タイトル | : 「真説」というよりは「新説」 |
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投稿日 | : 2006/02/01(Wed) 20:05 |
投稿者 | : Tm. |
お久ぶりです。ついに歴史群像シリーズ・デラックス(2)『よみがえる真説安土城』が発売されましたね。
従来、本丸御殿とされていたものを奥御殿と見做す説には驚きましたが、正直言って疑問です。
詳しくは三浦研究室の掲示板の方へ書き込みましたのでご参照ください(また削除される前に?)。
その上で、天主に関しては新たなる問題箇所が見受けられます。
それは以前より注目していた四階の南北にあったとされる四畳半の座敷の扱いであり、四階は
「小屋の段」という呼称からすれば三階の屋根裏階と見做すべきものであり、かの立面構成
からすれば東西の入母屋の内の破風の間とすべきものであって、二階の入母屋のそれを二重造り
にしているのは他に例もなく、梁間が狭いので四畳半であったというのも説得力に欠け(六畳でも良い
ハズ)大いなる疑問と言わざるを得ません。当然、岡山城天守もそのような構造にはなっていません(笑)。
安土城天主を模したとする岡山城の伝承を鵜呑みに参考としながら共通点をかなり断定的に
主張されているのもやはり問題ですね。
それに今回注目されている「冬の陣図屏風」の大坂城天守もそうですが、天守建築における
破風構成の基本は棟向きを交互に重ね上げることが指摘出来、それは単に大入母屋のみならず
張り出しの屋根や千鳥破風を含めて考えるべきものであり、今回の復元案で言えば最上階の
棟向きは南北栄であってしかるべきべきものではないでしょう(それは宮上案にも言えることでしたが)。
さらに言えば最上階の屋根に唐破風の取り付けられていることにも疑問であり、「冬の陣図屏風」の
大坂城はもとより、聚楽第や多く破風で飾り立てられていたと見られる肥前名護屋の天守にもそれが
見られないことから、時代的にその採用はもっと下るものと考えられます。