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タイトル安土城天主は三度建建てられた?
記事No: 371 [関連記事]
投稿日: 2007/09/27(Thu) 17:53
投稿者Tm.

今回の「天主倒壊問題」の議論のなかで知ったことなのですが、
『兼見卿記』天正4年の3月4日の条には

  然間登城、相待天主近邊、左大将殿自普請御皈城、

とあり、築城が始まって2ヶ月後の時点において、既に信長の
御座所(城)には「天主」が建っていたようです。

兼見はそれまでにも光秀の坂本城で天主の作事を目にし(元亀3年12月24日)、
義昭の「御城」では天主の修築に借出されている(同4年4月21日)ことからも、
物理的に「天主」の定義を理解していたと考えられます。

その上、同年7月には破却された「御城」の天主(坤角三重櫓・西之御楯)が
安土へと運ばれており、かつて西ヶ谷恭弘氏は同7年完成の天主の上部が
それではないかとのトンデモな説を主張されていましたが、急造されたであろう
天主に替わり、新たな天主とされたのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、天正7年に完成した天主は三代目であったことになりそうですね。


タイトルRe: 安土城天主は三度建建てられた?
記事No: 372 [関連記事]
投稿日: 2007/09/27(Thu) 23:13
投稿者淳也

天正4年の4月1日から石垣工事が始まる事から考えると、
この時点ではすでに天主台の造成工事が行われていたはずで、

造成工事中の天主の近辺で待っていた場合でも、
『兼見卿記』に書かれるような表現は出来るのではないでしょうか?


ただ、信長のもとには様々な使者が面会に訪れていて、

天正6年1月12日の『津田宗及茶湯日記』でも、
>天主を始め方々拝見見申候、其後、
>黄金見せさせられ候はん由成らせられ、上意候て、
>たつたつさんの絵の御座敷に相待ち申し候に、
>かうさくの絵の御座敷にて見申し候、
>黄金一万枚ほど見申し候。

工事期間中の仮の御殿とはいえ、信長の住んでいた御殿は、
障壁画が描かれた本格的なものだったようなので、
室町時代の上流武士の屋敷の定型である楼閣建築(この場合は天主か?)
が御殿に付属しているのは、ある意味常識かもしれません。

また、あまり考えたことが無かったのですが、
安土山における信長の仮御殿はどこに建てられたのでしょうか?
石垣工事の関係からいって、主郭部分でないことは確かなのですが、
伝堀久太郎邸か馬場平あたりでしょうか?

一家臣の厩としては立派過ぎると発掘調査報告で言われている、
伝秀吉邸が、実は工事中の信長の仮御殿だった可能性も・・・。


とはいうものの、
よく考えると、岐阜や小牧山・清洲では信長はどのような構成の屋敷に住んでいたのか、
全く解らないとしか言いようがないので、この件はコメント無しということで・・・。


タイトル安土行幸と天主
記事No: 376 [関連記事]
投稿日: 2007/09/29(Sat) 17:40
投稿者Tm.

これまで本格的にというか殆んど、信長が山頂の主郭に移る以前の御座所については
議論されてなかったと思われますが、実は重要なことですよね。
その意味でも『兼見卿記』の記述には注目すべきかと思います。

ただ、道筋がだいぶ整備された現在でも山頂に登るのは大変なことで、おそらく
資材の搬入路が確保されたばかりでのそれはかなり困難なことであり、そのような中、
兼見がわざわざ山頂まで登ったとは考え難いのではないでしょうか。
やはり、山麓に設けられたであろう(仮の)御座所でのことだと考えるべきだと思います。

その上でご指摘の天正6年正月の御殿についてですが、自分はそれを山頂部主郭のそれ
であったと考えます。
と言うのも、『信長(公)記』や『津田宗及茶湯日記』における記述には、いよいよ行幸が
実行されたのではないかとされる天正10年のそれに極めて類似するものがあり、従来、
同5年に予定されていたとされる最初の行幸が、実は一年遅れでこの年に行なわれる
予定ではなかったのかと考えているからです。

