安土城 掲示板
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タイトルハ見寺の創建時(期)
記事No: 337 [関連記事]
投稿日: 2007/08/07(Tue) 14:17
投稿者大陸進出

ハ見寺の創建時(期) 画像サイズ: 421×775 (95kB) 淳也さんの解説を熟読しました!
内藤昌著「復元安土城」よりも詳細かつ丁寧に書かれており、感動しました。
特に五重目小屋の段の破風内の南北の壁をそれぞれ一間縮めるという発想には驚きました。松の間の棚が使えるようになり、スッキリしました!天守指図+宣教師の記述+木版画をすべて満たす安土城天主の復元を目指す淳也さん、ステキです!
いつの日かぜひアップしてください。楽しみにしています。
 狩野永徳の屏風が発見され天主が再建された時には、津田宗及のように「淳也さん自ら御殿守をご案内いただく。御殿守は七重にして、その様態なかなか筆にては述べ難し」と日記に書きたい今日この頃です(笑)。

 因みに木版画は狩野永徳「安土城之図屏風」の(観音寺山から見下ろした)天主にスポットを当てて模写したものだと思います。、
1.内湖の常楽寺港を出航した船が通過中の入母屋の三間四方の最上階です。
2.その下の真壁華等窓は、たぶん夢殿と黒漆塗り華等窓が印象的な下の階を纏めて簡略化したものです。
(白漆喰壁は、他の斬新な装飾が印象的な部分に比べ、あまり重要ではないと考えて端折ったのではないでしょうか?)。
3.その下の真壁に四角い窓が1間につき2つずつ並んでいるのが、たぶん登閣門の真上にあるお座敷の格子状の壁と窓です。
(大きく急な瓦の葺き降ろしが「門の上座敷」を思わせます)。
4.その下の桧皮葺と思われる廊下は、たぶん天主と本丸御幸御殿を結ぶ渡り廊下です。
(この渡り廊下に窓や壁はないので、板張りの床と転落防止の欄干と桧皮葺き屋根だけだったと思われます。提灯状の照明(金灯篭?)が釣られているので、夜間の足元を照らしていたのでしょう。廊下が曲がりくねっていたり、角度が変化していたので屋根に複雑な皺々が入っているんだと思います)。

 信長が嫌がる長い前置きはこれくらいにして(笑)本題に入ります。最近、図書館にて読んだ

−秋田裕毅著「織田信長と安土城」(創元社)

に衝撃的な内容が書いてありました!

 ハ見寺の創建は天主の完成と同時だったと思い込んでいたのですが、秋田氏によるとハ見寺の創建時期は、天主への信長入居(天正7年5月11日)から「約2年後」の、天正9年7月15日(旧暦の盂蘭盆)だったというのです!
天主内部の細かい造作工事は信長入居後も続けられ、最終的に天主が完成したのは天正9年7月15日の盂蘭盆会直前だったようですが(詳しい論拠はぜひこの本を読んでください)、つまり信長が新築の天主に入居した天正7年5月11日には、ハ見寺はその存在はもちろん建築さえ予定されていなかった、というのです。
 この約2年間の時間軸のズレによって、(1)盆山の謎、(2)能舞台の謎、(3)最上階に釣られていた鐘(≠12個の風鐸)、(4)天主が南蛮寺建築(身廊+側廊)であった理由が氷解します!

ルイス・フロイス
「自らが神のごとく万人から崇拝されるべく、自邸の近く、城から離れた丸い山の上に一寺院を建立することを命じた」
「盂蘭盆会の翌朝、信長は司祭(巡察師ヴァリニャーノ)らに(安土)城に赴くように命令し、今一度、既に彼らが見たことがあるもの(天主や御幸御殿)だけでなく、見物するに値する「別の建物」(ハ見寺伽藍?)を参観させた」

(1)盆山の謎

 安土日記によると、天主内の書院に盆山の間という一間四方の床の間に盆石を置いていたとありますが、フロイスによると、城内のもう一つの山に築いた寺院の本堂の窓のない2階の最上段の棚に安置されていたとあります。
著者の秋田氏によると、これは「天主完成時は、信長の御神体である盆山をどのように天下領民に示すか模索中で、その後、城内の一角に寺院(ハ見寺)を建立し、そこを参拝させるという解決策を見出し、盆山を天主から工事中のハ見寺本堂に移し、天正9年7月15日の盂蘭盆会を利用して天主の最終的な完成とハ見寺の開山を城下に知らしめたのではないか」というものです。
 もしこれが正しいとすると、狩野永徳が描いた「安土城之図屏風」にはハ見寺が描かれていないか、ハ見寺の完成想像図が描かれている可能性が大です!

