| 歴史と建築が好きな高2の者です。 「功名が辻」で千代や一豊ではなく、信長に更に興味を持ってしまい、偶然このサイトを発見して、充実した内容にとても興味を惹かれました。天主閣は焼け落ちてしまいましたが、築400年経った現在でも原型を留めている、堅牢な基礎を作った石垣職人の、高い技術には本当に驚かされます。 今日は、信長の大陸進出への野望を念頭に、信長が、坂本でも、長浜でも、大津でもなく、観音寺山でもなく、西ノ湖に半島状に突き出た目加田城を選んだ理由について、そこでもしもわたしが信長だったら…と仮定し、思いついたことを書き込ませていただきたいと思います。 ご存知のように「安土」は信長の命名で、それ以前は目加田山と呼ばれ、安土城のあった場所に目加田氏の居城、目加田城がすでに存在していたそうです。 信長は目加田氏に城からの立ち退きを命じ、「安土」と改名してその跡地に安土城を築きました。美濃の稲葉山城を「岐阜」と命名し、稲葉山城の跡地に岐阜城を築いたのと似ています。 わたしが思うに、目加田城選択の最大の理由は、沖島水軍と西ノ湖の活用ではないでしょうか。 そして目加田城跡地に築いた信長の安土城を読み解くキーワードは、以下の3つではないかとおもいます。
1.京都(天皇)と岐阜(将軍)の中間。
天主台の独特な形についてですが、京都(天皇)⇔岐阜(将軍)軸と天道の交点であることを表したかったのではないでしょうか。 添付した画像を参照してくださし。 信長は、100年続いた乱世で財政も権威も地に落ちていた天皇家と(足利)将軍家に財政援助して、両者を再興させました (後者は義昭の度重なる裏切りに業を煮やし、ついに滅ぼしてしまいました)。 信長の野望は、正親町天皇の皇太子を即位させて朝廷を支配し、長男、信忠に将軍として岐阜に織田幕府を開かせて、 毛利を朝敵として下した後、自らは石山本願寺跡に(大坂)城を建て、瀬戸内海を通じた独占貿易で儲けた莫大な軍資金を元手に、 大艦隊を率いて明を征服し、中国皇帝になるつもりだったと聞いたことがあります。 信長の瞑想室である6階の壁に、200年続いたパックス・ロマーナの4倍、800年の太平を実現させた周の文王、その参謀である太公望、 孔子や老子などの中国の皇帝・賢人・思想家の画が描かれていたのも、それと関係があるのかもしれません。 日ノ本66州の中心に位置する琵琶湖畔に建つ安土城でパックス・ロマーナならぬパックス・オダーナを作ろうとしていたのはないでしょうか。
2.織田水軍の軍事演習場としての琵琶湖+母港(造船所?)としての西の湖+司令管制塔としての安土城天主
沖島、坂本、堅田、打下など、琵琶湖には古くから湖上の水軍勢力が存在し、信長は浅井氏攻撃の際に、浅井支配下の湖北の港に攻撃を命じていますし、 特に沖島には攻撃用の早舟の供出を命じています。 また信長は、1573年に、自領の内海となった琵琶湖で長さ三十間(約55m)、百挺立ての大型船を建造したことが知られています。 島国の日本から中国大陸に海外進出するには強い艦隊が必要条件です。 最終的に海外進出と明征服を目指す信長の目には、琵琶湖、それも西ノ湖が、自らの水軍の軍事演習に絶好の場所と映ったのでしょう。 また西の湖なら目と鼻の先にある沖島水軍の造船術や作戦のノウハウを活かすことができます。 そして西の湖に半島状に突き出した安土山頂に、実際の軍事演習を詳細に眺めて作戦を練るための司令管制塔として、地上6階の高層天主を建てたと推察します。 ということは6階は信長の瞑想室ではなく、作戦室だったのかも? 琵琶湖畔だけなら、坂本や大津でも良かったのでしょうが、艦隊には停泊する母港が必要です。 西の湖なら(織田)水軍の母港として、大規模な土木工事に時間や金が取られることなく、天然の地形をそのまま利用できます。 というわけで、観音寺山ではなく、西ノ湖に突き出る目加田城(後に信長が「安土城」と改名)こそ、我が城を築くのに相応しいと確信したのではないでしょうか。
天主の建物については、細かい意匠や色彩に差異はあるものの、どの復元案も基本骨格は(A)信長が住む3階建ての宮殿部分(地上1階〜4階)と (B)2階建ての望楼部分(5階・6階)の2つから成り、宮殿(A)の上に望楼(B)を載せています。つまり天主=宮殿(A)+望楼(B)ということで、 望楼(B)の6階(3間四方の正方形)と5階(正八角形)については、細かい意匠や色彩に差異はあるものの共通です。 信長が宮殿(A)に望楼(B)を載せた理由は上記の、琵琶湖の軍事演習を眺めるために水軍の司令管制塔が必要だったからではないでしょうか。
人によって見解がまったく分かれる、宮殿(A)についてですが、わたしは、1階2階は天主台石垣に沿った変形多角形(南西の角は隅切りをしていないので変形七角形?)だったと思います。 また宮殿(A)上部の、3階(南北に長い長方形※下記参照)とその屋根である4階の棟は南北だったと思います。
その理由は、日ノ本さんの言うとおり、(木造)建築の常識として以下のとおりです。 −棟は建物の長い方向。 −(渡り廊下を含む)天主の設計図ができあがってから、天主の形状や荷重に合わせて基礎を作ること。 (逆に言うと、天主台が南北に細長い→宮殿部(A)(1〜3階)も南北に細長かった→屋根の棟は南北だった) −日本では雨じまいを重視するため、天主台をすっぽり覆う天主閣が建っていたと思います。 石垣が天主の大荷重を支え、天主が雨水から石垣を保護する、という互恵関係で一体化していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
3.水軍需要と運河で栄える港町
また、軍港としての西の湖に接する目加田山の麓に城下町を築けば、現在の佐世保や横須賀のように、その艦隊への砲弾・ 食料など物資の補給や水兵相手の商売で繁栄できます。 すでに西の湖には中世からの荘園の年貢の積出港であった常楽寺港がすでにあり、これを再利用し拡大することで素早い城下町の建設が可能であったと思われます。 楽市楽座で日本全国から商人を集めたのも、織田水軍への物資の補給、繁栄した安土城下町から上がる税金を、 自らの艦隊の装備強化に充て、石山本願寺での毛利軍に勝利し、更に大陸進出を目指すためではないでしょうか。
2010年のバンクーバー五輪に合わせて、安土城の天主台に、ハリボテで実物大の安土城天主を天主の石垣に作って欲しいと思います。 信長DNAの織田信成さんが金メダル獲得の暁には、安土城に信長の格好で凱旋帰国して欲しいと思いますがいかがでしょうか?
西の湖を実際に見たこともなく、思い違いや全くの妄想が多々あると思いますが、素人の戯(たわ)言と聞き流してくださればさいわいです。 乱筆・乱文失礼しました。 |