それと、同年5月の初めに信長が各所に盆石や鉢物を求めていることにも注目されます。
問題の「天主倒壊」はそれから暫らくして後のことで、改めて正月の「天主を始め方々
拝見見申候」という宗及の証言を検討するに、実はこのとき天主は完成に近い状態にあり、
倒壊は誤聞ながら少なからず被害を受け、結果、完成が遅れることになったのではないか
とも考えつつあります。


タイトル天主の工期について
記事No: 377 [関連記事]
投稿日: 2007/09/30(Sun) 22:46
投稿者淳也

> 改めて正月の「天主を始め方々
> 拝見見申候」という宗及の証言を検討するに、実はこのとき天主は完成に近い状態にあり、

外壁パネルや合板を使って工期を短縮している、
現代一般庶民の"ウサギ小屋"の住宅であっても、
ハウスメーカーで約3ヶ月、注文住宅なら最低4〜5ヶ月はかかっているのに、

歴史上初の大規模楼閣建築である安土城天主の建築工事が、
立柱から4ヶ月ほどで完成に近い状態になるとは、とても考えられません。

突貫工事で建てられた名古屋城天守でさえ、石垣工事が慶長15年8月に完成したあと、
天守が完成するのが慶長17年末、つまり2年以上かかっています。

従来言われているところの、安土城天主の工期、天正5年8月〜天正7年5月の1年9ヶ月は、
天守閣の工期としては妥当なところではないでしょうか?

天正6年5月に、工事中の天主が少なからぬ被害を受けたとは、
工期の点から考えて、少し無理があると思われます。


タイトルRe: 天主の工期について
記事No: 378 [関連記事]
投稿日: 2007/09/30(Sun) 23:38
投稿者Tm.

> 歴史上初の大規模楼閣建築である安土城天主の建築工事が、
> 立柱から4ヶ月ほどで完成に近い状態になるとは、とても考えられません。

少々、誤解?を与えたかもしれませんね。
「完成に近い状態」と申したのは天正6年5月の時点であり、まぁ見て呉れだけであったかも知れませんが、
同年に行幸を計画していたとすれば同年中の完成を目指していたのではないかと考えた次第です。

とは言え、秀吉の大坂城天守の場合、天正11年の11月に石垣が成り、翌々の13年4月に本願寺の使者がこれを見学
しているのは、安土城天主のそれと日程的にも一致するものであり、やはり従来の説が正しいのかも知れませんね。


> 天正6年5月に、工事中の天主が少なからぬ被害を受けたとは、
> 工期の点から考えて、少し無理があると思われます。

ただ和田氏ではありませんが、性急な信長のこと、一階の居所部分だけでも完成を急がせ移り住む心算
ではなかったのかとも考えた次第です。

その上で一つの疑問なのですが、少なくとも天正4年中(7月ごろ?)には天主台も完成していたとみられるのにもかかわらず、
木造部の着工が1年も後だというのは何故でしょう。
牛一が「安土山御天主之次第」を天正4年7月15日の木津川海戦の記事の後に挿入したのは、実はそのころに
木造部の着工が始まっていたからではないでしょうか。

つまり、『安土日記』の
  天正五丁丑八月廿四日柱立、同霜月三日屋上葺合候
という記述に年次の誤り、あるいは改竄があるのではないかとも疑われのですが・・・


タイトルRe: 天主の工期について
記事No: 379 [関連記事]
投稿日: 2007/10/01(Mon) 22:57
投稿者淳也

> その上で一つの疑問なのですが、少なくとも天正4年中(7月ごろ?)には天主台も完成していたとみられるのにもかかわらず、
> 木造部の着工が1年も後だというのは何故でしょう。
> 牛一が「安土山御天主之次第」を天正4年7月15日の木津川海戦の記事の後に挿入したのは、実はそのころに
> 木造部の着工が始まっていたからではないでしょうか。

原本信長記には、
「七月朔日より重ねて安土の御普請を仰せ付けられ候」
と書かれているので、4月1日から石垣工事が始まったものの、
石山合戦や上杉謙信の動向により、工事の進行は頓挫していて、
7月1日から工事が再開されたのではないでしょうか?