(2)能舞台の謎

 天主設計時にはまだハ見寺はなかったので、今まで言われてきた
「天正10年5月、徳川家康と旧武田家の重臣をもてなした時、ハ見寺の能舞台を使ったのだから、天主内部に能舞台を設ける必要はなかった」という一段論法は成立しなくなります。

 また、天主三重目の能舞台は一間七尺の二間四方の八畳間で、現在の一間六尺の感覚で言いますと11畳弱ですから、
泥酔して舞わない限り転落の危険はないと思います。フロイスによると信長は下戸だったので問題ないでしょう。
 ところで先月、よりによって大阪府高槻市で織田信成さんが酒気帯び運転で捕まってしまいました!この汚名挽回のため、2010年のバンクーバー五輪ですでに4回転トーループやサルコウからの3連続ジャンプ(!)に取り組んでいるロシアのプルシェンコ(信玄?)とフランスのジュベール(謙信?)を見事撃破し、ぜひ金メダルを二の丸跡にある信長公の墓前に捧げて欲しいです!

 ついでに安土城天主の各部屋のサイズを我々の空間感覚(一間六尺)に直してみました。
これにより天主内部の空間の広がりがより具体的に把握できます。

七尺  1畳 2畳  4畳 4.5畳  6畳  8畳  10畳  12畳  18畳  48畳
六尺 1.5畳 3畳 5.5畳  6畳  8畳 11畳 13.5畳 16.5畳 24.5畳  65畳

(3)天主最上階に釣られていた鐘(≠12個の風鐸)の謎

 天主設計時にハ見寺の構想はまだなかったので、町人向けの時の鐘は城下のお寺で、山腹山麓居住の家臣向けの登城の合図は天主最上階の唐戸を開け放ち、その内部にあった半鐘でしていたと考えられます。
宣教師からヨーロッパの教会では屋根の上に鐘楼があり、時の鐘やミサの合図に使っていると聞き、(これは使える!)と考えた信長が最上階金閣に半鐘(≠12個釣った魔除けの風鐸)を釣らせたのではないでしょうか。その鐘は音色のいい(?)南蛮製だったのかもしれません。
 また携帯がない戦国時代のことですから(笑)、緊急事態発生時、例えば城内での火事や謀反の発生を山腹山麓の全家臣に知らせ「全員すぐに登城せよ!」という「非常ベル」に使うことも想定していたと思います。
ひょっとすると天主最上階→観音寺山→長命寺山→沖ノ島と各山頂の見張り櫓を次々に伝って、安土城の警固を義務付けられていた沖ノ島水軍にも緊急召集を掛けたかもしれません(笑)。

(4)南蛮寺(教会)建築の謎

 天守指図の盆山の間や能舞台の存在から、天主設計時にはまだ安土城内で寺院を建てる構想が具体的な形を取っていなかったので、天主とハ見寺の建築工事が同時進行で同時完成したのを前提に、今までよく言われてきた
「安土城内にはハ見寺というお寺があったので、天主までもが宗教建築である必要はない」という一段論法も成り立たなくなります。

 これ以外にも近江風土記の丘博物館学芸員の秋田氏ならではの城下町の詳しい復元や斬新な仮説(北腰越近くの御茶屋平=山里郭?江雲寺御殿=月見櫓?)、青瓦の謎(慈恩寺の青瓦)についても説得力のある考察がなされています(ただ、天主については宮上案が採用されています)。早く安土城跡に行って見たいです!

 そしてここから私の仮説です(笑)。安土城天主の構造に南蛮寺(教会)建築を取り入れた理由は、優れた音響効果にあるのではないでしょうか?

