タイトル | : Re: 安土城天主は三度建建てられた? |
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投稿日 | : 2007/09/27(Thu) 23:13 |
投稿者 | : 淳也 |
天正4年の4月1日から石垣工事が始まる事から考えると、
この時点ではすでに天主台の造成工事が行われていたはずで、
造成工事中の天主の近辺で待っていた場合でも、
『兼見卿記』に書かれるような表現は出来るのではないでしょうか?
ただ、信長のもとには様々な使者が面会に訪れていて、
天正6年1月12日の『津田宗及茶湯日記』でも、
>天主を始め方々拝見見申候、其後、
>黄金見せさせられ候はん由成らせられ、上意候て、
>たつたつさんの絵の御座敷に相待ち申し候に、
>かうさくの絵の御座敷にて見申し候、
>黄金一万枚ほど見申し候。
工事期間中の仮の御殿とはいえ、信長の住んでいた御殿は、
障壁画が描かれた本格的なものだったようなので、
室町時代の上流武士の屋敷の定型である楼閣建築(この場合は天主か?)
が御殿に付属しているのは、ある意味常識かもしれません。
また、あまり考えたことが無かったのですが、
安土山における信長の仮御殿はどこに建てられたのでしょうか?
石垣工事の関係からいって、主郭部分でないことは確かなのですが、
伝堀久太郎邸か馬場平あたりでしょうか?
一家臣の厩としては立派過ぎると発掘調査報告で言われている、
伝秀吉邸が、実は工事中の信長の仮御殿だった可能性も・・・。
とはいうものの、
よく考えると、岐阜や小牧山・清洲では信長はどのような構成の屋敷に住んでいたのか、
全く解らないとしか言いようがないので、この件はコメント無しということで・・・。