また、足利義昭の策略によりできあがった、いわゆる第二次信長包囲網打破に向けて、
各方面にわたって人手が取られている時期なので、

私としては、
>天正4年中(7月ごろ?)には天主台も完成していたとみられるのにもかかわらず
天正4年中に天主台が完成していたとはみておりません。


さらに、発掘調査報告書によると、主郭部分の地下、浅い位置に岩盤層が存在していて、
普請にあたっては、岩盤の掘削による造成が行われたと考えられているので、
石垣工事に一年以上かかっても特におかしくは無いと思われます。


タイトル工事中の仮御殿
記事No: 395 [関連記事]
投稿日: 2007/10/20(Sat) 08:13
投稿者大陸進出

> 工事期間中の仮の御殿とはいえ、信長の住んでいた御殿は、
> 障壁画が描かれた本格的なものだったようなので、
> 室町時代の上流武士の屋敷の定型である楼閣建築(この場合は天主か?)
> が御殿に付属しているのは、ある意味常識かもしれません。

この場合の楼閣建築とは、例えば3代義満北山第の金閣とか、8代義政東山殿の銀閣などの2〜3階建ての舎利殿ですね。
一瞬ドッキリしてしまいました(^^)

>安土山における信長の仮御殿はどこに建てられたのでしょうか?
>石垣工事の関係からいって、主郭部分でないことは確かなのですが、
>伝堀久太郎邸か馬場平あたりでしょうか?

これに関しては、
秋田裕毅著「織田信長と安土城」によると、工事中の仮御殿は御茶屋平(北腰越)にあり、
天主完成後はここを信長専用の御茶屋御殿として使用し、後に秀吉が大坂城で山里曲輪として発展させたのではないかとのことです。理由はこの3つ↓(だったと思います)

1.信長専用を示す「御」が付いていること。
2.仮御殿で茶会を開いた記録があること(∵武門のステイタスシンボルである茶会は滅多な場所では開けない)。
3.伊庭内湖の眺望がいいこと&下街道沿いに佐和山まで見通せること(後に江戸幕府が観音寺山麓に将軍上洛用の伊庭御殿を建設)。


 他にもこの本には、安土城下町に関する様々な新しい仮説が展開されていて、とても刺激的でした。
 例えば1581(天正9)年正月に安土城の北、湖に面した松原町の西に御馬場を築いたと記録にあるが、
当時から松原町は城下のド真ん中にあり、しかも湖から離れているので、ここではなく、伊庭湖に面していた須田地区の松原(御茶屋平の目の前)ではないか?という目からウロコの仮説↓が提示されています(∴安土城下には2つの松原町が存在)。
 
 天正9(1581)年1月15日、安土城での左義長(馬揃え)は、まず小姓衆が先払い(人払い)として完成したばかりの松原馬場へ入場。 
 その後を信長が葦毛の馬に乗って御入場(黒い南蛮笠、描き眉、赤い頬、唐錦の上着、虎皮のズボン(^^))。 
 その後を公家の近衛前久(さきひさ)と伊勢貞景、さらに織田家の武将(信雄・有楽斎・信孝・長益・信澄)が美しい頭巾装束で続いて入場。 
 これらVIPの入場行進が終わった後、10頭・20頭の馬を一組とし馬の後ろに爆竹を点火して早駆けさせ、安土城下へ乗り出した後、再び馬場へ戻ってくるという趣向を凝らし、見物人たちを感嘆させたとあり、
 もし松原馬場が城下のド真ん中にある松原だとこのイベントは成立せず、伊庭湖岸の松原だったとすると、下街道沿いに陣取った見物人が、馬場⇔城下間の早駆けイベントを楽しめるのではないかという内容でした。