 間口が狭くて奥行きのある高い天井の身廊とそれを両脇から支える側廊からなる京都の南蛮寺(教会)建築は、木造でありながら残響効果に優れているので、のど自慢の信長が得意の能舞台に(これは使える!)と考え、常楽寺に建てる新しい城に取り入れ、戦の前の入魂儀式として「舞ってみたい!」と思ったのではないでしょうか。
 また西に琵琶湖・西ノ湖の絶景(早く行って見たいです!)、東に東国最強の上杉謙信(Gackt)が上洛して来るであろう、下街道〔東山道の京都-(安土)-佐和山バイパス〕を佐和山〔北国街道と東山道が交わる要衝〕まで見通せる安土城の天主の構造に(ますますもって相応しい!)と考えた信長が、

(1)天皇(京都)将軍(岐阜)ラインと天道(太陽)の交点であることを示す平行四辺形に天主台を積み、石垣の安定のために鈍角にすべく鋭角の隅を切り、本丸御幸御殿と台所郭との渡り廊下を作るためにさらに2つの角の隅を切った。
(2)音響効果に優れた南蛮寺(教会)建築〔身廊+側廊〕で〔岐阜山麓同様〕4階御殿を建て、1階の身廊中心に仏教の宝塔を湧出させた。
(3)さらに最上階の屋根の上に夢殿(聖徳太子瞑想室)と金閣(展望室&鐘楼)を載せるべく、身廊中心に宝塔が湧き出した1階部分を天主台内部に掘った地下の石倉に差し込んで安定させた。
(4)天主台の残りの空き地に(北)大きな倉庫(西)武者走り(東)台所と登閣門の見張り用の縁を建て、火矢対策のため、また黒漆鉄製狭間の存在から、雨天や深夜早朝の寝込みを襲われた場合に備えて、寝間着のまま天主から鉄砲を撃ちかけられるようにそれらを瓦屋根と漆喰壁で覆い、4階御殿と一体化したのではないでしょうか。つまり、

安土城天主閣=天主台(天皇将軍天道の中心)+音響効果に優れた南蛮寺(教会)建築+能舞台+宇宙の中心である宝塔・仏舎利(南無妙法蓮華経+永楽通宝)+黄金の茶室+橋と縁(大奥)+聖徳太子(夢殿)+足利義満(金閣)+聖堂鐘楼+瀬戸内海→日本海を意識した青瓦+中国を意識した唐様赤瓦(「碧瓦朱甍輝日辺」by安土城を見たお坊さんの漢詩)+黄金の国ジパングの王=信長自身(?)

 まさに古今東西の宗教(南蛮・天竺・唐)、唐と日本の政治(聖徳太子、足利義満、文王、太公望)のハイライト(名場面)と武家文化(茶の湯)・芸能(能樂)を要約・具現化した天下人ならではの総合建築といえます。

 いずれにせよ、秋田氏の説によりこれらの謎は氷解し、残る最後にして最大の謎は「蛇石」ということになります。
単なる庭石や名石として見せるためなら、通行の邪魔にならずに目に付く天主台前の御白洲か本丸御幸御殿の庭に置かれていたでしょうし、もし誰かを「蛇に睨まれた蛙」にしておきたいという意図が隠されていたとするなら、それは安土築城目的の上杉謙信か、将軍足利義昭か、正親町天皇〔朝廷〕に向けていたことになります。
 もし京都の足利将軍家や天皇家に向けられていたなら、中枢部の西側にあった二ノ丸御殿かその直下の長谷川屋敷の庭に置かれていた可能性が高いと思います。あまりにも縁起が悪すぎるということで、天主焼失後(見せしめのために?)下から火で熱したところに冷水を浴びせて粉砕され、山腹に転がされ放置されたのでしょう。
 
 淳也さんは「蛇石」はどこに置かれていたと思いますか?

追伸
「よみがえる邪説!平楽城」天主の最上階だけに赤瓦を葺いた理由は、
大きさはポルトガルの瓦と同じだが、「外から見ると」花か薔薇に金箔を塗ったように見える(by宣教師)とわざわざ書いているということは、逆に言うと「外から見ないと見えない部分=最上階の屋根」に葺かれているということだと思ったからです(すっかり安土城マニアになってしまいました!)。


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