御殿の渡り廊下の記述がないので)江戸幕府の厳しい鎖国監視体制をかいくぐって、(せっかく追放したはずの)宣教師の膨大な「布教報告書」をイエズス会本部(キリスト教は禁教!)から入手し、読んでいるのが発覚すれば池上右平本人は間違いなく見せしめのために磔刑になりますし、「御大工」として召抱えていた加賀藩前田家に多大な迷惑がかかる(∵江戸幕府から監督不行き届きで厳しい処分が下る→お取り潰しや僻地に国替えの危険)と知りながら、しかも常に弟子や出入り業者に密告者がいないか気にしながら、全文をポルトガル語から日本語に訳して(→幕府の厳しい監視下にある通訳か辞書が必要)安土城の部分を特定し、その意味を完全に理解しなければなりません。
 さらに国内の移動すら大変な(「入り鉄砲に出女」を警戒して大井川の橋をあえて掛けなかった)江戸時代に「信長公の祟りがある」として畏れられ、不可侵の聖地とされた安土城跡に分け入って、崩れた天主台を発掘し大きさや形、向きまで正確に復元する(→でないと1階平面図が捏造不能)だけでなく、本丸(行幸)御殿をも発見して位置や大きさ、向き、天主台上端との高低差まで特定していた(∵両方の詳細が判らなければ「渡り廊下」を捏造できない)のですから、相当大規模な発掘調査活動になります。
 鬱蒼と茂った藪や林を伐採したり、積もり積もった土砂や瓦礫を取り除くための多くの人足や道具が必要となり、少なくともそれを許可したハ見寺にはその記録が残っているはずですし、地元安土町の協力がなければまず不可能(∵金沢で大量&長期間の通行手形の申請が必要→記録に残る)なので、人々の伝承として残らないはずがありません。

 そもそも江戸時代に「(外様大名の)加賀藩の御大工(=櫓や橋や舟を構築できる)」が何週間も近江安土に留まり、天皇のいる京都に間近な琵琶湖岸の旧城跡(軍事施設)で何かを企んでいるとなれば、謀反の疑いありとして一国一城令に触れるので(福島正則は幕府に無断で広島城の台風で崩れた石垣を積み直しただけでお取り潰し…T_T)、まず加奉公先の加賀藩前田家から発掘調査の目的を厳しく「詰問」されるはずで、次に京都所司代を補佐して有事の京都警固を任され、「五街道」である中山道や下街道(朝鮮人使節が京都⇔江戸間を移動)の通行【出鉄砲に入り女】を厳重に監視していた彦根藩や膳所藩から疑いの眼差しでの厳しいチェック、最後に江戸幕府の裁定と許可も必要ですから、いくら加賀藩前田家が徳川将軍家と親密とはいっても(逆に親しいからこそ)、念には念を入れてトップ同士自ら話を通しておいて発掘作業を円滑にするために5者すべての記録に残っていなければおかしいのです。 
 逆に言うと、東照大権現(神君家康)が命懸けの大坂夏の陣【城攻めの仕上げの総攻撃で手薄になった本陣を真田幸村に突かれ自害を覚悟(あと一歩というところでわしも信長公の二の舞か?!)→わずかな側近だけで命カラガラ脱出】を以ってやっと終結させた忌まわしい戦国時代の象徴でもある安土城を復活させる(=桓武平氏を名乗り、結局戦国乱世にピリオドを打てなかった城主信長の以降の復活→相対的に清和源氏幕府の威光を下げる)ために、(飢饉や地震、火事、大奥の贅沢三昧のせいで常に財政難→より優先度の高い江戸城や大阪城、二条城の天守すら再建しなかった)江戸幕府が発掘調査を命令しない限り不可能なのです。単に後世の語り草にするためだけに、(家光の日光東照宮直接造営以来、綱吉から吉宗の時代→幕末を通じて)常に綱渡りの幕府財政を使って、安土城の天守指図を捏造させることはありえないのです。また外様大名の財政を圧迫させるために捏造させることもありえません。その目的なら江戸城、大阪城、二条城天守閣再建の方がはるかに一石二鳥で効果的です!安土城の指図だけ捏造させても、効果や目的はもちろん、幕府に何の利益にもならず、幕府のパワハラとしてもまるで意味不明になります(o_O)? これで江戸時代に池上右平が捏造した可能性が消えます。

 近代化した富国強兵(産めよ殖やせよ)で人口がどんどん増える明治時代以降ならますます記録に残りますから、1940(昭和15)年以前に捏造された可能性が消えます。残る1940年以降に捏造された可能性はどうでしょう?その時に初めて、上部が損壊していた天主台の石倉南面の補強をしたくらいですから、それを内(※北東隅の洗所の階段)外とも築城当時の天主台上端平面を完璧に復元しない限り、それに沿った形状の1階平面の捏造は不可能(∴それ以上の階も同様に不可)です。なにより(内藤昌先生以外に)大規模に天主台を発掘調査し復元した人の報告書や論文が残ってないのはおかしいです。これによって1940年以降に捏造された可能性も消えます。最後に内藤昌先生自身が天守指図を捏造した可能性はどうでしょう?信長公記や安土日記と宣教師の記述だけで、天主台上端形状が完全に判らないまま1階平面やその上階を捏造し、本丸御殿への渡り廊下を付け加え、記録や日本建築の前例にありもしない吹き抜け空間を捏造し、そこに宝塔(∵多宝塔に例えた記録は存在?)、それ以外にも、その独占祈祷、空中舞台、天下橋を収めた上、自らの判断で5階と6階の差し違えまで再訂正して、(平屋ならともかく)細部の木組みにいたるまで現実性を持った7階建ての木造建築にまとめることは不可能です。まともな建築学者のすることではないと思いますし、内藤先生がそういう人物でないことはその数学の教科書みたいに緻密で論理的な著書からも明らかです。つまり天守指図を手にしてからひときわ高いモチベーションをもって天主台を発掘調査を開始し、復元したのは間違いなく、内藤先生はシロとなり、天守指図は本物だと言えるのです。屋内保存とゎいえ1992年以来15年間倒壊していない「信長の館」復元天主望楼部が何よりの証拠です(^^) 


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